第3話 甘い溺愛のはじまり



 湊斗の心の声が、朧に聞こえなかったのは、人間嫌いの彼の、ささやかな抵抗だった。


 しかし、遠くから朧を見守っていた頃は抑えていた感情が、いざ朧を目の前にした途端、堰を切ったように溢れ出して止まらなくなった。


 最初は、朧の記憶を覗き見て、同情心が湧いたのだと思っていた。


 時が経つにつれ、健気に自分の妻になるべく努力を欠かさない朧に、感じたことのない気持ちを抱くようになった。


 それが愛情なのだと、湊斗はしばらく気づかなかった。


 こんなに朧のことを愛していたのかと、湊斗自身も驚くほどだ。


 ただ、感情を直接言葉にかえて気持ちを告げることは、人を好きになった経験がない湊斗には至難の業であった。


 素直になれず、つい素っ気ない態度を取ってしまう。


 朧への接し方がわからず、屋敷に戻る道すがら、湊斗は思い悩んでいた。



☆☆☆


 湊斗によって、離れに匿われて数日。



 日中は、湊斗から事情を知らされたみゆきが富子と定国に気づかれないよう食事を運んでくれていた。


 夜になると、湊斗は離れを訪れては、朧を困らせていた。


 離れにやってくるなりシャワーを浴びて、濡れ髪のまま出てくると、ドライヤーを朧に渡す。



 そして、ぶっきらぼうにこう言うのだ。


「妻なんだから、亭主の髪くらい乾かせ」と。


 浴衣姿のまま、畳にどかっと座り込んだ湊斗の長い黒髪を、朧は言われるがまま乾かしてやる。


《愛しの朧に髪を乾かしてもらえる日がくるなんて、俺はとことん幸せ者だな》


 湊斗に何かしてやるたびにだだ洩れてくる心の声を、朧は聞き流すようにしていた。


 湊斗と同じく、愛情表現を知らない朧もまた、湊斗との接し方に悩んでいた。


 風呂のあと、湊斗が目を輝かせて朧の髪を乾かすと言ってきた時など、最初は非常に戸惑った。


《良い香りがするな。

 髪もこんなにつやつやで。

 まるで絹のようだ。

 好きな女の髪に触れることが、こんなにも心地良いものだとは知らなかった》


 湊斗にドライヤーの熱風を当てられながら、朧も、心が安らいでいることを感じていた。


 少しくすぐったくて、心地良い、慈愛に満ちた湊斗の手の感触。



 言葉数こそ少ないが、穏やかな時間にふたりは身を委ねていた。


 朧の湊斗への思いも、湊斗の心の声を聞くたびに高まっていく。


 湊斗の存在が、どんどん大きくなっていく。


 『好き』になっていく。


 しかし、とも思う。


 自分と湊斗は、離婚した身だ。


 このまま彼を好きになっても、いいものなのだろうか。


 仮に彼との仲が進展しても、再び結婚することは、湊斗の両親が許さないだろう。


 これが『禁断の恋』というやつだろうか。


 その言葉の響きに、何だか背徳感を感じるが、それに反して胸が高鳴るのも事実で、鼓動が速くなる。



 そんな温かい気持ちに、じわじわと浸っている中、ある夜、朧は衝撃に身体を固まらせていた。


 ベッドに、湊斗が横になっていたのだ。


「……あ、あの……」


 困惑する朧に、湊斗はいつものぶっきらぼうな態度で事もなげに告げる。


「早くベッドに入れ。寝るぞ」


「え……。一緒に寝るって、ことですか?」


「当たり前だろ。

 お前は俺の抱きまくらなんだからな」


「だ、抱きまくらって……」



《もういっときも離れたくない。

 ずっと一緒にいたい。

 誰にも渡さない、邪魔させない。

 朧のぬくもりを感じて良いのは俺だけだ。

 愛しい俺の朧》



 朧への愛を叫ぶ湊斗の盛大な心の声が、朧に激突しそうなほどの質量を持って流れ込んでくる。


 朧は思わず苦笑しながら、ベッドに足を突っ込む。


「あの、前から言いたかったんですけど……。

 湊斗さん、絶対わざとですよね?

 わかってますよね、心の声がわたしに聞こえてるって。

 わかってて、そういうこと、思ってますよね?」


 湊斗は無表情を崩さない。


「『そういうこと』とは?」


「それは、その……。

 『好き』だとか『愛しい』だとか……」


 改めて自分の口から言うと、恥ずかしくてたまらない。


《照れてる顔も可愛いな》


「今、わざと、わたしに恥ずかしいこと言わせて楽しんでますよね。

 意地悪です、湊斗さん」


 ぷくう、と頬を膨らませて顔を赤くした朧を、ベッドの中に引き込むと、湊斗は朧の手を握った。


《愛しているよ、朧。

 絶対に離さない。

 俺の心は、永遠にお前のものだ。

 誓おう、永遠の愛を》


 朧は、耳まで真っ赤に染めると、顔を背ける。


「だから、聞こえてますって!

