カフカの恋人
佐藤宇佳子
第1話 奈津と茜
「お帰り、茜!」
そう言って奈津は中ジョッキを掲げた。有無を言わさずあたしにも掲げさせ、霜で真っ白くくもった重たいガラスをがちん、と打ち鳴らすと、返す勢いでくう、と喉に注ぎ込む。くっくっくとジョッキの中の液体が減っていくのをあたしは呆れて見ている。これ、めちゃくちゃ冷たいよ、炭酸もきついよ、げっぷ出ないの? 中ジョッキをひと息で三分の二ほど空けると、たん、とテーブルの上に置いた。ふう、と息をついて、にこりと笑う。
「ほおら、飲んで飲んで。まあ、あっちでうまいビールを飲みまくってんでしょうけど、日本のきんっきんに冷えたのも悪くないでしょ? 食べ物、足りなかったらどんどん追加して。ここの料理、結構いけるんだから」
そう言うと続けざまに枝豆を三つ四つ、口に放り込む。あたしもつられるように枝豆に手を伸ばす。
「枝豆はさ、チェコじゃあおいしいのが食べられないでしょ?」
「うん、でも、向こうのビールには枝豆よりチーズかな。味が濃いから。ビールチーズとかさ。あれをつまみながらプラズドロイを流し込むの。たまんないよ」
「うげっ、私、あれ、ダメ。くっさいもん。茜、あんた、くっさい食べ物、昔っから平気だったよね」
「くさいくさい言わない。奈津がおいしい店を知らないだけ。今度おいで、教えてあげるから。そうだ、瑞希ちゃんと来たらいいよ、ムード満点なところ、紹介してあげるから」
「そのうち、ね」
奈津は、げふん、と盛大にげっぷをすると、ごめーんと笑い、ジョッキの残りを飲み干す。 大きく切っただし巻き卵を豪快にほおばり、こちらを見る。くっきりした二重瞼が美しい。
「五年ぶりの実家はどうだったよ」
あたしは濃いキツネ色にからりと揚がった唐揚げに歯を立てる。熱い! はふはふと冷ましながら香ばしい塊をひとくちかみちぎると、弾力のある肉から肉汁と脂が口の中いっぱいに広がり、しょうゆベースのたれのかおりが鼻に抜ける。あ、ショウガが効いてる。
「お父さんもお母さんも、変わりなかった。でも、まれが危ないかな。十六歳だしね」
「まれ?」
「ネコ」
「ネコかあ。十六歳だと心配だね」
「うん」
もの言いたげな奈津に目を向けず、あたしは唐揚げの残りを口にいれビールをぐぐっと飲む。
あっという間に中ジョッキを二杯ずつ飲むと、奈津は冷酒を頼んだ。あたしはもう一杯、中ジョッキをお代わりする。
「向こうでも飲みに行ってるの?」
「ときどきね。来月は美味しいスリヴォヴィツェ(プラムブランディ)を紹介してもらう予定」
「スリヴォヴィツェかあ。日本じゃ見ないねえ。いいなあ、今度帰国するとき持って帰ってよ。あ、それよか、山城くんに輸入してもらうか」
奈津が山芋の角切りをしゃくしゃく噛みながらこちらをうかがう。
「山城くん、去年からカフェを始めたよ、知ってた?」
「知らない」
「むかしお祖母さんがやっていた店を自分で改装したんだって。チェコから輸入したお茶が飲めて、お菓子や雑貨も買えるの」
「ふうん」
「もう、茜ってば。ねえ、七年だよ。私たちも三十路。いいかげん踏ん切り付けちゃおうぜ? 藤田くんの浮気が発覚したときは、三日後にはけろりとしてたじゃん。そろそろ合理的な茜さんに戻らないと、あんたも辛いでしょ?」
「まあね」
「とにかく、金曜日の飲み会には山城くんも来るから。思い切って話してごらん?」
奈津はからりとした声でそう言うと、冷酒のグラスを豪快に飲みほした。そのままグラスを持ち上げて「お兄さーん、お代わりー」と声を上げる。うなずく店員さんに、「こっちも」とジョッキを持ち上げた。
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