第2話 異世界転移は突然に
健全なる日本男児たるもの、誰しも黒歴史のひとつやふたつ抱えて然るべきだろう。というのが俺――
いや、持論というよりも願望である。
もっと言うと懇願である。
お願い、みんなそうであって。
だってそんな痛々しい
失礼。
平日の早朝から取り乱してしまった。いや、取り乱されたというべきか。
目の前にあるこいつらに。
やはりこいつらは人の精神を狂わせる呪いじみた魔力的なものを帯びているのかもしれない……なんてことを考えながら、俺は改めて手に取ったそれに視線を落とし、なんとなくぱらぱらと捲ってみる。
普段は引き出しの一番奥に封印されている忌まわしき過去。
見た者を永劫狂笑の牢獄へと、あるいは羞恥超越の監獄へと誘う七つの書物。
「……どうしてなんだかんだで捨てきれないんだろうなあ」
それは一見してなんの変哲もない古びた大学ノート。だが。
「何回読んでもイタすぎんだろこれ……中学生が書く内容じゃねえよ」
紛れもなくその七冊は、俺にとっての黒歴史ノートである。
絶対に誰にも見られてはならない、痛すぎる過去の致命的過ちなのだ。
「お兄様~? まだご準備が整わないのでしょうか? でしたら私がお手伝いさせていただきますけれど?」
と、闇色に染まり始めていた俺の気分を、階段下から届いた可憐な声音が聖水のごとく瞬く間に清めたもうた。
「ああごめん
学習机の上にそれらを投げやって、一度学生服の胸ポケット部分に手を添える。それから息をひとつ吐き、俺は学生鞄を肩にかけると急いで自分の部屋を後にした。
正直に白状する。
かつて俺は、清々しいほどに痛々しい厨二病の少年だった。
しかしそれも既に卒業済みの身である。今から約二年前、中学三年生のときに俺は厨二であることをやめ、ごく普通の少年として生きる道を選んだ。
あの頃の俺は死んだのだ。
しかし、死してもなお赦されることのない罪がここにある。
それは。
「お待ちしておりましたお兄様――いえ、マイマスター」
「マイマスターはやめたまえ妹よ。舛太お兄ちゃんでしょ。あとなにより玄関の前で跪かないで。町中にあいつはとんでもない奴だって噂が広まっちゃうから」
「いえお兄様。私はお兄様の妹であると同時に、偉大なる御身に真なる忠誠を誓った臣下です。臣下が主君を前に跪き頭を垂れるのは至極当然のこと。それがあらゆる叡智を超越し全知へと到達した至高の魔導師たる御身の前とあらばなおさらです。それに私としては、偉大なる御身のご威光が世界中に示されるというのであればそれはこの上なく望ましいことでして――」
「だあああああもう! しーっ! 叡智とか全知とか至高の魔導師とかやめなさい! 俺はなんの変哲もないごく一般的な高校高校二年生! OK?」
ご覧のとおり、我が妹・黒澤愛依寿こそが俺の罪にほかならない。
なにを隠そう俺の黒歴史が、この可憐な黒髪ロングの美少女たる妹を暗黒の道へと誘ってしまったのである。
思わず罪悪感交じりのため息をつく俺だったが、しかしこちらを見上げる当の妹自身の瞳には、やけに生き生きとした憧憬が輝いている。
「そうでした。我らが本懐を遂げるため、今は正体を偽っておいででしたね。それにしても完璧な擬装です。勉学・スポーツともに平凡以下の情けない成績。白湯のごとき希薄な交友関係。常にたたえる気の抜けた表情。本当になんの取り柄もない陰キャ男子高校生のようで、昼休みには教室の隅っこでひとり寂しくお弁当をつついている姿が容易に浮かびます。さすがはお兄様、これも魔導を極めた者のなせる業ですね」
「一転攻勢、急に殺しにかかるのやめて? ナチュラルにハートが抉れちゃってるから。お兄ちゃん泣いちゃうよ?」
しかし今の台詞も彼女にとっては本気で俺を賞賛する言葉なのである。
ようやく立ち上がった妹とともに、既に死に体の俺は学校へと向かい始める。
すると数歩も進まないうちに再び愛依寿が口を開いた。
「それでお兄様、先ほどはお部屋で《魔導七典》を読み返されていたのでしょう?」
ぎくり、と肩まわりに硬直を覚えつつ、俺は努めて自然な笑顔をかたどった。
「ハテ、ナンノコトカナ」
「流石はお兄様。極めたとて自らに怠惰を許さない、魔導に対する真摯なご姿勢、心から尊敬いたします。でも隠す必要はありませんよ、匂いでわかりますから」
「ニオイ⁉」
「ええ、私だって何度も何度も読み返しましたから。あの七冊の魔導書から漂う神聖なる香気は決して忘れません」
何故か妙に陶然とした表情を浮かべつつ、おかしな妹は語り続ける。
「お兄様の崇高なる魔導思想の結晶、魔導七典。《焔激の魔導書》、《氷嘲の魔導書》、《雷遊の魔導書》、《喰餓の魔導書》、《死退の魔導書》、《癒悦の魔導書》、《暴牢の魔導書》、そのどれもが素晴らしき神秘――理外の理が記された至高の教典です」
「ヤメテ、ソノナナサツノナマエヲソトデイワナイデ」
なんだよ焔激の魔導書とか氷嘲の魔導書って。イタすぎるだろ。そんなんばっか書いてちゃ生まれてこの方ろくに友達ができたことがないのも当たり前というほかない。
