見果てぬ悪夢
翡翠
見果てぬ悪夢
バイトを終えた帰り道。ふとスマホから目を離すと、知らない家の前に寝台車が止まっている。近所のはずだが、こんな家は記憶にない。いつの間に建ったのだろう、そもそもここには何があったのだったかと呑気なことを考えていると、黒いスーツに身を包み白手袋をはいた男たちと共に、中から布に覆われた担架が顔を出した。やはり誰か亡くなったのだ、とだけ確認して目を逸らす。知らない家で知らない人間が亡くなったところで、俺には何の関係もない。――はずだった。
「……え?」
そうは言いつつ気になって目線を戻した、その先。担架の後ろに、遺影を持った知らない女性が続く。問題は、その腕の中の遺影だ。
「あ、にき……?」
どう見ても、あれは俺の兄だ。いや、そんなはずはない。電話で相談に乗ってもらったのが、つい昨日の話だ。それに、遺影を抱えるあの女性も、更に後から出てきた人たちも、誰ひとりとして知らない。もちろん俺も兄の交友関係を全て把握しているわけではない。しかし、あんなに「家族」然とした人たちを、俺は知らない。
何かの間違いだと思った。間違いであれと願った。けれど、いくらここ数年会っていないとはいえ、それまで二十年間顔を合わせ慕ってきた兄の顔を、たった数年で間違えるはずがない。眼前に広がる悪夢に、真正面から押し潰されていくような感覚があった。なぜ俺に何の連絡も無いのか。両親は今どこで何をしているのか。なぜ兄はその家から出てきたのか。彼らはいったい何者なのか。分からないことが急激に押し寄せてきたせいで、今にも脳が処理落ちしそうだった。
もう一度目を逸らすことも立ち去ることもできず、ただ道端に立ち尽くしている。気付けば驚くほど呼吸が浅い。このままではまずい。深呼吸をしようと息を吐き切った、その時。僅かな振動と共に電話が鳴った。両親だろうかと思いスマホを手に取る。画面に表示された通知に、俺はまた気管が狭まった気がした。
どう見ても兄からなのだ。
何が何なのかひとつも理解が及ばないまま、震える手で応答を押し、もしもしと声を振り絞る。
『もしもし、ケイ? 今どこ?』
いつもと変わらない声だ。兄は生きている。流石に俺の見間違いだったのだと安堵しながら、家の近くにいると返す。
『ふーん』
声を聞いて落ち着いたのか、いくらか頭が明瞭になってきた。兄の無事が確認された今、これでは何の脈絡もない。急にどうしたのかとこちらが尋ねる間もなく、兄が話を続けた。
『ねえ、俺のカラダ知らない?』
「え?」
耳から聞こえる単語が、会話に上手く噛み合わない。兄は何を探しているのだろう。
『俺の体、知らない?』
まるでイヤホンかスマホでも失くしたかのような軽さで、けれどどうしてもそうとしか聞こえない発音で、兄はそう繰り返した。
違う。これは兄じゃない。兄は俺にこんなからかい方はしない。誰なのだ、この声は。停まったままの寝台車の横で、女性がなぜか俺に向かって遺影を抱えたまま俯いている。静止画の兄が、いや兄によく似た誰かが、俺のよく知る微笑みを絶やすことなく俺を見つめている。季節外れの寒風に、俺は体を震わせた――
「――っ!」
いつもの自分の部屋だ。汗でぐっしょりと濡れたシャツの気持ち悪さにさえ人心地が付く。時計を見ると、まだ午前二時だ。寝直すにしても水が飲みたい。あれは悪い夢だったのだと言い聞かせて部屋を出る。
「え…………」
おかしい。目の前は兄の部屋のはずだ。数年前から無人ではあるが、兄のものがそのまま残っているはずなのだ。しかし、そのドアに「
不意にカタンと物音がした。パチリとひとつ電気がつく。
「わぁぁ」
我ながら随分と情けない声を上げて尻餅をついてしまった。見ると、母が不思議そうにこちらを見ている。
「
「……なんで」
「え?」
「なんで空にしたの」
裏返ってまともな声にならない。嫌というほど見てきたのに、なんだか知らない顔のような気がしてくる。母が電気を背にしていて影が濃いせいだろうか。光を反射しない目に、まるで氷に囲まれてでもいるかのような寒さを覚えた。
「なにが?」
「あ、ぁ兄貴の部屋、なんでなんにも無いの」
先ほどの夢で見た兄の遺影がフラッシュバックする。気管に詰め物でもしたのかと思うほど息が吸えない。そういえば、あの写真は目が笑っていなかった。兄貴はもっと柔らかく笑うのに。
「何、言ってるの?」
心底困惑した様子で母が言う。やはり声だけは間違いなく母のものだ。この声で何度『あんたいい加減にしなさいよ』と叱られたか分からない。でも、こんなに冷たい顔だっただろうか。
「あなた、ひとりっ子でしょう?」
見果てぬ悪夢 翡翠 @Hisui__
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます