砂漠の肌

紙仲てとら

砂漠の肌

 遭難してから早くも4日が経過した。

 しばらくのあいだ世話になった海沿いの港町を出たのは数週間前。治安が悪化した地方都市をいくつか通り過ぎて、情報屋の鼠に教えてもらった湖を通るルートを行くと、その先は深い山になっていた。そこで緑の迷路に閉じ込められてしまったのである。

 連日の野宿のせいで、からだがかゆくてたまらない。山は新緑の盛りで、葛やキクバドコロといった蔓性植物が縦横無尽に生い茂り、歩くのも一苦労だ。昼も緑の天蓋に覆われ薄暗いが、夜に吞み込まれた森はいよいよ鬱蒼として月明りのひとかけらさえ見つからない。頼りは手に持ったランプの弱々しい光のみである。

 食料も底をつきはじめているし、水筒の水は半分を切った。なにより問題なのは、昨晩から狼の遠吠えがそこかしこで聞こえるようになったこと。どうやら港町で耳にした「帝都の近くの山間に、人型ではない四足歩行の狼が群れをなしている」という噂は本当のようで、不運なことに彼らの縄張りに入ってしまったらしい。これは非常にまずい状況だ。

 若干の焦りを感じながら闇に満たされた森を歩き続けていたとき、苔生した木々の隙間にひとつの灯が見えた。見失わないよう慎重に歩をすすめていくと、光はどんどん増えていって、連なる家々が目の前にあらわれる。

 ちょっとばかし寂れているが、野盗に荒らされた形跡もない。どこからか聞こえてくるアコーディオンの音色に誘われて、蜘蛛の巣や錆で汚れた鉄門をくぐる。

 まずは宿探しだ――通りに並ぶ家の軒先にある看板をひとつひとつ確認しながら、舗装されていない道を歩いていると、どこからか声をかけられた。

「そこの旅人さん」

 新緑の風のようなさわやかな声音である。周囲をぐるりと見回したが、誰もいない。

「ここだよ、ここ」

 さっきよりもくっきりした声が笑みを含んで降ってくる。

 天を振り仰いでみれば、赤毛の女が開け放たれた窓のふちに両肘をついてこちらを見下ろしている。目が合うと女はさらに笑みを深めた。

「寄ってかない?安くするよ」

 女はドレスの胸元を引っ張って、小麦色の肌を見せてくる。手をかざしてあしらうと、鈴の音のようなころころした笑い声があたりに響き渡った。

「またねぇ旅人さん」

 赤毛の女の声が背中を追いかけてきたが、振り向かずに歩く。すると一件の酒場が見えてきた。ここで宿の場所を聞こうと思い立って、スイングドアを押し中に入る。

 薄暗い店内では、難しい顔をした男たちが黙って酒を飲んでいた。値踏みするような視線が向けられるなかカウンターに近づく。

「ウイスキー」

 短く告げると、無愛想な店主はグラスに酒を注ぎつつ睨むようにこちらを見てくる。

「見ない顔だ。どこから来た」

「南」

 短く答える。

「南?!シャルネ山を通ってきたってのか?」

 彼は驚いた様子で眉を上げ、

「よくあの山を越えられたな。コンパスが役に立たなかっただろ?だいたいの人間が方向感覚を失って、しまいにゃ狼どもの腹の中だ」

「このあたりの山は人を惑わせる。悪いものが棲んでるからな」

 カウンター席の隅に座っていた男が、汚れたシャツの袖で鼻先を拭いつつ言った。

「そいつが人間を森に閉じ込めて、手下の狼どもに食わせてるのさ。ひとりも逃しゃしない。今夜にでもおまえさん、追っ手が来て食われるぞ」

 店主が彼を視線で諫め、俺の方に向かってかぶりを振る。

「真に受けるな。よそ者を脅かすのが趣味なんだ」

「警告してるだけさ」

 そう言って男が手鼻をかむ。汚らしい音を聞きながら、空っぽの腹にウイスキーを流し込んだ。体に熱がみなぎるのを感じ、たまらず大きく息を吐く。

「狼どもが生きた人間を狩ってるらしいっていう噂は、ここに来るまでに何度も耳にした。でも……貴族連中の秘密の狩場はもっと北の方だろ?ハイエナたちは西の草原を荒らして遊牧民たちを苦しめてるって言うし、このあたりはまだ目を付けられてないと思っていたんだけど……」

