第2話

その屋敷は、薄の蔓延る原っぱの中に、ぽつんと浮島のようにあった。


 今どき珍しい平屋の日本家屋には、玄関より先に立派な門がある。


 あたくしはあの子がするのを真似をして、慣れたように門をくぐると、ガラス戸を叩いて「もしもし、いらっしゃいますか」と、軽やかな声をあげた。



 やがてガラス戸の内側がポッと明るくなり、しかめっ面の達磨顔が、あたくしの顔をじろじろ見下ろす。

 知っていたことだけれど、マア、大きな人だこと……。


 鴨居に頭がつきそうで、まるで入道のよう。

 張り出て波打つ肩をして、着物の袖の下の腕がどれだけ太いものか分かるもの。



 達磨男の後から、シタシタと二人の人間が顔を出した。



 和装で着飾った赤毛が投げかける。

「どうしたんだい。こんな夜分にお客なんて……」


 女学生風の娘がアッと声をあげたので、あたくしはにんまりと笑顔を投げかけた。


 娘は薄ら蒼くなって、赤毛の背に隠れてしまう。それでも娘は、小さく言った。



「ネエ、雪ちゃん。この方、あたしとおんなじだ。死人ですよ……」


「あれ、ばれちゃったあ」



 でもその前に、この御人なら気付いてる。だって、おやじさんだもの。



「おもかげ。雲児の使いか? 」


「あい。お久しゅうございます。一目で見抜くとは……流石おやじさん。お見事でござンますね」



 あたくしは、ゆっくりと頭を下げた。


「うちに上げてくれやしませんか? 」


「して、空船の面のおまえが、どうして二本足で歩いていやがる」



 あたくしは、そんなおやじさんの問いに声をあげて笑った。

 笑って笑って、居間の卓の向こう岸で、三つの顔が呆れた色をしているのに気が付くと、やっと声を収めて茶を飲んだ。




「……あたくしらだって、もともとは二本足でしたのよ。まさか面になるだなんて、思ってもいませんでしたワ」


「そういやあ、おれはずっと聴いてみたいことがあったんだ。面とはどこから来たんだ。もともと何だった」


「さあ……忘れてしまいました」


 おやじさんが怖いお顔をしなさるので、もう少し続けた。


「あたくし、タツガワというところにおりましたの。タツガワはとっても田舎の、お山の中にありました。あたくしはそこに人としてありました。翁も、あの男も、きっと同じでしょう。あたくしたちが覚えているのは、それだけ、それだけ……」



 ジッとあたくしの顔を見やるおやじさんの目が細くなる。


「……なあ、こりゃあ、ヒト相手の話だ。おれがどこぞの本で読んだ話だから、きっとおまえ等には当てはまったりはしないだろう。ナントカっちゅう、二百年も前の学者がした話の本だった……」



 まん丸の三白眼で、おやじさんはあたくしを見つめる。面の皮の裏っ側を見やんとしているような、そんな目で。




「……人にはよ、集合的無意識だとかいうもんがあるんだと。

つまりだな、民族や習慣はまるっきり関係なく、人間であれば共通の像を頭の中に持つという。

 男なら、穢れのない乙女やら、とにかく無垢で綺麗な女。自分にとって理想とする好ましい女だな。そいつが女だったなら、理想的な男。これは自分の父親や母親に似るということもあるらしい。

 そういった像は、夢とオンナジで、そいつの内面で起きている感情の揺らめきや流れなんぞを汲んで、形になるもんなんだそうだ。

 そういう像の中には、男や女以外にも、子供や、老人や、神といった像もあるんだ。それはそいつのあらゆるものを暗示しとるんだと……」



 おやじさんは、上目づかいにあたくしの額のあたりを見やる。



「……人っちゅうのは、場合によってはまるきり違う形を取る。

 それぞれを違う人間たらしめんとするのは個性、というやつだが、人はそういう個性を、いくつも持っとるもんらしい。

 個性も、外側から見るやつそれぞれで違って見えるんだ。個性を構成する、そいつの中身の比率が違うんだな。


 ……たとえば嫌いな相手だと、おまえは頑なになって、自分が弱点だと思っている個性も引っ込めようとするだろう。

 あとは不思議なことに、自分でも好ましいと思っている個性も一緒に引っ込める。

 おまえが社交的で、人の目を見つめるのが実は苦手な人間だと仮定すると、おまえは嫌いな人間の前だと、そいつの目をシッカリと見て、やけにそっけない態度を取る人間に見えるっていうことだ。

