序章 第08話 | 逢条 陽 vs 特殊武装警備員

4月29日 6:23


-ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ


最寄り駅、余茂(あまりも)駅に向け、木刀袋を握り締め、道着姿で歩み抜く。

このスラム、据田の道を。


ホームレスの住処である段ボール。

あちこちに見える、ぶち割られた窓ガラス。

路上でうずくまる者たちの手には、小銭をせがむ紙コップ。


人生に、満遍なく行き渡ってきた、このカラカラ、ギザギザ、イガイガの空気。

その空気が、呼吸によって気管を伝い、肺へと辿り着く度に。


それが、心の領域にまで浸み込んでくる気がした。


それはむしろ、今の自分の心境に、引き寄せられているのだろう。

まるで、同じ波長を持つ者同士が、互いに引き寄せられるみたいに。


カラカラ、ギザギザ、イガイガ。


-はあ・・・


-大丈夫かしら?


-ホントに、大丈夫かしら?

 

-うまくいき過ぎじゃないかしら?


イライラ、ババア、ふざけるな。


そんな中、気付いたら。

スラムの入口と見なされている、柳が植えられた交差点を越えていた。


瞬間、何かに後ろ髪を引かれた気がして、振り返る。


そこにあるのは、かつて自分が生きていた、いびつな世界との境界線。

その線を越え、べっとりと、体に纏わりついてくる気がした、忌まわしき思い出。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

-今日はオメエの、敗北記念日だ。


-だって、それが陽君でしょ?