「いやいや、酷いもんさ。猿の連中が味方になってくれたところで、人間が本当の意味で平和に生きられる土地なんてもう残されちゃいないんだ」

 店主は首を横に振り、そして俺の瞳をじっと見た。

「ところであんた、山の中で遠吠えを聞かなかったか?」

「聞いたよ。四方八方から響いてきた」

「貴族連中はあんな声を出したりしない。なにしろ“お上品な”やつらだからさ……」

「ということは例の四つん這いの化け物か。狼とおなじ頭を持ってるっていう」

 黙って頷いた彼は分厚い唇を舐めて、周囲を窺いつつ囁く。

「街に下りてきたのを何頭か殺した」

「話は通じる?」

「まさか、通じるわけない。よだれを垂らしながら唸るばっかりさ。あいつら、四足歩行で本当に素早いんだ。しかもなんでも食う。畑もすいぶん荒らされてしまってな」

「でもどうして狼だけが野生化したんだろう……やつらのあいだで急に退化する病でも流行ってるんだろうか」

「狼だけじゃない。熊も虎も狐もいるぞ」

 からになったグラスにウイスキーが注がれる。

「どうやら帝都の奴ら、“出来損ない”をこの周辺の山に捨ててるらしい」

「殺処分する決まりのはずだろ?法を破ってる獣人がいるのか?」

 彼はグラスを拭いている手をとめて声を低める。

「腹を痛めて産んだ子だ。なんとか生きていってもらいたいっていう親心はわからなくもない。まあ……俺たち人間にとっちゃ、はた迷惑な話だが」

 そのとき獣人の憲兵が入ってきて、俺たちは唇を閉じた。彼は立派なたてがみを持った馬の獣人で、人間と同じく服を身につけ、二足歩行で堂々と歩いている。身長は2メートル以上あり、そこにいるだけで威圧感がある。

 穏やかな目をした彼は長い頸をめぐらせて店内を眺め、客が座っているテーブルをひとつひとつ確認して回った。違法なゲーム(金銭を賭けるのは禁じられている)をしていないか、抜き打ちで見回りに来たのだ。最後に、カードゲームをしていた男たちの顔をじっくりと見つめ、静かに踵を返し店を出ていく。

 カウンターに歩いてきた男が忌々し気に舌打ちし、床に唾を吐いた。店主は男にビールを手渡し、なだめるようにその肩を叩く。

 馬の獣人が去っていった方向から、石を積んだ車が砂埃を巻き上げながらやってきて店の前をゆっくりと通り過ぎていく。

「このあたりはめずらしい鉱石がとれるっていうんで、ずいぶん賑やかだったそうだけど」

 酒を飲んでいる労働者の服が砂と泥で汚れているのを見ながら言えば、店主は深い溜息をついて、

「すぐ近くに採掘場があって、黎珠石っていう鉱石がじゃんじゃん掘れたんだ。でも最近は……あいつらの顔を見ればわかるだろ?」

 客席を目で示しながら肩を竦めると、周囲に聞こえないように声を低める。

「もう潮時だ。どうやらこのあたり一帯の山を切り崩す計画が持ち上がってるらしい。この街も近々、帝都の一部になるだろうよ」

「化け物どもの天下も終わりだな」

「さて、それはどうかね」

 磨いたグラスをランプの灯りにかざして、店主は鼻を鳴らす。


 酒場を出ると、とっぷりと日が暮れている。

 さきほどの店主によればこの街に宿屋はないという。観光客はおろか商売人すらもほとんど来ないため儲からず、娼館を除いて何十年も前にすべて潰れたと言っていた。帝都へと続く道が西にある採掘場の跡地から続いていて、この街の人間の多くはそこから都にのぼり商売をしているが、獣人の方はこちら側に滅多にやって来ない。街なかをうろついている“よそ者”は視察中の憲兵くらいらしい。

