第2話


 小説等の執筆時には、常に念頭にある、否応なくなんとなく思い浮かべてしまうことが多い作家、ボクにとっては筒井氏はそういう存在で…


 要するに「生涯で最も傾倒した著作家」が、筒井氏であることからくる必然的帰結、に過ぎない。皮相的にはそれだけで、氏は、知名度がもともと高い、本邦で有数の、人口に膾炙した度合いの大きい?人気作家であり、作品数も多く、キャリアも長い。


 深層にはしかし、プラスアルファがあるかも?

 パッと俄かに分析は不能ですが、例えば「好きな作家」というのが誰にもあって、その影響は受けていて当然。自分の場合も、井上靖さんやら北杜夫、星新一等親炙してきた文学者は多くて、取り立てて意識していずともちょっとずつそういう誰某の影響は作品や文章から窺える。「こういう発想は小松左京」、「こういう言い回しは東海林さだおさんのコピーやな」…で、完全にオリジナルな自分だけの特長があるかというと心許ないくらいです。


 村上春樹風、安部公房風、とか銘打って、作風や文体の模写をよくやるが、これは”なりきり”の、江戸屋猫八風の?「藝」ですから、すっかりその人の流儀を一応飲み込んで、自家薬籠中のもの?みたいに、再現できるという自信がないと無理。


 一応独自のスタイルを確立していて、一家をなしていて、一般的に「わかる」みたいに共感される人でないと面白くない。尚且つ、よほどにボクがその人の著作に深く入り込んで、熟読玩味していて…そういう著作者でないと感情移入ができにくいので、…こういうのはしかし、自分でどういう作物ができるかという愉しみを付随しています。なんというか、バーテンダーが新種のカクテルを作る実験? または、料理の先生が創作料理のレシピを吟味しているというような? なんだか自分にしかできへんプロフェッショナルなマニアックな文章芸を磨いているというような、自己満足で烏滸がましいが?そういう愉楽を感じる。


 が、そのことを共感してくれる人が多々あって、好意的なコメントしてくれもするから、夜郎自大な妄想とかではないのは確かで、「好き」という表現で、”偏愛する”的な感想をもらいます。


 例A:ずっと前に「芥川龍之介の文体模写」をしたエッセイ。⇒


 例B:「グレゴールザムザ」(カフカ「変身」の主人公)の、パロディ⇒


 様々なタイプの著作家がいて、パロディとかパスティーシュ、そういう技巧への嗜好性があるタイプ?丸谷才一さんとかもわりとそういう”藝”を好みますが、翻訳家の柳瀬尚紀という方も、ジョイスの翻訳を、かない凝った、実際読んではいませんが、マイアックになされるといって有名で、で、丸谷氏も柳瀬氏も筒井さんと何かと交流する機会が?多いみたいです。「同好の士」、という捉えをされるのだろう…


 ボクも、全然、末席の若輩ですが、そういう文章芸?的な資質はある感じで?それは「好きこそものの上手なれ」というだけやろうが、筒井康隆氏の作風の、それは単なる影響だけではない…と、まあ自分では思いたい。


 が、筒井氏の博覧強記ぶりは、有名かもしれないし、かなりな勉強家で、ラテンアメリカ文学とかの様々な実験的な手法で小説を書く、いろんな尖鋭的で前衛的な作家を知ったのは筒井さんを通じてで、そういういろんなことが盤根錯節?に絡み合って、今の自分の文学関係のアイデンティティは成り立っていて…そういうところが、ひとりボクにとってのみならず、筒井康隆さんをやはり一種特別な、唯一無二の実存にしているというところがある。


 

 


 

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