-逢条。お前はこれから、あらゆる人から見放されていくことになるんだ。


-俺、もうお前と付き合えない。


-あなた、妙な集団に騙されてるんじゃないの?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


いや、囚われるな。


さっき、それは。

バッサリ斬ってやったじゃないか。


もし、仕留め損ねたのであれば。

ここで、止めを刺すまでだ。


「(もう、ここには二度と帰ってこない)」


そして、再びくるりと前を向き、力を込めて歩んでいく。

新たな世界の、光に照らされた道を。


-ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ


スラムの空気に替わり、黄金の週のきらめきが体を包んでいく中で、歩くこと更に8分。


ようやく、その姿を見せた余茂駅。

そこには、祝日の早朝らしい、数えるほどの人の足取り。


そんな静かな駅前を、改札口に向け、駆け抜けようとした、その時。


「おい」


視界の外から、聞き覚えのない、野太い声に呼び止められた。


振り向けば、そこに。

地獄の扉の守衛みたいに、仁王立ちで構えてる。


迷彩服に身を包み、ベレー帽を頭に乗せ、スマート・グラスを装着した、特殊武装警備員。

略称、特警。


昨今の治安の悪化から、駅をはじめとした公共の空間に、たまに構えていたりする。

その特殊なスマート・グラスで、過去に重罪を犯した人間、挙動不審な人間などを即座に判別。

それらの人間を取り調べ、クーデター、テロリズム、無差別殺傷行為を防ぐ、鋼の国家公務員。


もっとも、そんなに挙動不審だったつもりはないが、呼び止められたからには、対応せざるを得ない。


「・・・おはようございます」


「・・・」


完璧に、不可逆的に無視される、その挨拶。


挨拶くらい返してくれても良さそうなものだが、そうした意向はないらしい。

その目には、全人類が犯罪者に映っているのだろう。


厳つい巨体のてっぺんから、威圧的な視線をこちらに差し向ける特警。


その出で立ちは、もはや軍人のそれだ。

実際、特警には退役軍人もいると聞く。


差し当たり、この男は「大佐」と呼ぼう。

ふと、そんなことを思った矢先、黒髭に覆われた大佐の口から、再び野太い声が発された。


「ボディ・チェックさせてもらうぞ」


こちとら急いでいるというのに、やれやれだ。


自ら大佐に歩みを寄せて、両手を横に大きく伸ばす。

まるで、巨人に降伏の姿勢を示すように。


「・・・どうぞ?」


-パスッ


返事をし終わる前に、大佐の無慈悲なボディ・チェックが始まった。


-パスッ、パスッ、パスッ、パパパスッ


不信を帯びた両手が、ガラ空きの脇に手刀のように刺さり込み、背中全体を探索。

ゴツい掌に、後ろから臓器を鷲掴みにされる気がして、やや寒いものを感じる。


-ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ


そして手刀は掌底に変わり、有無を言わさず、胸から腹を正面から圧迫。

その圧迫は、太ももを通過して、ふくらはぎにまで到達。


この間、大佐はひと時も目を逸らさず、自分の顔周りを監視している。


「反抗的な姿勢でも見せてみろ。身ぐるみ剥がして、タマの裏まで調べてやるからな?」


そんな脅しを感じさせる、無言の威圧。


「行き先は?」


そろそろ終わったかと思った矢先、大佐が、そんな質問を差し向けた。

ありったけの猜疑で、こちらを捻り潰すような声で。


「・・・神那側県空波区、に行くために、まずは東境駅に行きます」


「何をしに神那側県空波区に行く?」


「あ・・・えーと、プロジェクト・カイカっていう、人工知能のプロジェクトに・・・」


「行け」


徹頭徹尾、不快な物腰。

わざわざ行き先まで聞いて、人がそれに答えるや否や、遮るように「行け」とは結構な態度だ。


しかし、そうは言っても、珍しいことではない。

今日始まった話でもなければ、この駅に限った話でもない。


どこでも、これは起こり得るのだ。


自分が生まれた頃は、こんな事はなかったらしい。

それは、日本の治安がまだ良かった時代。

特警など存在せず、全国全ての改札が、スイスイ人を流していた世界。


ふと後ろを振り返ると、引き続きこちらを睨みつける大佐と、目が合った。


「何だ?」


「・・・いえ、何でも」


慌てて、その古き良き日々についての淡い想像を止め、再び、前を見る。

そして、現代の圧から逃れるように、余茂駅の改札を足早にくぐり抜けた。


4月29日 6:53


自身の車の、運転席。

そこで、おもむろに電話の準備をする郷右近は、緊張していた。


元々、顔を見ないで人と話すのが得意ではないこともある。

しかしそれ以上に、これから話す電話の相手が、自分に対して大きな経済的影響力を持つ人物だからであり、更にはその人物に対して苦手意識を持っているからだ。


金にはなる。

しかし、厄介な客。

とは言え、郷右近の仕事の性質上、客の選り好みは難しい。


通称、代行屋。


尾行、盗聴、脅迫、暴行。

そうした依頼を引き受ける、この代行屋という商売は、いつからかフィクションではなくなった。


本当は今すぐにでも実行したいが、それが法に触れるため、不本意ながら踏み止まっている行為。

誰しも一つや二つ、そんな行為に心当たりがあるものだ。


その中で、自らの手を汚すことなく、そうした行為を実現させるサービスがある、と聞いたとき。

大金を払ってもそれを利用したいと思う者が、世の中に一定数存在する。


そこにきて、貧困層の増大だ。

老後はおろか、今日明日を生きるにも心許ない、過酷な経済事情を抱える、社会の底辺。

彼らにとって、代行屋は、資格も先行投資も事業計画もないまま参入できる、ビッグ・ビジネスである。


需要と供給の、必然的交錯。

その交わりは、時代の最先端において、かつてないほど深まった。


そんな中、腕利きの代行屋として違法市場で名を上げて、電話の向こうの人物の耳に入った郷右近。

貧しい生まれの郷右近にとって、金払いの良い客との出会いは、下剋上に他ならない。


しかし、その事実と矛盾するように、郷右近は、時折こう思っていた。


何故、このような人物の耳に入ってしまったのだろうか-


「・・・もしもし」


「ああ」


「今、お話してもよろしいでしょうか」


「よろしくなければ、そもそも電話を取っていない」


「・・・これは失礼。余計なことをお聞きしました」


「余計なことを聞いたと思うんなら、さっさと本題に入ればいいだろう?」


政治家、経営者、もしくは、反社会的集団。

郷右近の客層も様々であるが、この人物は、恐らくそのいずれにも属さない。


と言うのは、自身のことを「聖職者」と表現しているのだ。

しかし、会ったこともなく、素性も分からないので、その真意については不明のまま。


郷右近との接触は、指定された時間での音声通話によってのみ成され、おまけにその声は加工されている。

口調は、遊んでいるのか、怒っているのか、測っているのか、分からないもの。


「それでは、報告させていただきます。うまくいきました。道着姿で来るとは予想外でしたが、ボディ・チェック時に、背中側の帯の内側に設置しております。これから神那側県空波区に向かうと言っていたので、彼で間違いありません」