だというのに我が妹はといえば、俺の黒歴史ノートを初めて読んだその日からとんでもなくどっぷりとハマってしまっているのである。
愛依寿は頭がよく、小さい頃からなんにでも興味を示す好奇心旺盛な性格だった。だから俺の黒歴史ノートに興味を示したときも、
「ほーんまたおかしなものを書いてるじゃないか私の愚兄は。どれどれ……ぶふぉーおもちれー(笑) こんなに奇っ怪・滑稽な妄想が人間の脳味噌から生成されるとは非常に興味深い(笑)」
くらいのノリで内心腹を抱えながら読んでいるのかと思っていた。
しかし予想とは裏腹に、日に日に愛依寿の熱中度合いは増していった。
来る日も来る日も七冊のノートを読み返すその瞳は次第に興奮と憧憬とに染まっていき――ついでに俺が黒歴史ノートの設定を盛り込んで書いた自作の小説すらも貪るように読み耽り――ある日ついに妹は俺に敬愛の眼差しを向けてこう言ったのである。
「――始祖漆黒たる至高の魔導師よ、あなたこそがマイマスターです」と。
なんと愚かで罪深い兄なのだろうか俺は。俺のせいで可愛い中二の妹が可哀想な厨二の妹というわけだ。もはや俺は兄ではなく呪いと呼ぶべき存在に違いない。
けれどそんな呪物紛いの俺に向けられる愛依寿の表情は、ハッとして申し訳なげにしつつも幸福に満ちた笑顔そのものである。
「申し訳ありませんお兄様。先ほど正体の秘匿について徹底するよう注意されたばかりなのに、私ったらつい。でもお兄様、いつか必ず我らが本懐を遂げてみせましょうね」
「いやあの、さっきも思ったんだけど我らが本懐って……?」
この妹ときたら俺の黒歴史ノートに沼りすぎて、いまやいろいろと勝手に独自の設定を考えだすようになってしまっているのだ。とうのむかしに厨二を卒業した俺に本懐とかありませんよ?
首を傾げた俺の視界に斜めに映る愛依寿が、ほんのりと頬を昂揚に染めながらこちらを見つめた。
「決まっているじゃないですか。先ほども申したとおり、お兄様の素晴らしさを世界中の人々に理解してもらうことですよ」
自分の言葉に気持ちが盛り上がってきたらしい愛依寿は、いかにも大仰な身振り手振りで高らかに語る。
「お兄様こそ常理を超えた真理――魔導の完全理解に到達したただひとりのお方。至高にして最高にして最強の魔導師。その尊き功績を、そして貴き存在を、あまねく人類は正しく知らねばなりません。そうして皆がお兄様を畏怖し、畏敬し、崇拝することにより、この世界は正しい在り方へと導かれるのです。そう、世界を在るべき形へとなすこと。それこそが我らが本懐です!」
目がガンギマリだ。もはや狂信者である。入信したのが変な新興宗教じゃなくて《お兄ちゃんは最強の魔導師教》だっただけマシなのかもしれない。てかそれって我らが本懐じゃなくて汝ひとりの本懐じゃん。
いやまあ、どんな形であれ嫌われるよりはお兄ちゃんのことを尊敬してくれて嬉しいけどさ。
「そんな本懐が遂げられる日は来ないと思うけどな……」
だって俺、至高にして最高にして最強の魔導師じゃないし。
かつて厨二病だった平凡一般男子高校生だし。
けれど愛依寿の双眸には確信的な自信が煌々と宿っていて。
「いいえ訪れます」
その唇は不敵に笑み、微塵の躊躇いもなく決然と告げるのだ。
「必ず訪れます。お兄様が世界を統べるそのときが。あるいは、きっと今すぐにでも」
その瞬間だった。
――世界が、揺れた。
それは決して、超満員のライブ会場がごとく至高の魔導師たる俺の素晴らしさに気づいた世界中の人々が崇拝の狂喜乱舞を始めたからなどではない。
要するに俺たちを襲ったのは、とてつもなく大きな地震だった。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げつつ地面に這いつくばう愛依寿。堪らず俺もアスファルトの上に伏せた。
「大丈夫か愛依寿!」
あまりの揺れに定まらない視界のなか、懸命に妹の姿を認めて叫ぶ。
しかし彼女の返事を待つよりも早く、次なる異変が俺たちに降りかかった。
「地面が、割れていく……ッ⁉」
みるみるうちにアスファルト道路に亀裂が入り、さながら地獄の門扉が開け放たれるかのごとく奈落へと続く大穴を生じていったのである。
まさしく天変地異。
断層となった地面が大穴に向かって傾き斜面をつくり、巨大な蟻地獄のように俺たちを地球の裂け目へと無慈悲に誘う。
ちっぽけな人間ふたり、為す術などありはしなかった。
どこまで落ちていくかもわからない暗闇に呑み込まれながら、それでも俺は必死に妹へと手を伸ばした。
「愛依寿……愛依寿――ッ‼」
彼女も同様にこちらへ懸命に手を伸ばしていた。
「お兄様……お兄様……っ‼」
しかしいくら伸ばしたところで互いの指先は遙かに遠く。
やがて愛依寿の姿が完全に暗黒に塗り潰される。
「愛依寿――――――――ッ‼」
その絶叫すらも、本当に声になっていたのかすらわからないほどに、漆黒に溺れた俺の意識は既にあらゆる認識を喪失してしまっていた――。
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