30:涙
私はやるせない気持ちで生徒玄関に下り、漣里くんの靴箱の蓋を開けた。
外靴が入っている。
ということは、まだ帰っていない。
校舎のどこかにいるはずだ。
どこだろう……?
少し考えてから、私は以前漣里くんとみーこが仲直りした特別棟の屋上に向かった。
二階の家庭科室から、女子たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。
その声を聞きながら、特別棟の階段を上り、途中で資材を抱えた生徒たちとすれ違い、屋上へ。
ドアノブに手をかけると、鍵はかかってなかった。
ここは立ち入り禁止なのに、誰かがいる。
はやる気持ちを抑えて、私は扉を開け放ち――そして、固まった。
夕陽が差す屋上には、確かに人がいた。
でもそれは私の望んだ人ではなく、むしろ会いたくなかった人たち。
真ん中にいるのはかつて漣里くんが殴った相手、
大柄で、横幅もある男子。英語のロゴが入った真っ赤なシャツの上にカッターシャツを羽織り、胸には趣味の悪い髑髏のシルバーアクセサリー。
彼は狂犬そのものの目つきをしていて、歩くと自然と皆が道を避ける。
万引きしたり、街の不良グループを潰して回ったという漣里くんの噂は、本来彼のものらしい。
野田くんの右にいるのが
ブリーチで脱色した髪に、そり上げた眉。
野田くんとは対照的に、彼は細身の体格だった。
ただし野田くんの右腕になるほど喧嘩は強いと聞く。
左にいるのが小太りの
野田くんの祖母は市議会議員で、加藤くんの叔父さんは教育委員会の委員らしい。
だから先生たちも彼らにはあまり強く注意できないんだと聞いた。
漣里くんが殴った相手が五組の野田くんだということを知って、私はどんな人なのかと情報を集め、実際に見に行ったことがある。
ちょうど昼休憩だったそのとき、野田くんは林くんという男子生徒にパンを買いに行かせていた。
林くんは気弱そうな生徒。
直感的に漣里くんが庇った相手は林くんだろうと思った。
五組の生徒の話によれば、林くんは入学当初から野田くんに目をつけられ、苦労しているそうだ。
それを気の毒に思う生徒もいるけれど、自分に火の粉が降りかかると困るから、皆見て見ぬふり。
教師もなんとなく察していても、野田くんたちの背後にいる権力者のことを思うと強くは言えない。
多分、この学校で一度でも野田くんたちの横暴を止めたことがある勇者は漣里くんだけだ。
「ああ?」
屋上のど真ん中で車座になり、何か話していた彼らは私を見て不愉快そうな顔をした。
「何見てんだゴラァ! ここは俺ら以外立ち入り禁止だ、失せろ!!」
「ひっ」
加藤くんに巻き舌で凄まれて、心臓が縮み上がる。
「な、なんでもないですっ、お邪魔しました!」
私は扉を閉め、泡を食って逃げ出した。
あ、危なかった……ほんとに怖かった。
ばくばくと跳ね回る心臓が落ち着くまでしばらくかかったけれど、私は深呼吸して無理矢理に気を取り直した。
校舎をさまようこと三十分、私はついに漣里くんを見つけ出した。
漣里くんがいたのは一年棟の屋上だった。
なんのことはない、一年三組の教室を後にしてすぐ階段を上っていれば、そこに彼はいたんだ。
そうとは知らず、図書室やら空き教室やら、色んなところを回っちゃったよ。
捜索にかけた三十分の間に太陽は傾き、視界はすっかり秋のオレンジに染まっていた。
給水塔や鉄柵の影が長く伸びている。
彼は給水塔の影に隠れるようにして、座って本を広げていた。
オレンジ色の光に照らされた彼の輪郭はとても美しいけれど、物悲しい。
校舎の中も外も、文化祭準備に浮かれる生徒たちの笑い声に満ちているのに、ここだけ世界から切り離されたかのように静か。
給水塔に背中を預け、本に目を落としている漣里くんはまだ、離れて立っている私の存在に気づかない。
ぱら、とページを戻す音が聞こえた。
続きを読むのではなく、読み返すための動作。
目は文字を追っているのに、内容が頭に入ってこない、そんな感じだった。
彼が小さくため息をつく。
そんな音すらも届くほどの――耳が痛いほどの、静謐。
漣里くんはいま、何を考えてるんだろう。
クラスメイトから疎外されて。
賑やかな喧騒から追い出されて。
ため息をついた彼の心境はわからない。
私は彼本人ではないんだから、わかるわけがない。
でも、私は。
「…………」
私は、悲しい。
収まったはずの涙の衝動が、ここにきてぶり返した。
視界が滲み始める。
この光景が、彼が独りでいる光景が、堪らなく悲しくて、悔しい――。
「真白?」
目元を覆った直後、驚いたような声が聞こえた。
見れば、驚きと困惑の混ざった顔で、漣里くんが立っていた。
足元には閉じた本。タイトルはヘミングウェイの『老人と海』。
こんな本も読むのか、と少しだけ意外に思った。
「どうした? 何があった? 誰かに何かされたのか?」
漣里くんは慌てたように歩み寄ってきた。
彼の心配は私のことばかりだ。
いつだってそう。
付き合っていることを隠そうとしたのも、全部、私の身を案じてのことだ。
私が嫌な目に遭わないように、私のことを気遣って。
でも、違う。
違うんだよ、漣里くん。
そんな気遣いされても、私は嬉しくないんだよ。
私のことじゃなくて、もっと自分のことを心配してよ。
「私は……」
言葉が喉につっかえる。
「私は、漣里くんが独りでいるのが悔しい……」
呆けたような顔をする漣里くんから視線を落とし、私は泣いた。
「付き合ってることを隠したくなんてない。他の人に何を言われたって、本当に、どうだっていいの。ただ漣里くんの傍にいられたらそれでいいんだよ」
私は泣きながら、彼の手を取り、強く握りしめた。
手のひらに思いを伝える力があるのなら――ああ、どうか、お願いだから。
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