「・・・」


「あの・・・聞こえておりますでしょうか?」


「聞こえているよ。二つの意味でね」


分からないと言えば、依頼内容も不可解かつ不思議である。

しかし、大金が動いているので、そこに何らかの重要性があるのは間違いない。


この人物から依頼を受けるのは、得体の知れない黒い箱に手を突っ込み、目を瞑りながら内側をまさぐるような怖さがある。

そこに何が入っているのか、何が起こり得るのか、まったく分からないのだ。


「・・・あの、一つ伺ってよろしいでしょうか。先日、この少年の友人の自宅に侵入し、脅迫して絶縁させていますが・・・この一連のご依頼の真意は、何なのでしょうか?」


思い切って核心に迫ると、電話の向こうで、その人物がクスリと笑った。

それは、不思議そうにテレビを見つめる子猫に向ける類の笑みのように感じられた。


「君が知るには、神聖過ぎる」


そこで、電話がブツリと切れた。


-ツーッ、ツーッ、ツーッ


その時、郷右近は、その人物の前に引かれた鉄の壁のようなものを想起した。

自在に形を変えるその壁は、不意に引っ込んだかと思うと、絶望的に立ちはだかったりする。


あくまで、その人物の都合のみで。


-ウィィーーーン


そして郷右近は、スマホをドリンクホルダに放り置き、黒塗りの高級車の窓を思い切り開けた。

自らのコントロール下にある、その小さなガラスの壁が、ほんの少しだけ自分をマシな気分にさせる。


-カチッッ、ボジューーー


しかし、そこに右腕を置いて紙たばこを蒸かすと、空気中に煙が拡がると同時に、自らの心がモヤに包まれていく。


「・・・神聖過ぎる?」


一体、どういう意味なのか。

しかし、その火が根元に到達しても、結論にまでは到達しない。


引き続き、怪訝な表情を浮かべる郷右近は、盗聴用のワイヤレス・イヤフォンを自身の両耳に引っ掛けた。

すると、少年が立っているのであろう、プラットホームの音が聞こえる。


-ゴトン・・・ゴトン・・・


スラムに住む、いかにも幸薄そうな少年。

まさか、この少年が「神聖」という意味なのか?


「・・・分からん」


指の間に挟まった、白と黒の残骸を、駐車場の地面に放り投げる。

するとそれは、誰かが捨てた炭酸飲料の空き缶にヒットし、力なくコンクリートに転がり落ちた。


-トスッ、カッ、コロロ


「考えても分からないことは、それ以上考えないようにする」

これが、郷右近の信条である。


そうだ、妙なことに思いを巡らすのは止めだ。

さっさと、この場を立ち去ろう。


そして、報酬片手に、南国旅行にでも繰り出すのだ。


「行くか」


駐車場に、軽快なエンジン音が鳴り響く。

その時、である。


-ゴツ、ゴツ、ゴツ


助手席の窓を、とある男がゴツゴツと叩いていることに気付いた。

その浮かれた振動音を、無作法に、かき乱すように。


「何だ?」


軽快が、警戒に変わる。

と言うのも、その男は、ある物で顔面を覆い隠しているのだ。


獅子の面。

その顔は黄色く、顔が纏うたてがみは、赤く塗り潰されている。


赤く染まっているのは、ぐわりと開いた口の内側も同じだ。

それは、まるでさっき獲物を喰らったかのような、鮮烈な赤。


両目の位置に空いた、二つの小さな空洞の奥には、男の本当の目が見える。

しかし郷右近は、そこをマジマジと覗き込む気分にはなれなかった。


窓をゴツゴツ叩いているのが、その獅子面男が手に持つ、拳銃であると気付いたからだ。


4月29日 7:01


-トゥィーン


「これから、静丘の温泉に女子3人で旅立ちま~す☆」


-トゥィーン


「名御屋目指して、これから男二人で「またたき」搭乗~!」


東境駅に到着して、間もなく。

新幹線「またたき」のホームにおいて、他の乗客の体の周りに表示された、アルテラの「吹き出し」を見ていた。


Ulterra(アルテラ)。

それは、インターネットのみならず、現実世界に「つぶやき」を表示する、AR型SNS。


彼らがアルテラに投稿したつぶやきは、漫画で見るような「吹き出し」として、投稿者の体の周りに表示される。

そして、他のユーザーは、アルテラをインストールしたスマートグラスや、スマホを通して、それを見ることができる。


つまり、「つぶやき」が「吹き出し」に変わり、それにより周囲の他人が何を考えているかを知り、繋がることが可能になるという、インターネットとリアルが融合したシステムだ。


そのアルテラを通し、このまたたきのホームを見てみると、ゴールデン・ウィーク初日だけあって、泊りがけの旅行に出る人が多いことが分かる。

そして彼らの大半は、その旅を共にする異性を求め、アルテラを利用していたりする。


実際、それは見る前から分かっていた。

皆、遠出をして、くだらない日常から抜け出した気になっているのだ。

そして、その月並みな現実逃避に色をつけるべく、似たような異性を探し求めている。


そんな中、自分は、人生を変えにいく。


現実から逃避するのではない。

現実そのものを、変えにいくのだ。


-後戻りは、できない。


-するつもりも、ない。


-これから、カイカ。


だから、決意めいた感情を込め、浮かれたつぶやき群の中に、それらの言葉を投げ入れた。

勿論、その意味が分かる人間なんていやしないだろうが、それはそれで心地好かった。

これは、新たな世界に乗り込む前の、まじないみたいなものだからだ。


-トゥィーン


「後戻りは、できない。するつもりも、ない。これから、カイトッ、トッ、トッ、トッ」


すると、その瞬間、そんな自らの吹き出しの端から、犬が飛び込んできた。


ホームに、犬?


