プロジェクト・カイカ前編 第02輪 | 逢条 陽 vs AVE

4月29日 7:26


「い・・・異世界遠征、ルイちゃんねる」


そのエキセントリックな名と、キラキラとした仕草。

それらに呆気に取られつつ、オウム返ししてみると、自身のチャンネルが認知されたと判断したのか、七海は嬉しそうに微笑んだ。


「ふふ、そう。異世界遠征!ルイちゃんねる☆彡」


「って・・・どんなチャンネルなんすか?」


「普通のサイバーキャスター・チャンネル。ホシレモンとか、知ってる?」


「ああ、ホシレモン」


「ちょうど、あんな感じね。バーチャル世界の色んな場所にお邪魔して、そこがどんな場所か宣伝してあげる、みたいな。でも-」


七海が放ったその「でも」には、特殊な語気が込められていた。

「でも」を上から被せることで、直前の説明にすっかり蓋をするかのような。


蓋した後で残るのは、後に続く言葉のみ。

すなわち、それこそが強調すべき本題。


「ある暴露動画がハネちゃって、それで「暴露系」とか言われてるの」


「・・・暴露動画」


一体、何の暴露をしたと言うのだ?

ハネた、ということは、人気者の知られざる事実でも暴露したのか?


そんな好奇心から、気付けば自分の親指が、スマホの上でリズミカルに跳ねていた。


「異、世、界、遠、征、ル、イ、ちゃ、ん、ね、る」


検索、成功。


直後、傷だらけの画面を彩ったのは、バーチャル世界のどこかに存在するのだろう、誰もいない綺麗な砂浜。

それと、その砂浜の真ん中に立ち、ビキニ姿でさっきのポーズを取ってみせる、「ルイちゃん」のアバター。


自分の目の前で、普通に服を着ている女性が見せる、肌を曝け出した煽情的恰好。

それは、この現実こそがむしろ虚構であり、虚構であるバーチャル世界にこそ真実があるのだと錯覚させた。


「ところで、君の名前は?」


さっきまでの笑みを潜め、まるで宝物を授かるように行儀良く、丁重に、右の掌をこちらに差し向ける七海。


その真剣な七海の所作と、恋愛ソングの歌詞を思わせる、「君」という呼び方。

それらが、スマホの画面から、またたきの車内に、自分の注意を引っ張り戻す。


「・・・俺は、陽。逢条 陽」


「あいじょう、よう」


そして、顎先に右手を置き、何かを考えるような素振りを見せる七海。

フリーランスとは言えど、人気商売をしているだけあり、どの角度から見ても、その容姿は丹念に整えられている。


肌はきめ細やかで、車窓から射し込む光の元でも、荒れ乱れた部分が見当たらない。

たるみが徹底排除された頬は、シャープなジョーラインをつくり出している。


すると突如、その顔の輪郭がゆるみ、優しい形に変化した。


「あたし、好きかも」


「・・・え?」


あまりにも唐突な、告白。

その甘い衝撃により、心臓がキュッとこわばる。


暴露系サイバーキャスター。

それは、自らの心情の暴露をも得意とするのだろうか?


