因習村の先生代理

未了

第1話 単位をください。

 線香守をする。それが、富岡教授から提案された、単位授与の対価であった。

「僕の実家は、栃木の山奥の方でね。毎年、盆には必ず帰って墓に線香をあげなきゃいけないんだけど、どうも今年は採点とか学会が忙しくて帰れそうになくて」

教授室のうず高く積まれた書類の隣で、土下座の形を崩さぬ僕に、先生は至極気だるそうに言う。

「まぁ、正直なところあまり帰りたいようなところでもないんだ。でも、君が僕の代わりに行ってきて、少し墓の面倒を見てくれるのなら──ゼミの単位を渡してもいい」

 願ってもない話に、僕が歓喜の涙を浮かべながら頷いたのは、言うまでもない。かくして僕の伊座村での夏季フィールドワークが決定した。とはいえもちろん、大きな声で言える話でもないので、表向きは先生の故郷である伊座村について、なんでもいいからレポートに書いて提出し、それに適当な加点をつけてくれるとのことである。フィールドワークの名目なのだから、やることはやらなければなるまい。このたった三千文字のレポートで留年の憂き目を逃れられるのなら、願ってもない話であった。


 かくして、単身伊座村送りが決まったわけだ。


 伊座村は、先生の言葉通り栃木県辰巳町伊座郡奥地にある小さな集落だ。人口はおよそ300人ほどで、かつては鉱物の生産で栄えていたそうだが、60年代後半に公害被害がこの地にも出て、徐々に衰退していった。今はよくある田舎。名物は漬物。これは隣の市町村でもよく食べられているもので、まあ要するに、パッとするような特徴は何もないということだ。


 とはいえ、田舎は嫌いじゃない。東京生まれ東京育ちのシティボーイとしては、自然への漠然とした憧れがある。なにより、人が少ないのがいい。関東にも関わらず、都心から電車で三時間半の行程と、そこからまださらにバス移動、という交通の便の悪さには舌を巻いたが、これだけ美しい緑が広がる車窓は、なかなかお目にはかかれないし、行き道の楽しみは十分に見いだせた。がらがらの鈍行列車にぼんやりと揺られていれば、終点の伊座駅までは、存外すぐだった。

座りっぱなしで痛む腰をさすりながら電車を降りれば、緑の香りが鼻先をくすぐる。さわやかな風にさらわれて、はるか遠くまで続く田園の中、まだ固い稲穂が揺れている。おそろしく青い空に入道雲がうねり、無人駅のホームの外はかんかん日が照っていた。

「これぞまさしく、田舎の夏って感じだよなあ…………」

今日の最高気温は35度近くまでなるそうだが、人がいないおかげか、そこまで暑苦しくはない。

「えーっと。ここから先はバスで…………。ああいや、迎えの人と待ち合わせなんだったな。十一時に駅前、と………」

 丁度時刻は十一時十分前。ちなみにあの一本を逃せば、ここから電車は三日来ない。近代日本において中々に類を見ない秘境ぶりである。無人改札を抜けると、一人の少女の姿が目に入った。歳の頃は十七歳くらいだろうか。というのは、彼女が学生服を着ているからで、決して僕が変態的観察眼を持って少女の年齢を特定する特技を持っているわけではない。まあ、経験則というのも多少はあるのかもしれないけれど。

 少女は、赤い派手な髪を、サイドに結い上げ、シュシュで留めていた。制服がなんというか少し古臭いのも相まって、ひと昔前のギャルのような印象を抱かせる。彼女は何をするでもなく、駅の前で、線路の方をじいっと見ている。電車は先ほど去ったはずだが、もしかして乗り損ねてしまったのだろうか。

「あのさ、電車ならさっき行っちゃったぜ」

僕がそう声をかけると、少女はぎょっとして、こちらを見た。まるで、そうされるのを予想だにしていなかったとでもいうように。

「アンタ、誰」

 声には少なからず、警戒の色がにじんでいた。ふむ、なるほど。まあ、田舎の人間は排他的だし、突然知らないお兄さんに声をかけられたらびっくりするのは当然のことだ。

「あー、ごめんごめん。驚かせる気はなかったんだ。僕は当麻。古部当麻。ちょうどさっき、電車に乗ってこの村に来たんだよ。まあ、だから多分、当分電車は来ないんじゃないか?」

「アンタ………まさか…………」

 意味深に彼女がそうつぶやきこちらをキッとねめつけた、その時だった。

ふわり、と一陣の風が吹いた。ところで、古来より、ライトノベルやアニメにおいてはある種のお約束がある。初対面の女の子と出会ったとき、一陣の風が吹いたのなら、それはもう──スカートが、揺れる。因果律が乱れる。女の子のスカートの中には、宇宙が眠っている。その言葉は男たちがかけたロマンと、追い求めた神秘を、言語という卑小で限度ある形に収め、表したものに過ぎない。だが、間違いなくそこには宇宙があるし──僕の目には、それは白地に赤いストライプの、存外かわいらしいパンツとして映った。


「………ッ!」

少女はスカートを抑え、さらに鋭い視線を向ける。いやはや、お約束、とはいえ。ここまで下手な展開に遭遇することは、人生においてそうない。こういう時、人は、いや、紳士は、どうコメントすべきなのだろうか。約二十年の人生のすべてを賭けて、僕はコメントをはじき出す。

「えーーっと……あ、あれだね。下着の色、髪色とお揃いなんだね」

「死ね!!!!!!」

「ウオァ!?」

少女のスクールバックが腹に直撃した。なるほど、いい投球フォームだ。

「死、死ねはないだろ死ねは!! あと人にものを投げるんじゃありません!!」

「うっさい! パンツ見た挙句セクハラ発言しといて何言ってんのよ!! 殺す殺す殺す殺す、呪い殺すっ!!」

「じゃあなんて言えばよかったんだよ!!パンツ見た時の感想って何?!」

「知るかっつーの! ただでさえ不快なんだから、これ以上不愉快な思いさせる前にSNSに親族友人へ不祥事謝罪声明文出して今すぐここで腹切りなさいよ!!」

「怖!女子高生怖っ!!」

今時なんだか古風なんだかどっちかにしてくれ。

「と、とにかく悪かったよ。悪気はないんだ。ほんと」

言いながら、僕は鞄を拾いあげる。しかし。顔を上げた時──すでに、彼女はその場にいなかった。手に抱えていたはずの彼女の鞄は、影も形もなくなっている。

「………あれ? いたよな、さっきまで………」

愛想をつかしてどこかに行ってしまったのだろうか。鞄がなくなっているということは、そういうことなのかもしれない。悪いことをした。

「田舎でよかった」

東京なら捕まっていた。

さて。なんにせよ、そろそろ迎えの人との合流時間なわけだが………。と、再び腕時計に目を落としたところで、車のエンジン音が聞こえてきた。音の発生源は、黒塗りの高級車だ……そう、認識したのは、すでに車が猛スピードでこちらに突っ込み、急停車した後だった。荒い運転に固まる僕をよそに、後部座席の窓が開く。顔をのぞかせたのは、切りそろえられた黒髪が特徴的な、年若い少女だった。

「こんにちは! あなたが奈津子のお兄さま?」

「…………はい?」

少女──奈津子の小さい手が、細い指が、僕の手に触れる。にこりと笑う形のいい唇に、思わず心臓がドキリと高鳴った。

「あらためまして、こんにちは! 伊座奈津子です。伊座村よりお迎えに上がりましたわ。古部当麻さん」


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