しかし、よく見ると、犬にしては少し妙だ。

体はやたら金属的で、その表面には毛の1本も見られない。


犬特有の、せっかちな呼吸もないようだ。

その替わり、シルバーの頭部から、規則正しいリズムで、実務的な電子音を発している。


-ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。


それは、人工犬。


最新型のセンサーを搭載した、犬型の歩行ロボット。

あらゆる凶器や火器を検知し、それらの使用を未然に防ぐ、この世で最も賢い犬。


都内の主要駅に、人工犬が配備され始めているとは聞いていた。

しかし、実際に姿を拝むのは初めてだ。


新幹線のホームドアの前には、その犬型調査員の飼い主たちが仁王立ち。

やはりここにもいた、特殊武装警備員。


彼らは皆、防弾チョッキで膨らんだ迷彩服に身を包み、ライフル銃すら肩にかけ、こちらを威圧的に監視している。

その有様を見ていると、何やら、国軍に目をつけられたテロリストのような気分が湧いてくる。


もっとも、ここ最近の、公共交通機関の治安を踏まえれば、この警戒態勢も致し方ないのかもしれない。


スリ、ひったくりなど、日常茶飯事。

時として起こる、放火や無差別殺人。


まして、長距離移動を前提とした新幹線は、停車駅間の距離も、通常の電車より長くなりがちだ。

その間、乗客は鉄の塊の中に閉じ込められることとなり、それはテロリズムや無差別殺人に及ぶ者にとって、都合の良い条件となる。


もはや、新幹線や飛行機といった乗り物は、凶悪犯罪の温床なのだ。

だから-


-グィーン


出し抜けに、ホームの床の方から聞こえた、非日常的機械音。

その冷徹なまでに実直な音波が、鼓膜を不穏に撫で上げた。


足下に迫る、人工犬。

その、何かのレーダーを思わせる液晶型の両目。

それが今捉えているのは、こちらの顔面。


-ウィーン


そしてレーダーは顔を離れ、再び足下に下降。

そこには、「逢条 陽」の刺繡きらめく木刀袋。


だが、その疑い深いレーダーには、それが単なる木刀に映っていないらしい。

新幹線のホームに持ち込まれた凶器。


そう、認識しているようだ。


センサーが仕込まれたその鼻で、犬型調査員が、木刀袋を嗅ぎ回す。

まるで、その剣(つるぎ)に、猜疑の泥を擦り付けるように。


-ジウィーーン、ウィィィーーーン、ムウィン、ムウィン、ムウィン。


何も知らない犬ごときが、大事な剣を汚していく。


何も知らない、犬ごときが。


「・・・いい加減にしろよ。この犬が・・・シッ!!」


横にピンと拡げた舌の上を、滑らすように息を吹き出し、その不躾な犬の鼻を、木刀袋の先でコツンと戒める。


しかし、それが良くなかったらしい。

突如として人工犬は、ホームの天井を見上げながら口をすぼめ、その細い穴から不協和音にも似た「雄叫び」を放ち始めた。


「ガグイッ、グィッ。アイイィィィ-----ィィイン!!」


また、犬だ。

だから犬は、嫌いなんだ。


4月29日 7:05


「窓、開けろ」


-ウィーーーーン


獅子面男の要求通り、助手席の窓を開けた瞬間、車内に嫌な風が吹き込んだ気がした。


「テメエ、特警じゃねえだろ?ガチの特警が、人に見られるとこで煙草なんか吸うはずねえからな」


「・・・」


「何で、特警のコスプレなんかしてここに居る?テメエのせいで、客が逃げただろうが?」


拳銃、客、粗野な言葉使い。

光沢のある黒シャツと、その上からでも分かる、上半身の筋肉の隆起。


それらの特徴から、郷右近は、この獅子面男が裏社会の住人であると確信した。

恐らくここで、特殊な生活リズムの客に、薬物でも販売していたのだろう-そんな見当をつけながら。


「いやいや、申し訳ない」


厄介なのに絡まれた。

よりにもよって、厄介な客の相手が終わった時に。


郷右近は、なるべくこの危険な男を刺激しないよう、慎重かつ速やかに次の言葉を口にした。


「俺は・・・あんたの商売の邪魔をする気なんて、さらさらない。今すぐ、ここを立ち去るよ」


そう言って、そこに一線を引くように、助手席の窓を引き上げる。


-ウィィーーガッッ。


すると獅子面男は、そのせり上がる窓を右手で押さえつけながら、不穏なる要求を車内に送り込んだ。


「待て。人の質問に答えろよ?どてっ腹に、銃弾ぶち込まれてえのか?何で、特警のコスプレなんかしてる?」


さて、どう答えるべきか。

郷右近は、考えた。


その口ぶりから察するに、自分は今、獅子面男の目に、こう映っているに違いない。

特警に扮し、獅子面男の客を警戒させ、ここでの薬物取引を破綻させる、獅子面男のライバル・ギャング。


まずい。

恐らく、非常に。


ならば素直に、「いやあ、自分は実は代行屋で、特警の変装をして少年に盗聴器を取り付ける仕事をしていたんです」と、答えるか?