「お名前、好きかも」


もとい。

好意の対象は、逢条 陽という名前だった。


しかしそれは、切って離すことのできない自分の一部が、好意のもとで受け入れられた瞬間。

心なしか、自分と七海の間にあった余白が、少し狭まったような気がする。


「あ、ありがとう」


「陽って、ステキな響きだね」


「・・・親父がヒップホップ好きで、ローマ字でYoになるから付けられた名前なんだけど」


「へえ、そうなんだ。インターナショナルなお名前」


インターナショナル。

生まれてこの方、この名に対し、そんな賛辞を受けたことなど無い。


「何て呼んだらいい?」


「いや別に・・・何でもいいっすよ。逢条でも、陽でも」


「じゃあ、ヨーちゃんで!」


瞬間、両手の親指、人差し指、中指をピンと立て、両手でピストルの形をつくる七海。

そして七海は、その突起した人差し指と中指を、ぴょんとこちらに差し向けた。

まるで、その魅惑の銃弾で、ハートを射貫こうとするように。


それは、ラッパーが「Yo!」と言うときに取る、特有のポーズ。

華奢な七海がそのポーズを取ると、男物のシャツを着る女性ような可愛さが感じられる。


「ヨーちゃん、お年は?若く見えるけど」


「18歳」


「やっぱり若いんだあ!もしかして、高校生?」


「いえ、高校は中退したんすけど」


「あら、中退?」


「まあ・・・色々あって」


「ふーん」


七海はそう言って、再び顔を下げ、伏目で少し考え込んだ。

高校中退の部分に、何か感じるものでもあったのだろうか。


そうかと思うと、今度は宙を見上げ、何かを熱っぽく思い描くように呟く七海。


「年下かあ~」


そこに伺えるのは、「年下も悪くない」といった含み。

だとしたら、どのような対象として悪くないと思っているのか。


「あ、でもあたしに敬語とかやめてね!ルイちゃん、で」


ルイちゃん。


続けざまの思わせぶりな態度に、期待がぐわぐわと煽られ、心がふわふわと浮つく。

まるで、桃色の上昇気流が、このまたたきに吹き込んだかのように。


「ヨーちゃん、今日はどこまで行くの?」


「俺は、神那側県空波区まで。だから、東垣内(とがいと)駅まで」


「あ!同じだね。アタシも東垣内駅までだよ。どんな用事?あたしは、隣の縄文駅にちょっと取材があって」


「ああ、えーと・・・」


プロジェクト・カイカ。

それを言おうと、口元が「プ」の形に変わった瞬間、一抹の躊躇がその発声を差し止めた。


今、それを言うべきではない。


現在、自分と七海は、5号車と4号車の間のデッキにいる。

ここは車両間のスペースなので、満席でもない限り、ここに乗客が佇むことはない。


しかし、どうだろう。

自分と七海が跨いだドアの、反対側に位置するドアに、若い男が寄りかかっているではないか。


心なしか、その男は、こちらを見ているような気もする。


恐らくは、日本人。

痩せていて、比較的長身。


タイトなブラック・スーツを着た、二足歩行のキリンが、何匹か描かれた黒いTシャツ。

綿あめを思わせるアフロヘアに、両の耳たぶから垂れた、太めのシルバー・ピアス。


まあ、何かしらの凄い才能を持っているように、見えなくもない。


またたきは、神那川県空波区にある、「東垣内駅」に停車する。

だから、このまたたきの乗客に、他の参加者が紛れている可能性もゼロではないのだ。

その男の、こちらをジトリと見るような視線が、そんな事態への警戒心を、徐々に強めさせていく。


「あいつ・・・こっち見てやがる」


「ヨーちゃん?」


他の参加者に気付かれたら、何が起こる?

お互い、明るく自己紹介して、ざっくばらんに話し始めるだろうか?