 やめてください、恥ずかしいですから!」


 朧は手を離そうとする。


 湊斗はそれを許さない。


 こんなにドキドキしていたら眠れる気がしない。


 そう言おうと湊斗を見ると、目が合った。


「……駄目か?」



 朧は心の中で地団駄を踏む。


 か、可愛い……。

 

 なんて綺麗な顔なんだろう。


 そんな捨てられた子犬みたいな顔で言われたら、断れるはずがないではないか。


 いつも仏頂面な湊斗に、すがるようなこんな顔をされたら、なけなしの母性本能がくすぐられて、湊斗を拒絶することができなくなる。


「だ、駄目じゃないです……」


《やったー!

 朧と一緒に寝られる!

 またひとつ夢が叶った。

 ますます好きだ、朧》


「だから、やめてくださいって!

 恥ずかしくて寝られませんよ、わたし……」


 狭いベッドで、身体を寄せ合い、手を繋ぎながら、ふたりは夜を過ごした。


 温かなぬくもりに包まれて、緊張も忘れ、朧は心地良い浮遊感の中で眠りに落ちた。


 寝息をたてる朧を眺める湊斗は、唇の端をわずかに引き上げ、不器用に微笑んだ。



☆☆☆

 

「新しい妻を迎えることになった」


 唐突に告げれた言葉に、朧は少なからぬ衝撃を受けた。


「明日、こちらにくる」


《でも、安心しろ。

 俺のお前への愛が揺らぐわけではない。

 何も心配するな》


 相変わらず、本音を言葉にしない意地っ張りな湊斗に、じれったさを感じながらも、朧は不安を隠せなかった。


「新しい奥さんがきたら、わたしはどうなるんでしょう?

 いつまでも、ここにいてお世話になるわけにはいかないんじゃないんですか?」


「両親に気づかれなければ問題ない。

 お前は変わらずここにいろ」


《手放さないと言っているだろう。

 心配するな》


 不安を隠し切れず、表情を曇らせた朧は、ただ、こくん、湊斗の言葉に頷いた。


 

☆☆☆


 屋良小花やらおはなは苛立っていた。


 日本の政財界を牛耳る、随一の名家、龍ケ崎家当主、龍ケ崎湊斗と婚姻を結んで早くも一ヶ月が経とうというのに、湊斗は小花と会おうともしない。


 21歳になる小花は、自分が美人に分類されるビジュアルであることを自覚していたし、気難しいことで有名な美貌の当主、湊斗を振り向かせる自信もあった。


 あの龍ケ崎家に嫁いだことで、自分は勝ち組だと確信もしていた。


 しかし、湊斗は小花を妻として認めようとしない。



 小花は、上流階級の名家で、ご令嬢として大切に育てられ、自慢の処世術を駆使し、湊斗の両親に上手く取り入り、義父母には大層気に入られている。


 義理の両親は、湊斗の前の妻を引き合いに出し、小花を褒めちぎる。


 しかし、肝心の湊斗とは顔すら合わせておらず、相手にもされない現状に、ストレスが溜まっていく。


 頑なな湊斗の態度には、何か理由があるのではないかと疑った小花は、行動を起こした。


 小花には、他人の弱点を見抜くという異能がある。


 華やかな社交界の裏で繰り広げられる腹の探り合いには、非常に役に立つ異能だ。


 小花が目をつけたのが、使用人のみゆきだった。


 みゆきは、貧しい家庭で育ち、運良く龍ケ崎の使用人として雇ってもらい、給料のほとんどを、幼い兄弟の多い実家に仕送りしている。


 龍ケ崎からもらう給料は桁違いだ。


 学もないみゆきが、龍ケ崎家をクビになったら、次の就職先を探すのは困難だろう。


 そう弱点を読み取った小花は、解雇をちらつかせながら、みゆきから情報を引き出すことに成功した。


 何でも、この家の離れに、湊斗の前妻が匿われているという。


 湊斗は前妻を心から寵愛しており、離婚後も、彼女が離れで暮らしていることを、湊斗の両親すら知らないと、みゆきは語った。


 気に食わない。


 邪魔者は消してしまおう。


 湊斗の妻は自分だ。


 湊斗の心も、自分のものにしてみせる。


 昔から、小花は欲しい物は、何でも手に入れてきた。


 今度だって、きっと上手くいく。


 小花はすぐに次の手を打った。


 それは、湊斗さえ巻き込む、悪魔のような悪巧みだった。


 屋良小花は、夫の心を掴んで離さない、朧という名の、憎き女と、自分をないがしろにした湊斗を犠牲にすることもいとわない残忍な計画を実行した。


 







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