しかし、代行屋という正体は、客以外に明かしていない。

第一、それを言ったところで、この男が素直に信じるとは限らない。


それならば、強行突破するまでだ。

郷右近は、自身の腰元から拳銃を取り出し、その銃口を獅子面男の眉間に向けた。


-チャッッ


「俺にも事情ってもんがあってね。それをあんたに話すことはできない。今すぐ、ここから立ち去ると言ってる。それでいいだろ?これ以上絡むっていうなら、俺も-」


-グチャリ


その言葉をかき消すように響いた、アルミ缶が踏まれて潰れる音。

音がしたのは、頭の後ろ。


恐らくそれは、さっき煙草の吸殻をぶつけた空き缶。

つまり、運転席側の窓の向こうに、誰かいる。


そして、後方を振り向こうとした瞬間。

郷右近は、その「誰か」が、獅子面男の仲間であると認識できた。


皮肉なことに、その姿を直視する前に。


「うぶふっ」


運転席の車窓から忍び込んだ巨大な刃物が、郷右近の喉笛を、後ろからかっ切ったからだ。


一瞬にして座席に飛び散る、おびただしい量の鮮血。

南国の花を思わせる、ビビッドな赤が、眼前に拡がる。


「事情?んなの、信じるわけないだろ?どこの犬だ?お前?」


その咲き乱れた南国の花は、灼熱の太陽に溶かされたかのように、べっとりと座席のへりまで拡がり、ポタポタとそこから力なく落下していく。


猛獣に食い千切られたような痛みと、薬物注射を打ったようなエクスタシー。

それらが脳内でせめぎ合い、混ざり合う中で、そこにある確信が浮かび上がる。


これが、「南国」の見納めになるだろう。


「って、もう聞こえちゃいないかあ」


実際、頭の後ろから響く、獅子面男の仲間の言葉は、郷右近の耳に届いていた。

もしかしたら、あの少年が乗っているかもしれない電車が駆け出していく音も。


-ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン


しかし、その音は段々と力なく薄れていく。


それは、電車が遠ざかっていくからなのか。

それとも自分の命が消えかかっているからなのか、郷右近には分からなかった。


「考えても分からないことは、それ以上考えないようにする」。


そう言えば、自分にそういう信条があったことを思い出す。

だから、郷右近は、それ以上考えるのを止めた。


-ガタン・・・ゴトン・・・ガタン・・・


そして。

遂には、何も聞こえなくなってしまった。


4月29日 7:07


「動くな!!」


人工犬の雄叫びを耳にするや否や、こちらに駆け寄りながら、大声で威圧してくる特警。

しかし、慌てることはない。


自分が暴漢やテロリストの類ではないことなど、一目瞭然だ。

犬型新兵の勇み足に対して、詫びの一つでもくれることだろ-


「ウグッ」


駆け寄る特警に対し、何事もないことを示すため、前に伸ばした左腕。

しかし特警は、その伸びた左腕を容赦なく奪いつつ、ぐるりと背中に回り込む。

そして、こちらの首を、空いた方の腕で後ろから鷲掴みにした。


背中で「く」の字型に曲がった左の肘。

信じがたい程の握力で、締め上げられる後ろの首筋。

コトリと音を立て、ホームの床へと落下する、木の剣(つるぎ)。


どう考えても行き過ぎな、「テロリズム」の取り締まり。


-コロッ、カララッ


すると、どうだろう。


もう一人の特警が駆け付け、床に横たわる木刀袋をゴツンと蹴り飛ばすや否や、拘束された自分の体を触ろうとしてくるではないか。

こちらも大きな声を出し、あらぬ疑いを振り払うように身をよじらせ、そのボディ・チェックを撥ねつける。


「ふざけんな、何すんだよ!」


「お前こそ、何する気だ?「後戻りはできない。するつもりもない。これから、カイカ」。そう、アルテラに投じたと人工犬から報告があったが?」


「・・・あ」


当の人工犬は、いつの間にかどこかへと消えている。


「これから、カイカ。昔、ここでテロリズムに及んだ人間たちが、爆弾のことを「花」というコードで呼んでいたんでな」


「ち・・・違う!俺はテロリストなんかじゃない!これから神那側県のサイバー施設に行って、人工知能のプロジェクトに参加すんだよ!」


そう、大声で潔白を主張した瞬間、特警の両手とは別の何かが、体をゾワリと撫でるのを感じた。

それは、四方八方から注がれる、警戒の視線。


このホームの、いや、他のホームの乗客すらもが、自分にそんな視線を送っているのだ。


「人工知能のプロジェクトに、木刀を持って参加するのか?妙な話だな?」


そんな目で、見るな。

俺は、テロリストじゃない。

俺は、これからプロジェクト・カイカに向かう、選ばれた人間なんだ-


-ゴグゥゥゥゥアアアーーーー!


瞬間、その異常事態を切り裂くように、ホームに響き渡った轟音。

それは、新幹線の車輪と、その下にあるレールが擦れ合う音。

その音を引っ提げながら、視界を横に貫いていく、黄色い閃光。


新幹線「またたき」の到着。

それはまるで、絶体絶命の事態に駆け付けた、助け舟のように思えた。


「来た!またたきだ!」


乗らなければ、その助け船に。


でも、駄目だ。

体が、全く動かない。


「動くなよ?」


背後の特警の、ドスを利かせた声による脅し。

その脅しと共に捻り上げられる、左の肘と、後ろの首筋。


「まだ取り調べの途中だ。潔白が確認できるまで、新幹線には搭乗させられない。おい、ボディ・チェック始めろ。徹底的にやれ」


「了解しました」


「・・・何だと?クソッ、離せよ!」


動かなければいけない。

仮に、この腕が千切れようとも、新たな世界に向かわなければならない。


「離せ!!俺は、あれに乗るんだ!!」


窮鼠猫を噛むように、背後の特警の股ぐらに向け、一か八かの後ろ蹴りを見舞う。


-ゴスッ!!