いや、まさか。

プロジェクト・カイカは、お友達作りのパーティじゃない。

参加者の人生を変えるプロジェクトなのだ。


とすれば、彼らは自分が参加者だと知るや、密かに聞き耳を立ててくるだろう。

自分の言動をひっそりと観察し、その力量なり弱点なりを分析するだろう。


途端、その男が、自分の首を静かに狙う、捕食者のように思えてきた。

心地好い七色の海に浴しつつ、海影に潜む捕食者に、ごくり息を呑む。


「七海さん・・・ルイちゃん?」


「え?」


「その話する前に、車両移動しない?」


4月29日 7:36


そして、新幹線またたきの床で、「イルカ」がぴょんぴょん飛び跳ねる。


エメラルドグリーンに染まった、膝丈のスカートから伸びる、引き締まった七海の足。

その麻のサンダルに包まれた先の、人差し指にはめられた指輪に、小さなイルカがあしらわれているのだ。


合計2匹のイルカは、車両間に存在する海峡を4回飛び越え、遂に最終地点に到着した。


-またたき17号 1号車。


それは、またたき自由席車両の、一番端。

まるで、地の果てに訪れた厭世者のように、人目を忍みながら、その最前列に移動する。


「ヨーちゃん・・・あの、ダイジョブ?」


大丈夫だ。

何しろ、他の乗客は、片手で数える程しかいない。


この時代には珍しい、紙の小説を読み耽る日本人の老人。

その他、明らかにツアリストと思われる外国人が数人。


どちらも、参加者とは思えない。


「よし・・・ここならいいだろ」


2名用の座席に七海と共に腰かけ、ふうと一息つくと、七海の怪訝な眼差しをジリジリと横顔に感じた。


「・・・ヨーちゃん、何で端まで移動したの?まさか、誰かに追われてるわけじゃないよね?」


「ルイちゃんさ、プロジェクト・カイカって知ってる?」


「プロジェクト・・・何?」


「プロジェクト・カイカ。人工知能の、才能開花プロジェクト」


こちらから目を逸らし、自身の脳内で音声検索でもかけるように、プロジェクト・カイカ、プロジェクト・カイカと小声で復唱する七海。

左右の眉の頭と頭が、互いに迫り寄ることで、その間にある眉間に、疑問のひだが生まれている。


「いえ・・・知らないけど?」


「俺さ、これからそのプロジェクトに参加するんだ。会場が神那側県の空波区にあって、今そこに向かってる」


「人工知能の、才能開花プロジェクト?」


「そう。新時代の人工知能の才能を、誰が初めに開花させられるか。才能の開花に、最も貢献できるのは誰か。そういうのを、ユニ・ユニバースで8人が競い合って、勝者を決めるっていうプロジェクト」


「へえ、何だか面白そう。だから、ここまで移動したってこと?なるべく、他の参加者と鉢合わせたくないから?」


「そう。他の参加者にバレたら、何されるか分からない。ちょっと変なんだけどさ、勝者への報酬が「ご自身の才能を存分に発揮いただける環境」なんだよ。でも、このプロジェクトの裏にはメタモルフォーシスがいて、多分その力を使えば、ホントにそれを実現できる。だから、みんなマジでそれ狙いに来るわけ」


「へえ、メタモルフォーシスが。それ、確かなの?」


「ああ。公式には書かれてないんだけどさ。でも、そっち方面に詳しい俺の友達・・・知り合いが、間違いなく裏にメタモルフォーシスがいるって。サイバリアルムを何台も用意できるのは、メタモルフォーシスくらいなんだと」


「ふーん・・・でも確かに、メタモルフォーシスがそんな条件出すんなら、才能ある人たちは目の色変わるかも。他の参加者のことって、何か分かってるの?」


「いや、それは蓋を開けてみるまで分からないけど、ただ・・・」


「ただ?」


「どう考えても、そいつらは只者じゃない。山のようにいたんだろう応募者たちから、選び抜かれた8人なんだ。ヤバイ才能を持ってるに決まってる」


「ふーん、でもそれは、ヨーちゃんも含めてよね?」


「いや、俺はまあ・・・」


「ふふ、自分で言うのって恥ずかしいよね」


「・・・とにかく、そういう参加者が競い合って、ソラソラっていう人工知能を魅了して、持ってる才能を開花させるってプロジェクト」


「魅了?」


「うん。誰かの才能に魅了されて、自分もそれに挑戦したら、才能が開花したって話、よくあるじゃん。このプロジェクトではさ、俺がソラソラを魅了して、才能を開花させなきゃいけない。ユニ・ユニバースの学校みたいなとこで」


「ふーーん。ソラソラってことは、女の子よね?そのソラソラは、そもそもどんな才能を持ってるの?」


「参加者の数だけ、才能が用意されてるらしい」


「となると、チャンスは平等ってことね?どの参加者の才能も開花する可能性がある、みたいな?」


「そう。でも、そいつらがどんな才能の持ち主かは、まだ分かんない」


「始まるまでは秘密にされてるんだね。でもさ、だったら、他の服装を考えてみても良かったんじゃない?」


七海はそう言ってクスリと笑うと、自分が羽織っている藍染の剣道着を、人差し指の先でツンと突いてみせた。


「これじゃ、剣道の才能って丸わかりじゃない。剣道の才能、なんでしょ?」


すると七海は、その右手をパーの形にしたかと思うと、それをこちらの左手の甲の方に、ゆっくりと下ろしていく。


まさか。

このタイミングで、手と手を重ねようとしているのか?