 俺は採掘場の真向いにあるシャルネ山から街に入ってきたが、このルートから来る人間は皆無だと聞いた。山が人を惑わせるというのは大袈裟な話ではないらしく、一年に一度街の人間が総出で鬱蒼とした山林を散策し、毎年10体ほどの遺体を埋葬しているという。

 街の中央まで来たとき、また頭上から声が降ってきた。

「旅人さん」

 見上げれば、赤毛の女の小麦色の肌がガス灯の明かりをうけて光っている。彼女は頬肘をついてこちらを見下ろしながら愉快そうに言った。

「雨のにおいがするね。濡れるのは嫌だろ?中にいらっしゃいよ」

 そう言われてまもなく、鼻の先に雨粒が落ちてきた。


 重い木製の扉を開くと、中は蝋燭のやわらかな光で満たされていた。入ってすぐ右にある奥まった場所に、数人の若い女が膝を寄せ合っている。白粉のにおいで噎せ返りそうになっていると、階上の手すりに赤毛の女が現れ、大きな尻を揺らしながら階段を降りてきた。

「年寄りでも獣人でもないお客は久しぶりだよ。嬉しいねえ。さ、あたしの部屋にいらっしゃい。バラのおふろに入れてあげる」

 初めて見たときと同じようににこにこと愛想よく笑いながら、やわらかく両手を握りしめてくる。

「あら姉さん、抜け駆けはよくないわ」

「そうよそうよ」

 ソファから身を起こし次々と抗議する少女たちにほほえみだけを返して、女は俺の手を強引に引きながら階段を上がっていく。

 左右にまっすぐ通っている廊下にはいくつもの扉が等間隔に並んでいて、その奥から女の嬌声と男の荒々しい息遣いや唸り声が聞こえてくる。どの扉も拳で強く叩けば壊れてしまいそうな安っぽいつくりである。その一方、赤毛の女の部屋は厳めしいマホガニー製の扉でかたく閉ざされていた。それはたいそう重厚で、一面に豪華な彫り物が施されている。

 女がタッセルのついた真鍮の取っ手を引く。両開きの扉が豪快に開かれると、なんとも馨しい花の香りが廊下に溢れ出てきた。

「ここは宿泊施設じゃないし、いつもならやることやってとっとと追い出すんだけどね。旅人さんはなかなかイイ男だから、特別に一晩泊めてやるよ」

「最初に言っておくけど、俺は君と寝るつもりはない。一晩ぐっすり眠れる場所がほしいだけだ」

「はいはい、わかっておりますとも」

 赤毛の女は目を細めたまま言うと、花瓶にささった薔薇をいくつか引き抜いて花びらをむしる。背中に流れる豊かな赤毛を睨むように見つめていると、おもむろに振り向いて頬にえくぼを作った。

「酒だけで、なにも食べてないんだろ?テーブルの上にピーナッツバターサンドとフルーツがあるから食べなよ」

 サンドイッチと聞いて、みぞおちが切ない音をたてる。もう何日もまともに食べていない。空腹には勝てず、ピーナッツバターサンドにかぶりついた。ライ麦パンの懐かしい香りと甘さが口いっぱいに広がる。

