4+3=7

かつエッグ

4+3=7

1)

 次々と運びこまれる患者に、息つく暇もなく働きつづけたERでの当直あけ、わたしは眠気をこらえながら、車を走らせていた。

 アパートへの帰り道、立ち入り禁止のテープが渡された、がらんと広い空き地の横を通りかかる。そこは以前は確かスーパーだったのだが、営業をやめ、建物も壊されて、だいぶ前から更地になっていた。

 荒れてところどころ雑草が茂った、不法投棄の錆びた自転車まで転がっているその空き地に、人影をみかけた。

 よれよれの服を着た、痩せた若い男だった。夏の日差しが照りつける中、うつむいて、じっと地面を見つめていた。

 訝しみながらも通りすぎようとして、わたしは思わず車のブレーキを踏んだ。

 ひどくやつれて、頬がこけ、ひげものびていたが、あれはまちがいない。

「安田君!」

 わたしは車をおりて、呼びかけながら彼に近づく。

「安田君じゃないの!」

 わたしの声に、彼は顔を上げた。

「あ? ああ……立花か」

 それまで彼の顔に浮かんでいた険しい表情が、ふっと緩んで、わたしの良く知っていた笑顔にかわった。

「ひさしぶりだな立花」


2)

 彼――安田康平は、わたしの医学部での同級生だった。

 彼はたいへんな秀才だった。入試も主席だったが、入学後も成績は一位をキープしていた。かといって、医学部学生の中に常に一定数いるような、試験成績は確かに優秀だが、それ以外の部分ではいかがなものかと評価されてしまう偏った人間ではなかった。真面目で、思いやりがあって、他人の気持ちに共感できる、そう、まさにこういう人にこそ医者になって欲しいと皆が思うような、そんな学生だったのだ。社会情勢にも関心があり、将来は海外でボランティア活動をすることも考えていたようだ。わたしはそんな彼が、同じ道をすすむ仲間として好きだった。

 しかし、彼は医師にはならなかった。

 大学五年の夏以降、彼の姿をキャンパスで見かけることがなくなった。そしてとうとう名簿からもその名は消えてしまった。退学したということだった。

 理由は誰も知らなかった。

 それから月日が流れ、わたしは大学を出てなんとか国家試験にも合格し、今、初期研修医として働いている。

 まだ右も左も分からない中、必死にこなしていく業務の合間に、ふと彼のことを思い出すことが何度かあった。わたしなんかよりはるかに医者にふさわしかった彼は、いまどこでどうしているのか、と。

 その彼が、こんなところに。こんな姿で。

「ねえ安田君、いろいろ話したいから、来てよ」

 わたしは、直明けの眠気などどこかに消し飛び、その場から離れたがらない彼を、強引に車に乗せたのだ。


3)

「それで――?」

 わたしたちは、近くの喫茶店に入り、向かい合って座った。

 彼はアイスコーヒーを頼んでいた。冷えたコーヒーのグラスには、さっきまで炎天下に立ち尽くしていた彼の汗のように、滴がたれていた。

「それで、とは?」

「できれば、ぜんぶ話してほしい。なんで大学をやめてしまったのか、それからどうしていたのか……」

 気持ちのままに口に出してから、わたしは自分が無遠慮に踏みこんでいることを自覚し、そして、そっとつけくわえた。

「まあ、できたら……で、いいんだけど……」

 彼は、しばらくだまってわたしを見ていた。

 やがて、

「そうだな……」

 アイスコーヒーを一口飲み、言った。

「たぶん、立花は信じないと思うよ。だが……まあ、聞いてもらうのも悪くはないかな」

 そして彼は話し始めた。


4+3=7)

 医者になるのは、俺の小さな頃からの夢だった。

 なんでだろうな。

 自己満足かもしれないんだが、

 自分の手で、人の命を救うということが素晴らしいことと思えた。

 そして俺は医学部に入り、医師になるための勉強をはじめた。

 充実していたんだ。

 はやく一人前の医師になって、病に苦しむ人を助けたい。そう思って、勉強を続けていた。

 ただ、世の中には悲惨が満ちていて、そんなニュースを目にする、耳にする度に、つらい気持ちになった。戦争がおきて、罪もない人たちが何万人も死んでいった。

 一刻も早く一人でも多くの人を救えるように、がんばらなくては、と自分を奮い立たせるけれど、それで自分にどれほどのことができるのか、無力感に襲われることもしばしばだった。まわりのみんなは気がつかなかったかもしれないが、俺は、このままでは世界は破滅するんじゃないかという予感のような、不安のような気持ちを常に感じていたんだ。