しかし直後、その不埒な期待は間違っていると気付かされた。

七海の手が伸びたのは、自分が左手に握った、木刀袋の方だったからだ。


そして、それが良くなかった。


-フシッッッッ


「きゃっ!」


「触んな!」


反射的にそれを叫び、七海の手中に収まりかけた木刀袋を、ぐわりとこの身に引き寄せる。


その衝撃で弾かれた七海の右手は、どこに着地することもなく、半端な空中で止まっている。

まるで、七海の当惑を象徴するかのように。


もっとも、当惑しているのは七海一人だけではない。


「あっ・・・ゴ、ゴメン」


「・・・」


七海は、目を見開きながら、こちらの目を凝視している。

何か、未知の巨大生物に遭遇したような驚きと畏怖が、その目に浮かんでいる気がする。


「これ、メチャクチャ大事な木刀でさ・・・俺にとって、何ていうか神聖なもんで、だから・・・」


「ふーん」


だから、七海は悪くない。


そんなことを言いたかったが、七海の冷めた相槌が、続く言葉を打ち消した。

その巨大生物は危険である故、安全を確保するために、距離を取らなければならない。


そう決意したかのような、相槌だった。


「気持ちがこもった、木刀ってことね?」


「あ、ああ・・・そうだね。ゴメン、びっくりさせて」


そして、再びの謝罪の後、数秒間の空白が生み出された。


それは、七海が「年下か~」とぼやく前に生まれた、ホットな空白ではない。

そうしたホットな何かに氷をぶちまけ、その熱とおさらばしようという、氷点下1度の空白だった。


「つまり、気持ちを何よりも優先する。あなたには、そういう価値観があるってことね」


「え?」


その時、七海は自分の目を見ずに、あたかもノートを取るようにさり気なくそれを言った。

こちらが聞き返しても、再びそれを口にする様子はない。


「あたし、ちょっと電話してくるね?」


そう言って、七海は自分の目も見ずに、逃げるように座席を離れた。

足下でぴょんぴょんと跳ねるイルカは、今、とても遠くにある場所に向かってように見える。


「あ、ああ」


そして、その印象の通り。

20分待っても、30分待っても、七海が座席に戻ることはなく、遂には東垣内駅にて、一人でまたたきを降りた。


4月29日 8:12


そして目の前で、黒く重厚な扉が開け放たれた。


寡黙さや、実直さを象徴する黒。

それとは対照的に、扉の内側は純白の布でデコレーションされており、運転席と助手席の背後にそれぞれ掲げられたモニターには、やたらと饒舌な広告が映し出されている。


まるで、この世には何のトラブルもないと言わんばかりの、芝居がかった賑やかさ。

それは、初対面の人間のハンドル捌きに、命を丸ごと預けるという行為の、本質的な危険性を覆い隠しているようだ。


しかし、物事の本質を覆い隠すのはどうか。

覆い隠したら、それはフェイクになってしまう。

だから本来、このモニターにはこう書かれているべきなのだ。


-【注意】あなたは、この運転により死ぬかもしれません。


どうしても賑やかにしたいのであれば、その前提の上で、存分に賑やかにすれば良い話で-


「えー、それでは、行き先はこちらでよろしいですね?」


そのシニカルなファンタジーを実務的な口調で打ち破ったのは、数多のしわを顔に浮かべた、白髪の男性運転手だった。

モニターの隣には、やや若い頃の運転手の写真が、その汎用な名前と共に掲げられている。


「あ、はい。お願いします」


七海 流行。

さっきまで、自分の心中はおろか、この世界をも彩っていた豊かな色彩は、今はもうない。


その色彩は消失し、ひび割れた白黒世界だけが残った。

そして、大気中の有害物質が、そのひび割れから侵入し、内側をジワジワと汚染していく。


「お客さん。本当にこちらでよろしいんですよね?」


そして、その自分の弱気と呼応したように、運転手は不安げに行き先を再確認した。


もっとも、不安になるのも無理はない。

神那側県空波区桐針1。

それが何の施設であるかは、どのマップにも書かれていないのだ。


恐らく、運転者がアテにする、カーナビにおいてもそうなのだろう。


「間違いないです。AVEっていう施設なんすけど」


「・・・エイヴ」


そして、そのしゃがれた声が白い密室にぼそりと落っこちると、タクシーは小さな唸りを上げ、東垣内駅を旅立った。


4月29日 8:18


「それで、エイヴってのはどういう場所なんです?」


だだっ広い国道を、死の可能性を内包した密室が駆け抜けていく。

その密室に、70歳超と思われる運転手が18歳の自分に向けた、世代超越的な疑問が立ち込めた。


「サイバー研究所の施設です」


「サイバー研究所ね。そうなると、サイバー業界にお勤めでいらっしゃるんですか?もしくは、そちら方面の学生さん?」


いきなり、返しにくい質問をしてくれる。

答えは、そのどちらでもない。


「いえ、自分は学生でもないし、サイバー業界の人間でもなくて・・・」


「それでは、剣道家の方ですか」


それは、少々意表を突かれる質問だった。


何故、自分が剣道家であることを、このタクシーの運転手が知っている?

