この世に誕生した時から既に運命が決まっていたならば。いつ生まれ、どうすごし、何者となって名を残すか。それがもし誰かに決められたのならば、それは私が突然、しかも今までやったことのない、新しい、レールがないところへ進もうとしても、結局はただ敷かれたレールを走るのみなのだろう。2000年に生まれた私は発達が遅かったそうだ。両親は心配し幼稚園と同じくらい精神科にも通った。病院の先生はいつも笑顔。それはまるで遊園地のようであった。しかし、そこの裏には「何か」がありそうであったり遊園地のスタッフルームのような、私たちには見ることのできない人間の汚い部分。元々は白い画用紙であったろうに、薄汚れた大人にめちゃくちゃにされたのか。もちろん私たち。いや、その人自身もそれは何かわからない。まるで部屋にガスが注入されていくようであった。嫌な感じがするがそれが何かわからない。気がついた時にはもう倒れている。私は大したものではなく、数回罹ったのみで終わった。


 中学•高校生になると私は大人よりも周りが怖くなっていった。周り。私は決していじめられていたわけでもなく寧ろイジる立場であった。世間の縮図のような学校は無差別に、そして無意味に私を痛ぶった。固く繋がれた周りとの糸がいつ切れるか、切られるか。それが何より怖かった。


 イメージが現実となる時、それは大きなエネルギーが必要だ。例えば受験。「好きな大学に行く私」はイメージでそれを現実にするには勉強をしてエネルギーを減らすほかない。

 ただ、悪いイメージは別だ。悪いイメージは現実になっても大してイメージは減らない。ただ現実にならないようにするためにはイメージをつかう。

 人生をエネルギーに例えよう。エネルギーが尽きると死ぬ。エネルギーを使うのはやはり受験や就活、仕事であろう。しかし、それ以外でエネルギーを使うのは何気ない時にイメージする良いイメージである。

 ボケーっと歩いている時に見えた、コンビニ。新作のおにぎりを見つけて(美味しそうだな)と思い買ってみた。このとき、美味しそうというイメージを確かめる(叶える)

にはコンビニに寄り、お金を払っておにぎりを買う。だから美味しいか否かは置いておいて買った時点でエネルギーは使われた。

どうやら人間は勝手に良いイメージを想像するらしい。

 だから私はネガティブに生きてみた。周りから梯子を外されたことを想像したり…。

ここまで見て、「そんなわけない」と思った人もあるだろう。それは正しいと思う。

人は思ったよりもうまく行くらしい。それぞれの基準が違うにしても。

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