 そんなある日だ。

 教科書を広げ、要点をノートに書き写していた。

 すると、突然、俺の頭の中に閃いたフレーズがあった。

 よんぷらすさんいこーるなな

 4+3=7

 まるで霹靂のように、くっきりと俺の脳裏にその計算式が浮かんだ。

 俺はびっくりして、思わずペンを取り落としたよ。

 4+3=7って……。

 いや、まったく意味が分からない。

 脈絡がない。

 そのとき読んでいたのは、ほら、あのハリソン内科学の本だったけど、そのページには、俺の頭の中に浮かんだ式に関係するような項目も記載もなにもなかった。

 では、いったいどこからこの計算式はやってきたのか?

 俺は、手がかりをもとめて、あたりを見回したが、そんなフレーズを連想させるもの、俺がその数式を思いつくようなヒントとなりそうなものはなにもない。

 不気味だった。

 根を詰めすぎたんだろうか。

 だが、まるで強迫観念のように、計算式が頭から離れない。

 もう勉強にまったく集中できなかった。

 俺は休憩を取ることにして、椅子から立ち上がった。

 なにか冷たいものでも飲もう。

 そう考えて、キッチンに行った。

 冷蔵庫から、麦茶のピッチャーを取り出して、キッチンテーブルの上で、グラスに注いだ。

 そして、そのとき俺の目が、テーブルの上のあるものに留まった。

 それは箸立てだ。

 テーブルの上に置かれた、円筒形の青い箸立てには、今、箸が4本さしてあった。

 これだ!

 どうしてかわからないが、その瞬間、閃くものがあった。

 俺は、シンクの横の水切り籠から、洗って置いてあった箸を3本、急いで手にした。

 そして、その3本を箸立てに追加した。

 箸は7本になった。

 俺の頭の中で、すうっと結ぼれが解けるように、あの数式が消えていった。

 これが正解だったのだ。

 どういう意味なのかはわからないが。

 これでよし。

 俺は冷えた麦茶をごくごくと飲み干し、すっきりした気持ちで自分の部屋に戻った。

 そこからはまた勉強がはかどったよ。


5)

「おかしな話だろ」

 と彼は、わたしの目をのぞきこみ、反応をうかがうように言った。

 彼の視線を受け止めきれず、たぶん、わたしの目は泳いでいただろう。

 だが、彼は気にするそぶりもなく、話を続けた。

「これが、すべての始まりだったんだよな」


6-2=4)

 それからしばらくは、何も変わりはなかった。

 数式が突然頭の中に浮かぶようなこともなく、俺は毎日を忙しくすごした。

 各科の試験勉強や、ポリクリの準備や復習、あの頃の俺たちにはやらなきゃならないことはいくらでもあったからね。

 ところが、実習が長引いて、すっかり帰りがおそくなってしまったある日のことだ。自転車で夜道を走っていると、

 ろくマイナスにイコールよん

 6-2=4

 またそれが起こった。

 俺の頭の中に、計算式が現れたのだ。

 もうペダルをこいでいられなかった。

 道ばたに停まると、自転車から降りた。

 6-2=4

 もちろん、今その式をおもいつくようなきっかけなどどこにもない。

 しかしその数式が頭の中をぐるぐる回って、どうしても消えてくれない。

 無視しようとしたが、そうすると胸騒ぎが沸き起こって、なにか良くないことが起こるという予感が、どんどん強くなっていくんだ。

 たえられなかった。

 俺はあせって、周りを見回した。

 最初の時と同じように、なにかが俺の行動を待っているはずだと思った。

 そんな俺を、ヘッドライトをつけた車がどんどん追い越していく。

 そして、とうとう見つけた。

 歩道には、街の美化のために花壇が等間隔で設けられている。

 花壇には、さまざまな樹木や花が植えられているのだが、一つの花壇には、朝鮮朝顔トランペットフラワーが植えられていて、白く長い、大きな花が垂れ下がるように咲いていた。