しかし、胴着姿の自分の姿がフロントミラーに映り込んだ瞬間、その疑問は断ち切られた。


「・・・まあ、そんなところっす」


「剣道家の方が、サイバー研究所の施設にどういった御用で?」


「えーと、まあ、そのサイバー施設でプロジェクトが行われるんすけど」


「プロジェクト」


運転手は、その一文字一文字をゆっくりと発音した。

まるで、長き人生の中で自らが経験した、あらゆるプロジェクトの記憶を頭の中に再生させるように。


「・・・人工知能のプロジェクトなんすよ。人間みたいに才能を持った、新時代の人工知能」


「はーあ。人工知能ときましたか。人工知能、ねえ・・・」


どこか思わしくない過去を回想するような口ぶりで、歯切れの悪い相槌を打つ運転手。

それは、記憶もおぼろげな遠い昔の出来事ではなく、まだ記憶が鮮明な過去への回想のように感じられた。


「人工知能に、何か思い出があるんすか?」


「ああ、いえね。私、さっきの駅で、唯一の人間の運転手だったんです。他は、ぜーんぶ無人。人工知能の運転だ。お客さんは若いから、物珍しく感じないかもしれないですどね。昔は人工知能じゃなくて、我々人間が運転するのが普通だったんですよ?」


「それで・・・人間の運転手たちはどうなったんすか?」


「みーんな無職になっちゃった。もうこの商売にね、人間の出る幕なんてありませんよ。私は、経営陣に親戚がいるもんで、たまたま首を切られずに済んでるんですけども」


「・・・無職になった人たちの、その後は?」


「まあ当然、こういう運転以外の仕事を探すことになりますよねえ。でもね、基本は運転しかやってないんだから、そんなに都合良く他の仕事なんて見つかりませんよ。運良く何か見つかったとしても、それも人工知能に奪われちゃうかもしれないしねえ」


その瞬間、タクシーの右側を、目を疑うほど破損した車がよろよろと走り抜けて行った。

まるで、どこか峠の道でドリフトでもして、間違えて崖から転げ落ちたのか、という程にボロボロだ。


その車体はあざだらけであり、あらゆるガラスは傷だらけ。

テールライトは片方が死に、その灯りは一つだけ。


「今ごろ、無一文になってあんな車運転してたりしてねえ。おっと、そんなこと言っちゃいけませんか、ははは」


「はは・・・」


「いやねえ、最近ああいう車も多くなったんですよ。まるで、発展途上国みたいじゃないですか。私は、若い頃に発展途上国にいましてねえ。あれは、何年代だったかな?あんな車を、よく見ましたよ。首都の高速道路に、あんなのがしょっちゅう走ってんだからさ。危なっかしいたらありゃしない」


「・・・何で、あんなゾンビみたいな車が増えたんすか?」


「そりゃあ、簡単です。我々が発展途上国みたいに貧しくなって、車検が廃止されたからですよ。だから、こんな無法地帯になっちゃった」


「えーと、車検っていうのは?」


「ああ、お客さん若いからご存知ないかあ。昔は、公道走るにあたってですね、政府から車の点検を強制されてたんですよ。定期的に、実費でね。税金や保険代合わせると、年間10万円以上の維持費になるんだけども」


「へえ。それは、高いっすね?」


「ええ。その上、円の価値が下がったもんで、材料の輸入費が高騰しちゃってね、どんどん車の値段が高くなったんです。結局、全然車が売れなくなっちゃった。貧困化で、みんなお金がないですから。車買った上に、駐車場代払って、車税も納めて、車検賄う余裕なんてないんですよ。そこで、何が起こったと思います?」


「・・・何が起こったんすか?」


「困った大手自動車メーカーが結託して、政府に訴えかけたんですよ。日本円の価値を上げられないのは無能な政府の責任だ、だから、せめて車にかかる税金くらい緩和しろ。じゃないと車が売れないぞってね」