「ンガオォッ、貴様・・・」


股間をつんざく衝撃に、顔を歪めてのけぞる特警。

瞬間、あたかも金縛りが雲散霧消するように、体の拘束が解けた。


想定外の事態に当惑する、もう一人の特警。

その当惑が、互いの脳が筋肉に命令を下すまでの時間に、ゼロコンマの差を生み出した。


-ダッ、ダッ、ダッ、ダッッ!ガシッ。


切り拓いたゼロコンマを、前のめりで疾走。

手を伸ばし、拾うのは、床に横たわっている木刀。

蹴飛ばされた剣の、回収成功。


「貴様・・・」


すかさず警備棒を抜き出し、自分を征圧しようと構える特警。

こちらも木刀袋を取り払い、剣の姿を露わにする。


-ファサッッッ


「我々に盾突く気か?止まれ。そこから一歩も動くなよ」


「・・・止まってたまるかよ」


警備棒対、木の刀。

特警2名の背後には、開け放たれた「またたき」の扉。


その扉がガシャリと閉まれば、いびつな世界に逆戻り。

そこには、もはや自分の居場所なんてない。


意を決し、両手に木刀を構え、一歩ジリリと前に進む。


「・・・止まれと、言ってるだろ?」


そこで遂に、後から来た方の特警が、自身の首にかかったライフル銃に手を伸ばした。


こちらを向いた、野蛮な銃口。

傲岸不遜な、権力の暴走。


しかし、その制止とは裏腹に、動きが止まったのは特警たちの方だった。

まるで、さっき自分の体から抜けた金縛りが、突如として彼らに乗り移ったかのように。


視線。


それは、特警たちに向けられた、たった一つのカメラのレンズ。

見知らぬ若い女性が、その暴挙をハンディ・カメラで撮り始めたのだ。


「ヒカリ新報の者よ!この状況、報道させてもらいます!」


「・・・何だ、お前?今すぐカメラを下ろせ」


「下ろしたところで遅いけど?もう、ストリーミングで世界中継しちゃってるから♡ 」


「あ・・・?何だと?」


「そちらこそ何よ?只の剣道少年を、いきなりテロリスト扱い?この天下の特警様の横暴に、世間はどう反応するかしら?」


周囲の耳に届くよう、段々と語気を強め、声を大きくしていく女性。

すると、ライフル銃を構えた方の特警が、ガルルと唸る肉食獣のような表情を浮かべた。


「お前、いい気に・・・」


「止めとけ!!」


いきり立った特警が、その身内からの制止の声に振り返る。


「極左、ヒカリ新報。こじれると面倒だ」


「しかし、ここで引いたら我々の面子が・・・」


「面子は守れるが、職を失うかもしれんぞ?こんなもん、極左メディアの恰好のネタだ。何が起こるか考えろ」


「あら!上司の方は理解が早いみたいね。何が起こるか教えてあげましょうか?「何の変哲もない剣道少年を、いきなりテロリスト認定して制圧する特警2名、その異常事態を報道する記者に、撮影中断を強要」-あなたたち、明日から有名人になれるわよ!」


国家権力を監視し、時にそれを痛烈に批判するリベラル・メディア。

どうやら、女性は、そのリベラル・メディアの記者だったようだ。


「今よ、乗りなさい!」


女性の叫びと共に、目の前で閉まっていく、新たな世界への扉。

しかし、このまま一人で乗っては、男が廃るというものだ。


「・・・あんたも乗るんだ!」


そして女性の手を引っ張り、閉じかける「またたき」の扉の隙間に、間一髪、木刀を突き出した。

新たな世界への扉を、こじ開けるように。


-クシューーーーッッ、ガパシィィィィンン!!