 今、暗くなった歩道で風に揺れている花の数は、六つだった。

 これだ。

 俺は確信をもって、そのうち二つの花を捥いだ。

 その瞬間、俺の頭から数式は消え、予感も消えた。

 ほうっと、深い安堵感が胸に広がった。

 俺は自転車にまたがり、アパートに帰ったんだ。


7×8=56)

 もう予想はつくだろうが、それから俺の頭の中には計算式が突然浮かぶようになった。

 それも頻繁にだ。

 しかも、脳裏に浮かぶ数式の解がだんだん複雑になっていったんだ。

 その計算式を成立させるための、正解をみつけるのに、必死で頭を絞らなければならないんだ。市役所の塀に、石鹸を56個並べたこともある。電線にとまる雀の数を、25羽に調節しなければならなかったこともある。青信号で横断歩道を渡る子供の人数を、強引に13人に合わせなければならなかったこともある。かなり危険なこともせざるをえなかった。つねにぎりぎりの綱渡りなんだよ。5143枚の銀杏の葉。10024粒の海の泡……。

 そしてとうとう俺は、起きている時間のほとんどを、これに費やさなければならなくなってしまった。


9)

「それ、無視できなかったの? 放っておけないの?」

「だめだ」

 と彼は言う。

「俺の頭の中を占拠するその数式のために、他のことができないんだ。それに――」

 彼は、ひどく真摯な、そして確信をこめた声で、わたしを見つめながら言った。

「計算式を実現しないと、この世界が滅びに近づくからだ」

 わたしは、心の底からそう言っている彼の様子に、恐怖を感じた。

 そして、おずおずと聞いた。

「安田君、わたしも今は医師だからいうけど……怒らないでね。あなた医者にはかかった?」

 精神の不調、疾患ではないのかという含みだった。

「ああ」

 彼は、わたしがはっきりとはいわなかったことを正確に受けとって答えた。

「五年生の夏、立て続けに計算式が浮かびだしたころ、精神科の教授のところにいって、相談したよ」

「で?」

「君には強迫観念や妄想、そういう症状があって、日常生活に支障をきたしているから、薬を飲んだ方が良いって」

(やっぱり)

「飲んだの?」

「うん」

 彼は、あっさりうなずいた。

「教授は、自分の外来に俺の予約を入れて、今後通院するように言った。幻覚妄想をおさえるために、抗精神病薬をだしてくれた。俺もまあ、その時は、それでこの不安や辛さがなくなって、へんな数式も頭に浮かばなくなり、もともとの目標通り医者になる勉強ができるなら、って思ったからね。言われたとおりに飲んだんだ」


10+0=10)

 教授は、俺の話を馬鹿にせず真剣に聞いてくれたし、なんとかしようと薬も出してくれた。そのことに対しては感謝している。

 それで、薬を飲んでどうなったかというと、計算式が浮かんでくるのは止められなかったが、そのあとの不安感、胸騒ぎは少し軽くなった。一刻も早く数式を実現しなければならないという焦燥感は弱まって、奔走しなくても少しの間は持ちこたえられるようになった。

 何度目かの診察でそう伝えたら、教授は喜んだよ。

 効果があるようだから、続けていきましょう。症状がおさまれば、また勉強もできるから。

 そういって励ましてくれた。

 俺も納得して、浮かんだ数式を、薬の力も借りてできるだけ放置するように努力した。

だけど――


111-23=88)

「……そんなことをしてはいけなかったんだ」

 彼はひどくつらい顔をした。

「ええ? どうして」

「おれがそうやって手をこまねいていたために」

 戦争が勃発した、と彼は言った。

 海外で、二国間の地域紛争がエスカレートして大勢の人が死んだ。

 わたしも、そのニュースくらいは知っていた。瓦礫と化した街。日々増えていく犠牲者の数。

「おれが、111-23=88という数式を実現しなかったために、あれは起きてしまったんだよ。あの戦争が始まったことを報道で知ったとき、俺の中に、これは俺の責任だという確信が抗いようもなく沸き起こった」