「食事が終わったら、からだをきれいにしようね」

 まるで母のような口調である。調子が狂う……

 花びらの浮いたバスタブに浸かると、その心地よさに思わず顔がゆるむ。そんな俺を愉快そうに見て、女はバスタブの横に腰を下ろした。

「あたしはファティマ」

 名前なんてどうでもよかった。俺はバラのにおいに囲まれたまま目を閉じ黙っていた。

「旅人さん、なまえはなんての?」

「目覚めたらいなくなってる男の名なんて、知ってどうするんだ」

「教えてよ。明日の朝には忘れるからさ」

 目を開けて声の方に視線をやると、赤毛の女はがちゃがちゃに並んだ歯を見せて笑った。俺は肩を竦めて、

「好きに呼べばいい。トムでもダグでもジミーでも」

「ジミーはあたしの初恋の人だわ」

 歌うように言って、バスタブの淵に肘を掛けて寄りかかる。

「ねえ、あんたは“うみ”ってのを見たことがある?」

「海?もちろん」

 果てなく続く水平線を思い描きながら頷いた。

「うらやましい。あたしは砂漠生まれ山育ちだから一度も見たことがない」

「へえ」

「ジミーは、うみの近くで育ったの。すばらしくきれいだって言ってた」

「期待するほどのもんじゃないよ。ただのデカい水たまりさ」

「おおきな水たまりに浮かべた小舟で、どこまでもいってみたいもんだね」

「ジミーは反対すると思うぜ。海の怖さを知ってるから」

 鼻で笑って言ったそのとき、女が「しっ」と唇に人差し指を当てる。

「ほら、聞こえる?」

 女に倣って耳をすませば、狼の遠吠えがかすかに聞こえてくる。

「きっとお母さんを恋しがってるのね」

「そうかな」

「あたしが狼なら、お母さんを思いながらああして吠えているもの。毎日、毎晩……」

「母親が恋しい?」

「ええ」

「獣人の連中はフェスティバルで浮かれてるから、国境の警備が手薄になってる。会いに行くなら今だぞ」

「ここからは出られない。だって借金のカタとしてここに売られたから。あたしが逃げたら、お母さんもお父さんもきょうだいも、みんな殺されちまう」

 濡れた頭を起こして女を見つめた。するとバスタオルがふわりと肩にかけられる。

「そろそろ上がりな。のぼせるよ」

 ベッドに入ると、頬にやさしくくちづけられた。女の肌は滑らかで、砂漠の砂のようだった。


 翌朝目を覚ますと、女の姿はすでにない。コートのポケットから懐中時計を引っ張り出して時刻を見れば、まだ7時だ。ハムとチーズを挟んだパンが、食べかけのままテーブルに置いてある。どうやら食事の途中で出ていったらしい。

 階下にいるかもしれないと思いながら、荷物を背負って階段を降りると、たいそう慌てた様子で小僧が駆け込んできた。

「ファティマが死んだ!」


 女は、街はずれの井戸のそばで死んでいた。

「水を汲みにきたところを狼に襲われたらしい。むごいもんさ……」

 女の葬儀は行われなかった。娼婦の死を嘆くものは少なくて、そのほとんどは子どもだった。

 遺体はすぐに燃やされた。灰と骨は集団墓地に埋葬されるという。

 俺は、女のからだが燃え尽きるまで見守った男に声を掛けた。

「遺灰をすこしもらっていいかい」

「いいけど……なぜだ?あんた、情夫かなにか?」

「きのう会ったばかりさ。なまえも忘れたよ」

 遺灰をひとつかみもらって、小瓶におさめる。女の一部を胸ポケットに入れて俺は街を出た。

 帝都に入り数日後、騒がしい中心街を抜けて海に面した地に辿り着いた。大陸の最北端にある小都市、ローザンシティだ。

 崖のうえで釣りをしていた魚人に小舟を借りて、沖へ出た。快晴である。水面が星のようにまたたいている。

 寄せる波が船腹を撫でる音を聴きながら、胸ポケットにしまっていた小瓶を取り出す。コルクを抜き、遺灰を手のひらにのせた。

「ファティマ」

 一握の遺灰に呼びかける。

「俺はトビアス。トビアス・グレイだ」

 手のひらを開くと、灰はすぐさま海風にさらわれ彼方へと消えていった。

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