4月29日 7:09


-カシャンッ


「おメエなあ、殺すのが早えんだよ。こういうのは、脅して情報を引き出すんだ。まだ、こいつが何モンなのか分かってねえだろ?」


獅子面男は、血の滴り落ちるマチェテを車内にポイと放り込む自身の仲間に対し、そう呆れてみせた。

その仲間の男は、獅子面とよく似た意匠の、黄色い「虎」の面を着用している。


「いや、殺してはないでしょ。喉切っただけで」


「どの道、喉切ったら話せねえだろうが。それに、すぐに出血多量で死ぬ」


その獅子面男の忠告に対し、反省の素振りを見せず、むしろこれ見よがしに息を大きく吐いてみせる虎面男。


「はあ・・・まあ、死ぬかもね」


「つーか、もう死んでんだろこいつ?」


「でも、脅すなんて悠長なこと言ってられる状況でもなかったでしょ?特警に変装したワケ分かんないヤツが銃構えたんだから。で、どうする?こいつ」


「俺らの車に突っ込んで、一旦「店」に持ち帰るぞ。埋めるか、バラすかはそれから考え・・・」


-チコーン


瞬間、ドリンクホルダーに入った、巨体の男のスマホが鳴った。

そのロック画面に表示されているのは、仮想通貨取引所のアプリによる通知。


「仮想通貨を受理しました・・・って、書いてある」


「ん、仮想通貨・・・っておい、何やってる?」


-カホッ


獅子面男に先駆けて、通知に気付いた虎面男は、死体の髪をガシリと掴み、その固まった顔をスマホの液晶の前にかざした。


「顔認証、死んだ後でも動作するんだね。まあ、そりゃするか」


「何してる?早えとこズラかるぞ?」


スマホに表示されたのは、まるで買ったばかりのような、簡素なホームスクリーン。

その一角に、さっきの通知画面で目にした、仮想通貨取引所のアプリが、ポツンと設置されている。


「もしかして、この金って、こいつが今この場にいるのと関係あるんじゃないかな?って思ってさ」


そんな推測を提示しながら、アプリを開き、取引履歴を確認する虎面男。

すると、最新の受理金額に、虎面男の声が変わった。


「・・・5万ユーキミ、だって」


「5万ユーキミ?って、いくらだ?」


「500万円くらい」


「・・・デケえ額だな?何についての金か書いてあるか?」


「いや、書いてない。送付人も匿名になってる。でもこれ・・・多分、こいつの仕事に対しての報酬だよね?しかも、普通のビジネスじゃない。こいつ、明らかに裏社会の人間だし」


「・・・ライバルギャングがこいつを5万ユーキミで雇って、俺らの商売を妨害してたってことか?」


「・・・でも、そんな大金払ってやらせる仕事が、特警の変装で俺らの客ビビらせるだけって、何かシックリこなくない?」


「・・・まあな」


「何か他のヤバイ仕事をしてたとか?特警の恰好して」


「他の仕事・・・?って、お前、何やってる?」


-グチュゥッ、グチュゥ、グチュッッ


「いや。これ耳に掛かってて、取りづらいからさ」


いつの間にか、虎面男の右手は、さっき車内に放ったマチェテを再び握っている。

しかし獅子面男は、マチェテ自体よりも、その刃の先にべっとり付着しているものの方に目がいった。


それは、赤い液体をドロリと垂れ流す、切断された巨体の男の右耳だった。


「おい、急いでんだから、そういう無駄な動きは止めろ。江戸時代じゃねンだぞ。敵の耳集めて何になる?」


「欲しいのは耳じゃないよ、イヤフォンの方」


「・・・あ?」


「さっきから、何かチラチラ聞こえてくんなあと思ってさ。イヤフォンから」


仮面の内側で、眉間に皺を寄せる獅子面男。

そんな中、虎面男は、その切断した耳を左手でマチェテから払い落とし、刃の上に残された耳掛け型のイヤフォンを自らの右耳に装着した。


「ふふ、うふふふ。これかも。振込の内容」


「・・・何やってる?」


獅子面男は、その虎面男の不可解な行動に怪訝な声を発しながら、まだ巨体の男の顔に繋がっている、左耳に掛かったイヤフォンを外し、それを自分の耳にはめ込んだ。


「・・・ほお?」

  

「面白いでしょ?」


「こいつ、誰かの盗聴してやがったのか」


「多分、これだったんじゃない?5万ユーキミの仕事の内容」


そのイヤフォンを耳に押し込み、沈黙しながらそこに神経を集中させる、虎と獅子。

そして両者が捉えたのは、イヤフォンから流れ出る、とある少年の言葉だった。


-ち・・・違う!俺はテロリストなんかじゃない!これから神那側県のサイバー施設に行って、人工知能のプロジェクトに参加すんだよ!


「ほーん?これガキの声だよな?神那側県のサイバー施設?誰かから報酬もらって、そこに向かうガキに盗聴器付けてたってことか?」


「あ、だから特警の変装してたのかもね?取り調べのフリして、このガキに近付くために」


「・・・あり得るな」


「ってことは、このガキ、そんだけの金使っても言動を追う価値がある、ってことになるよね?」


「でも、だとしたら・・・このガキ何モンなんだよ?総理大臣の息子か何かか?」


「はっ・・・ただ、いずれにせよこのガキ、追っかけてみる価値ありそうだね」


すると獅子面男は、少しの沈黙の後で、思いがけず転がり込んだ「狩り」のチャンスに、野獣の如く食いついた。

仮面の穴の奥にある目を、爛々と輝かせながら。


「おい。さっさと死体トランクにぶっ込んで、「店」に戻るぞ。俺は、俺らの車運転すっから、おメエはこいつの車運転しとけ。うんめえ話になるかもしんねえぞ?」


その獅子面男の言葉に対し、虎面男は仮面の奥で、玩具を与えられた子供のような笑みを浮かべた。


「ふふ、うふふふ。その後は、神那側までドライブだ?」


4月29日 7:17


-ゴゴァァァァァアアアーーーー!