「そんなことって!」

 何をばかな、ありえない、信じられないとしかいいようがなかった。

 だが、彼は静かに続けた。

「おれは慌てて、そのときやっていたことをすべて放り出して、数式を実現しようと奔走した。正解を求めて、一日中、飲まず食わずで街を徘徊した。町外れに、最近廃業した大きな工場があるだろ。けっきょく、夜中に、あの工場のガラスに石を投げて、23枚割ることで、解決したよ。そのとき廃工場のガラスは111枚残っていたから、111-23=88なんだよ」

 わたしのあきれた表情をみて、彼は言った。

「あとから確認したけど、俺が工場のガラスを23枚割って、数式を実現したまさその同時刻に、二国の間で停戦が成立したよ」

 わたしは、正直な気持ちを彼に告げた。

「悪いけど、そんなのわたしには信じられないよ……ただの偶然じゃないの?」

「偶然? それならよかったけどね」

「だってまったく理屈が通らないよ、あなたがガラスを割ることと、外国の戦争に何の因果関係があるの」

「立花、俺の言うことが、現実とは関係のない、ただの妄想だとおもってるんだろ?」

 彼はわたしの考えを読んだように言った。

「俺だって、そんなばかなことがあるかと思って、何度か確かめたんだよ。だけど、やっぱり同じ事だった。俺が計算式を実現しないでいると、世界に悲惨が増えていくんだ。そしておれが計算式を達成すると、悲惨は減る」

 そう告げる彼の信念は揺らぐ気配もなかった。

「なんでそんなことが起こるのか、それに何かの理屈がつかないのか、おれも頭をふりしぼって考えた。それはカオス理論で言うところの、小さな変化が回り回って大きな変動を引き起こすバタフライエフェクトの一種なのかもしれない、あるいはユングが提唱したような世界の共時性の問題なのかもしれない、でも、そんなことは重要じゃないんだ」

 と、彼は強い口調でいった。

「おれは、こうするしかないんだ……原理も機序もわからないが、そうである以上……そして、今、おれの頭にこんなに次々と式が浮かんでくるのは、世界が大きな悲惨に向かって滑り落ちていくペースが速くなっているということなのかもしれない。いくらおれががんばっても、とても追いつかないのかもしれない。でも、こうするしかない、それしかないんだよ」

 最後の言葉は、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。うめくように絞り出した言葉だった。

 わたしは、そんな彼の顔を見るのがつらかった。

 彼のいうことは、わたしにはやはりどうしても信じられない。でも、その行動がおかしな妄想に支配された意味のない一人芝居にすぎないとしても、それでも彼は一人で戦ってきたのだ。

 そして多分これからも。

 わたしに何ができる。

 何も言えなかった。

「立花、最後まで聞いてくれてありがとな」

 わたしがだまっていると、彼はそう言った。

 レシートをもって立ち上がる。

「もう、いかないと」

 空き地で彼を見かけたときにその顔にあった焦燥感が、今も表情に現れていた。

「俺の頭の中にある、この計算式を早く実現しないと、大惨事がおこる。急がないとな。さっき立花に声をかけられた時、俺はあの空き地に転がっている小石の数が、答えじゃないかと考えていたんだよ」

 彼は最後に、わたしに優しく笑いかけた。

「お前も、仕事がんばれよ」

 そして、炎天下の戸外へ出ていった。

 早足で去っていく彼の、細い後ろ姿が、強烈な日射しの陽炎の中、ゆらゆらとゆらめいていた。


12)

 彼がそうして出ていった後、整理のつかない考えが渦巻いて、わたしは席から動けないでいた。

 すると、テーブルの上で、彼の飲み干したアイスコーヒーのグラスが、突然カタカタ揺れた。

 続いて、テーブル自体が大きく揺れはじめた。

 天井が軋んで、ぶら下がった照明がちぎれそうなくらい激しく揺れた。

 喫茶店のあちこちで小さな悲鳴が上がった。

 しかし、揺れは、断ち切られたように唐突に止まった。一瞬の静寂のあと、ほっとした客たちが声高に喋りはじめる。

 スマホの通知をみて、震度3の地震だったと知った。「今後も引き続き大きな揺れに警戒してください」と、報じられていた。


 安田君、まさかあなたは今、これを止めようとしているの?


 わたしは、自分が泣いているのに気がついた。


(了)

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