古の詩
1
丘の草原を歩いていると、集落の様なものが見下ろせる所に来た。自分が何処へ向かうべきかは分からなかったけど、まずは人に会いたいと思った。
綺麗に整えられた小道をゆっくりと下る。
鳥のさえずりや柔らかな木漏れ日が、心を次第に穏やかにさせてくれた。
遠く下の方から誰かが歩いて来るのが見える。
一人は老人で、彼の歩く速さに合わせるようにして他に二人の男の人が歩いている。
顔が分かるくらいなって、何か声を掛けようかと迷っていた時、老人が小さな目を大きく見開いた。
「お目覚めになられたのですな!」
突然声を掛けられ驚いて、こちらも目を見開いた。
老人は傍の若者に「おい、すぐヴァサマに知らせるのじゃ!」
と声を上げ、若者は転がる様に来た道を駆け下りて行く。
老人は小さな目を、今度はこれ以上ない程に細め
「…長きに渡り、お待ち申しておりました。アガタの神の御慈悲と救いに、感謝申し上げます」と話した。
何の事かはさっぱり分からなかったが、彼らに案内されるがままに一緒に小道を下りていく。
途中で差し掛かった美しい小川に目を奪われ、先に渡った若者が手を差し伸べている事にしばらく気づかなかった。
「この者は洗礼を受けておる使いの者です。どうぞご安心して、お手をお取りください」
と老人が言った。
若者はまるで神聖なものにでも触れるように、それでいてしっかりと握りしめて引っ張ってくれた。
ありがとう
と言いたかったのだが何故か声が出せず、代わりにニッコリと微笑んだ。
若者は「おお、神の微笑みを、有り難くお受け致します」と私を崇めた。
何だか調子が合わせられない。
自分が何者なのか、まだ私は分からずに居た。
2
集落にの広場には、多くの村人が集まっている。
彼女の到着を待ち侘びた様子で、ある者は崇める様にまたある者は好奇の目で、そしてある者はニコニコしながらその姿を見守った。
老人は皆に声は掛けなかったが、ただ穏やかに頷いてその前を通り過ぎる。その表情は久しぶりに帰って来た我が子を迎えるようにも、神様をお祀りするようにも見えた。
木造の家々が立ち並ぶなか、離れた場所に一軒だけ石の壁で造られた場所がある。窓もないその建物の前には、先に小道を駆け下りて行った若者が待っていた。
みんな建物の前で足を止めて、老人が中に声を掛ける。
「ヴァサマ様、お連れしましたですじゃ」
老人は振り返って、
「さ、中へお入りください。わしらは入れませぬゆえ、ここでお待ちしとります」と告げる。
彼女は促されるままに建物の中へと足を踏み入れた。
窓が無く薄暗い部屋。その四隅の松明に灯された炎が、部屋の中をほんのりと照らしている。家具の様な生活用品は無く、代わりに様々なものが壁に掛かっている。
絵なのか文字なのか分からない文章で埋め尽くされた旗のようなもの。何かの動物の骨らしきもの。催事に使われる様な飾り。どこかを描かれた地図。そして草原の中にひっそりと咲くあさがおの絵。
部屋の真ん中にはテーブルの様な台があり、そこにも松明が別々の色を灯して左右に立っている。
その向こう側で、壁の石板に向かって呪文の様な声を発しながら背中を向けている老婆がいた。石板には人の様なものを模した絵が彫られている。
老婆は呪文を終えると静かに彼女の方へ向き直った。
年齢は、分からない。その顔はもう人の寿命を超えたのではないかと思われる雰囲気があった。
表情はなく、ほとんど白くなった目だけがじっと見ている。
老婆はしゃがれた声で「ここへ、掛けなされ」と自分と向い合せの椅子を示した。小さなテーブルを挟んで、彼女はそっとその椅子に腰掛けた。
「異界の地よりそなたの御魂をここへ寄越されたるはアガタの神。そなたの姿はアガタの祈りの化身じゃ」
彼女は黙ってその話に耳を傾ける。
「古より伝わる伝承の一説にこの詩が記されておる。
【民が心に闇を宿す時、天は泣き、大地は怒
り、海は荒れ、風は黙す
人であったもの人の姿を成して人にあらず
慈悲深きアガタはこれを哀れみ、異界の地
よりその魂をもって救いを差し伸べん
ただひとたびの機会を与え、民が心に問ふ
未だ汝らの其の胸に、光のある事を願い
ナンサマ ナンサマ】」
難しい言語に続いて、老婆はジャラジャラとした飾りを両手で揉んだあと額につけた。
するとテーブルに置かれていた水晶の球が、にわかに光り始めた。
老婆は「授かった言葉を汝に伝えよう」と言って分かりやすい言葉で話して聞かせた。
「アガタとは、この世界の創造の神じゃ。アガタの神は、この世の行く末を案じておられる。人の心が憎しみ、恨み、妬み、傲慢に満たされれば、世界は崩壊へと向かうであろうと。
そのため、この世に蔓延(はびこ)る「闇」に染まらぬ者、異界の者の魂を呼び寄せ、その大いなる力をもって世を安楽と平穏の世界へ導かれるために、そなたは参られた。」
彼女は自分が何者なのか分からなかったが不思議とそれを畏れはしなかった。ただ、今の話を聞いて自分がここにいる意味が少しだけ分かった様な気がした。
「そなたは手のひらに治癒の力を授かっておられる。それはアガタの神がここへ寄越されし時、そなたの魂の中にある一部を具現化したものじゃ」
(私の中に、あったもの…)
老婆は少し声を潜めた。
「そなたはこの世の者では在らぬ。異界の地より魂だけを呼び寄せられ、姿を成したものじゃ。そなたは役目を無事果たされたとき、再び元の地へと戻られる。じゃがこれは誰も知らぬ事。誰にも理解できぬ事。隠す必要もないが話しても誰にもわからぬ。
そなたも、今は己が何者なので在るかご理解できてはおられぬはずじゃ。
この地でそなたは民の待ち侘びた救世の神の使者で在られる。なにとぞ民のため、この世のために其のお力をお貸し給え。ナンサマ、ナンサマ」
老婆は再びジャラジャラの飾りを揉んで額につける。そして飾りを彼女に掲げて言った。
「アガタの神のお告げにより、そなたにこの世の名を授けたもう。そなたの名は『ナーナ』。
古の言葉で、” 慈(いつく)しみ “ を意味する。
ナーナよ、その御魂とお力をもって民を守り救い給え。ナンサマ、ナンサマ」
呼び名を与えられたナーナは、新しい命を授かった様な気持になった。そこで初めて「ありがとうございます」と声が出た。
私の名前はナーナ。私は、この世界を救うた
めにこの世に生を授かった。
彼女が改めて胸の中でそれを繰り返すと、それは自然と染み渡り、自分自身の事として実感するに至った。
ヴァサマに頭を下げ建物の外へ出ると、最初に出会った三人の村人が待って居てくれた。
「お待たせ致しました。私の名は、ナーナでございます。これからよろしくお願い致します」
声を発した彼女に、老人は「おぉ…、おぉ…」と孫娘を愛でるように微笑んだ。
二人の若者が「ナーナ様、改めて村へとご案内致します」と、彼女の前に立って歩き始めた。
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