さながら、ズドンと発射された、ロケットのように。

ゆっくりと、但し、確実に速度を速め、ホームから走り去っていく新幹線またたき。


ロケットは、地上を離れ、どんどん届かぬ場所に行く。

大気圏を越え、やがては宇宙へと到るだろう。


本来、感動的であるその様を、ホームに残された特警2名は、苦虫を嚙み潰したような表情で眺めていた。


それも、無理はない。


自分が捉え、引きずり下ろすべきだった、疑わしき少年が、まんまとそのロケットに搭乗してしまったのだから。

あまつさえ、その少年に助太刀をした、天敵メディア会社の女社員すら乗せて。


「クッッソアッッ!何で、こんなトコにたまたまヒカリ新報がいるんだよ!あのクソ煩わしい極左メディアが!!」


乗客が、今や宇宙に向かう中、地上で怒りを噴火させる、割と小柄な、鏑木(かぶらぎ)特警。

その怒れる自分の上司に対し、「火山のようだ」などという月並みな印象を抱く、比較的長身の後藤特警。


そんな後藤特警は、地に植えられた木のように直立不動で構える中で、グツグツの飛沫を被弾した。

鏑木特警の口から、勢いよく噴き出された飛沫を。


「おい、後藤!お前も何か言えよ!」


「(いやあ、あの・・・極左とか、あんまり公衆の面前で口にしない方がいいんじゃないすか・・・)」


後藤特警は、そうした苦言を上司に呈する、自身の姿を想像するも、それを実現させることはできなかった。

特警の縦社会においては、ヒエラルキーを超越し、現実の空気を震わせる言葉など無いのだ。


「はい。私も、鏑木さんのおっしゃることと全く同感です」


「権力の監視とか偉そうにホザいてるけどなあ、連中がやりたいのは倒閣運動なんだよ!あの非国民どもが!おい、分かってんのか?後藤!」


「はい」


分かっているかは別にして、後藤特警は、そこで一つの確信を得た。


今、鏑木特警にとって、周囲の民間人などは、空に浮かぶ雲のようなものに過ぎないのだろう。

雲の存在を意識して、言動を慎む人間などは、恐らく存在しないであろうからだ。


もっとも、さっき公衆の面前で、ライフル銃を構えた自分が、そんなことを思える筋でもないが。


「クッソが・・・後藤、やっぱお前とはダメだ」


「はい。・・・え?ダメ、とは・・・?」


「お前と一緒にいるとなあ、運気が下がるんだよ。何か、物事が思うように進まなくなる」


「う・・・運気ですか?」


「おま・・・馬鹿にしてんのか?じゃあ、お前、そういうの完全に無いって言い切れる・・・」


「あなたたち、良かったですね~~♬ 」


取り乱し始めた2名の耳に、突如後ろから飛び込んだ、「良かったですね」との祝福。

しかし、それが単なるお祝いでないことは、言葉のニュアンスから伝わった。


良かったですね-

そこには、背後でカマキリが目を光らせる中、たまたま吹いた春風に飛ばされ、生死に関わる危機を脱した、モンシロチョウに向けるような響きがあった。


「ん・・・?」


そんな、異質な響きがした方を、特警2名が振り返る。


その男は、電話をしていた。

まるで、自身が所有するキャベツ畑に、陽が燦燦と降り注ぐ様子を、ジュース片手に眺めるような表情で。


「いやあ、ツイていらっしゃる。「止めなくて」、ホント良かったですね♬ 」


黒が基調のタイダイ模様が、全面的に描かれた、ふちの大きい三角帽。

そこから伸び出た、ゆるやかなパーマがかかった黒髪が、その黒いタイダイ柄と、ダークな曲線模様を織り成している。


一方で、その色彩感とは対照的に、ワインレッドのような色に輝く、白いシャツのボタンたち。

見るに、それらの全ては、音符の形をしているようだ。


「ほおんと、危なかったですね?」


それを聞いた特警2名は、横目で、互いの表情を伺った。


電話とは、「遠くの場所にいる者と行う音声通信」に違いない。

しかし、彼らにとってその言葉は、「極めて近く」に向けられたもののような気がしたのだ。


加えて、その男の言い方は、異様なまでに丁寧だった。

まるで、一文字一文字を切り分け、白い封筒に詰め込んで、順に相手に渡していくかのような。


「命拾い、しましたね?」


そこで男は「通話」を終え、桜の花のように柔らかい笑顔をほんの一瞬浮かべたかと思うと、颯爽とその場を立ち去った。

一方、その笑顔を目にした特警2名は、そこから受けた特殊な印象を拭えずにいた。


その、柔らかき桜の花びらの裏側。

そこに、触れた者に死すらもたらす、ドス黒い何かが潜んでいるのではないか。


そんな、印象だ。

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