「なるほど」


「それで政府は、税金を下ない代わりに、車検を任意化したんです。税金はテコでも下げないっていうのが、何とも政府らしいですよねえ。まあ、お客さん、お若いから伝わらないかもしれないけど。とにかくそれが、100年くらい続いた車検制度の、事実上のおしまいだったわけです。以降、お金がかからなくて良いですけど、代わりにこういうオンボロ車を見るようになったんですね」


「・・・そうなんすね」


「何でか知らないけれども、人工知能だけが進化して、他の全部は落っこちちゃった。職も、経済も、治安も、民度も。人工知能が発展して、人間社会も発展するかと思ったら、その逆なんですよ。どんどん、貧しく荒んでいくんです。これじゃあ、発展途上国に逆戻りじゃないですか。こんなおかしい社会を、変えてくださいよ。お客さん、お若いんだから」


少しだけ熱っぽくそれを語りながら、心なしか大胆にハンドルを切る運転手。

チェーンレストランの看板群が立ち並ぶ大通りから、ひっそりとした小路へとタクシーが進むと、周囲の風景がガラリと変わった。


「もうすぐですよ。この、右側の建物ね」


右の窓の外に目をやると、そこには、道路沿いにそびえ立つ「赤レンガの壁」があった。

その赤茶色の壁は、大人の背丈よりも遥かに高く、見渡す限り延々と続いており、終わりというものを感じさせない。


AVEの壁。

恐らくそれは、その内側で進むサイバー研究の秘密を狙う、盗撮者や、侵入者に対する障壁なのだろう。

一方でそれは、歴史ある欧州の城の城壁のようでもあり、堅牢な要塞の防壁のようにも見える。


「何だか、要塞みたいでしょ?」


運転手は、あたかも何かの遺跡の案内人のような口調で次の言葉を放った。


「この壁、昔からあるんですよ」


「・・・昔って?」


「あたしが生まれる前からです」


それを聞いたとき、ふとこの道路の奥底に、未知なる暗室でも存在するかのような気分になった。


何か、おかしい。

AVEは、そんな昔から存在するのか?


もしかして、違う施設に来てしまったのだろうか。

再びスマホに目をやり確認するが、伝えた住所に間違いはない。


いや、サイバー研究施設だからと言って、ピカピカな新しい建物とは限らない。

別に、100年続くサイバー施設があったっていいじゃないか。

そうだ、何を勝手に先入観を持っていたんだろう-


いや、しかし、何かがおかしい気がしてならない。


レンガ造りの長い境界を凝視しながら、ぐるぐると逡巡を巡らせていると、やがて車は、その壁の終わりに到達した。


-ブロロロロォォォォォ・・・


「はい、着きました。ここが入口ね。会計はアプリで済んでますんで・・・どうぞ、お気をつけて」


そう-何はともあれ、着いたのだ。

ずっと追いかけていた、この新たな世界に。


「どうも、ありがとうございました」


そして、会釈しながら感謝を伝え、タクシーのドアを開けようとする。

すると、その時だ。


「あの、お客さん」


運転手による妙に控えめな呼び声に、ドアに伸びた腕がピタリと止まった。


もしかして、決済が失敗したのか?

振り向くと、どこかしら申し訳なさそうにこちらを向いた、運転手の顔が目に入った。


「あのね・・・最後にお節介ですけれども。あなた、ここが昔どんな施設だったかご存知かな?」


「・・・いや?」


運転手は、自らの後頭部をバツが悪そうにポリポリと掻き、こちらと床の間の空間に向け、次の言葉を言い放った。


「あなたね。ここは元々、監獄ですよ?」


かんごく?

その一つ一つの響きが、急激に強まった重力により、タクシーの床へと沈んでいく。


心に拡がる、不穏な感情。

空から注ぐ金色の朝日が、その黒ずんだ拡がりとぶつかり、コントラストを生み出して、一層と黒ずみを際立たせていく。


そんな高濃度の黒ずみの中、タクシーの床に沈んだ言葉を、一つ一つ引き上げる。


「監獄」


そこで、あることに気付いた。

ついさっきまで目にしていたのは、「外から忍び入る者」を阻む壁ではなかった。


壁には、もう一つの目的があるではないか。

そして、その目的のもとで壁を打ち立てた施設を、我々は往々にして監獄と呼ぶ。


「内から逃げ出す者」を阻む目的だ。

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