第2話 赤鬼の手
何かが家を徘徊しているペチャペチャと水分を含んだ足音が聞こえて、ぬらりひょんに見つかりませんようにと願いながらタロウ君を抱きしめて、頭を撫でて、背中を撫でて、柔らかくてすべすべのホッペにチューして、ブルブルと震えた。
俺は死んでもいい。でもタロウ君には生きていてほしい。こんなクソみたいな世界だけど、生きてればきっとパンデミックは過ぎ去り、時間はかかるかもしれないけど安全で平和な日常が戻るはずで、その世界でタロウ君には幸せになってほしい愛している。
幼稚園を卒業して小学生になってカードゲームやコンシューマゲームや携帯ゲームにハマって、それなりに勉強もして、好きな女の子も作って、小学校を卒業して、中学校になってエッチなことを覚えて、ニキビもできて、好きな女の子と喋りたいのに距離を作ったりして、高校生になって恋人を作ってデートして、将来どうしたらいいかわかんねぇー、とか言いながら未来のことを漠然と考えて悩んで、勉強して大学に行って、……パパは高卒だから大学のイベントは何があるかはわからないけど、タロウ君が大学に行って、楽しんだり堕落したり女の子とデートしたり、そして好きなことを見つけて仕事をしてほしい。夢中になれるものを見つけて大人になってほしい愛している。
この子だけは生きてほしい、と俺は願いながら、タロウ君を抱きしめようとしたけど、結衣さんに噛まれた右手が重たくて、左手だけでタロウ君を抱きしめる。
どれだけ時間が経ったかはわからないけど、遠くからペチャペチャという足音は聞こえなくなり、タロウ君のスピースピーという寝息だけになったけど、家にナニカが潜んでいるかもしれなくてクローゼットから出ることができずに俺は寝転んだ。
俺はタロウ君の敷き布団になって、お腹の上で彼を眠らせた。
頭が膨張した老人のバケモノのことを考える。我が家に入って来て俺達を探しているのかもしれないし、もしかしたらお茶でも飲んでいるのかもしれない。バケモノが家にいるかもしれない、と思うだけでクローゼットから出れなくなる。
それにしても体が熱い。
気温は低くてタロウ君が風邪を引かないか心配なのに、俺の体だけが熱い。結衣さんに噛まれたところが熱源で、右手にカイロを貼り付けられたみたいに熱い。
ウイルスが手の中で暴れて、体の中に侵入しようとしてくるけど、手首に巻きつけた糸が邪魔でウイルスが侵入できずにいるような気がする。気がするだけで、もうすでに俺はウイルスに冒されているかもしれない。
糸を巻きつけても意味ないよ、と思ったけど、意外とウイルスは、こんなモノで体に侵入しないのかもしれない。ウイルスよ、侵入して来るな。俺が感染者になったらタロウ君を殺してしまう。
せめて感染まで数日あれば、隣の県の避難所までタロウ君を連れて行けるのだ。
まだWi-Fiが使えた時に防災アプリで避難所の場所は把握していた。避難所は自衛隊が運用している。
避難所に行かなかったのは、感染者あるいは感染の疑いのあるモノは然るべき処置をすることになっているからだった。
然るべき処置というのは、殺すということだろう。自衛隊が感染の疑いがあるモノを射殺したというニュースも報道されていて、のほほん日本連合組でも、人類をかけた戦いなら、人を殺す。
体が熱くなって、睡魔に襲われて、何者かが徘徊しているかもしれない家のクローゼットの中でタロウ君を抱きしめて目を瞑った。
しばらく眠っていたと思う。
瞼の奥が痛い、っというか眩しくて、目を開けると光が目に入って来る。
「アナタの名前はなぁに?」
とタロウ君の声が聞こえた。
光に手を伸ばすと光が遮断できた。タロウ君が防災用ライトで俺の顔面を照らしている。
「アナタの名前はなぁに?」
とタロウ君が、しつこく尋ねて来る。
寝ぼけた頭で、
「新田イチロー」と本名を答える。
「ト◯ロっていうのね」
とタロウ君が言う。
「ト◯ロぉー」
と俺は言いながら、頭が覚醒していく。
そういえば、ぬらりひょんが家にいるのだ。結衣さんは? バケモノになって殺されて、それで俺は噛まれて……ママのことをタロウ君になんて言えばいいんだろう?
ケラケラケラケラ、とタロウ君が笑って、もしかしてぬらりひょんにバレるかもしれないと俺は焦る。
「タロウ君、しっ」
と俺は人差し指を立てる。
「バケモノがね、家にいるかもしれないんだ」
「こわい」とタロウ君が言って、俺に抱きつく。
「ママは?」とタロウ君が俺にしか聞こえない小さな声で尋ねた。
「ママはね」と俺は言いながら、嘘を考える。
「様子を見るために避難所に先に行ったんだ」
「ママだけ?」
「ママだけ」
「なんで」
「避難所が危なくないか見に行ったんだよ」
「ココにいればいいのに」とタロウ君が言う。
「タロウ君も避難所に行く?」
「うん」
「ハハがもげて3000人だね」とタロウ君が言う。
母がもげて3000人?
母が3000人も、もげるのか?
「もしかして、母をたず◯て三千里?」
「そう」
「よく、そんな昔のアニメ知ってるね」
「ヨウチエンで見たんだよ」
「そうか」と俺は言いながら、タロウ君を左腕だけで抱きしめた。
タロウ君のママは死んじゃったんだよ。タロウ君が可哀想で、結衣さんが可哀想で、妻の笑顔を思い出して涙がボロボロと溢れ出した。
結衣さんが妊娠していた頃のことを思い出す。まだお腹の子に名前が付いていなくて、仮にタロウと呼んで結衣さんの大きくなったお腹を撫でていた。朔太郎という名前に決定した後もタロウのまま呼んでいる。
彼女の大きなお腹を撫でたり、耳を当ててタロウ君がお腹の中で動くポコって音を聞いたりしていると、
「イチロー君もパパになるのよ」
と彼女は言いながら俺の頭を撫でた。
「そうだね」と俺は言いながら、結衣さんの大きなお腹にキスをした。
「嬉しい?」
「嬉ちぃ」と俺は言う。
「タロウ君、必ずパパが避難所まで連れて行ってあげるね」
と俺は言って、鼻水やら涙が溢れ出す。俺は結衣さんがいて、タロウ君がいて、幸せだったのだ。俺が殺されてもタロウ君を避難所に連れて行きたい。結衣さんはタロウ君を俺に託したのだ。
「パパ泣いてるの?」
「パパは痛いんだ」
「チュウシャしないとダメだね」
とタロウ君が言う。
「ぼくがチュウシャしようか? どこいたい?」
「手」と俺は言う。
タロウ君が防災用ライトで手を照らす。
「わぁ」
とタロウ君が小さい声で叫んだ。
「どうしたの?」
「パパの手、ゾンビ」
とタロウ君が言う。
防災用ライトに照らされた手を見る。
手は赤くなり、爪は真っ黒になっている。それに岩のようにゴツゴツとした異常なほど筋肉質な手になっていた。
ゾンビの手というよりも、それは赤鬼のような手だった。
感染している。
だけど結衣さんが糸で結んだところで感染は止まっていた。
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