 それでな、そうして外側から見える万華鏡みたいな個性を、その本ではペルソナと呼ぶんだ。西洋の劇で使う面の名前なんだな」




「おやじさん、何のお話ですの? 」


「まあ聞け……。

 ……おれはよぅ、おもかげ。空船と雲児がよ、人じゃあない何かだっちゅうことは重々承知だ。なんせずっと見てきたからな。

 でもなあ、おんなじくらいに、かつては人だったもんだということも、重々承知なんだよ。


 例えば……例えばだ。そのペルソナを何枚も持っている奴がいる。そいつがやがては人ならざる力を持ち、持っていた多数の個性の面が、ひとつひとつ剥がれて勝手に考えるようになる……なんてことは?


なあ、おまえら面は人だったという。それは、まとめて誰か一人の人間だったということか? 」



 あたくしは、こっくりと深く深く頷いた。おやじさんが言いたかったことが、ようやく分かったからである。




「いいえ。あたくし、そりゃあよくは覚えておりませんけれど……でもねえ、あたくしはあたくしでしたし、名前を忘れてしまったっていうだけで、翁や河津とおんなじ人だったっていうわけではありませんのよ。

 ねえ、おやじさん。あたくし、おやじさんがそんなにあの子たちのことを想ってくれて、考えてくれて、トッテモ嬉しいわ。でも、それはちょっと考えすぎね。

あたくしは、いわば、そこの娘さんとおんなじよ。ええ、きっと……あの子たちを死んだ先でも見ていたいと思ったから、ああしてくっついていたんだわ。

 タツガワでのことはよくは覚えていないけれど、あの子たちも人だった時があったんだもの」




 あたくしは、ひどく幸せな気分になった。


 だって、あたくしとおんなじくらいに、おやじさんがあの子たちのことを考えていてくれたから。

 ああ……ぼんやりと覚えてる。あたくしはあの子を……カツミを、そんなふうに思ってた。守ってやらなくちゃって、思ってた。



 おやじさんは、向かいで相変わらず険しいお顔をしていらっしゃった。


「じゃあ二つ目だ。あの二人はもともと、どういう人間だった」


「可哀そうな子でした」

 不思議。あの子たちのことを聞かれたら、堰を切ったように言葉が出てくる。


「カツミは明るくていい子。でも、どこかがおかしかった。タツガワに来た時から、何か秘密を持っていたようだった。一人きりでも平気な子で、みんなそれを不気味がっていたわ。口では言わなかったけれど」


「カツミってのが、あいつらの人だった時の名前か」


「そう」


「みんな、ってのは誰と誰だ」


「あたくしの両親や、その兄弟たち。他にもいっぱいいたわ。でも、全部は覚えていないみたい。ごめんなさい」


「カツミに特別なやつはいたか? 」


「ええ。クミホと、オカミ様」


「そいつらはどんなやつだ」


「オカミ様は、オカミ様よ。神社に住んでいるの。あたくしは……ああ、そう……その神社の巫女だったわ。供物をささげる時に、踊るのが巫女なの。巫女はオカミ様の伴侶で……あれ……でも、不思議ねえ……おかしいわ」


「何が」


「オカミ様は女性でいらっしゃったわ……ああ、そうだ。うん、うん。よく思い出してきた。それでいいんだったわ。……ええっと……クミホはね、クミホは……ええ、あたくし、そう……あたくしの好い人」


「そいつらとカツミとの関係は」


「クミホは、カツミの世話をするのに一緒に暮らしてた。オカミ様は神様だけれど、」


 ふと、三者一様に怪訝な顔をした。


「……でも、若い女性でいらっしゃったから、カツミがお話相手を務めていたの。身分の隔たりはあったけれど、お友達だったんじゃあないかしら」



「……神様と友達? 」


 女学生が言う。赤毛の麗人が、眉をひそめて声をかけてきた。



「なあ、おもかげさん。オカミ様ってのは、どういう神様なんだい」


「どんなって。あたくし、あんまりマジマジ近寄ってみたことは無いのよ。でも若い女性で、長く生きていらっしゃる。老いを吸って長寿を与え、自身に蓄えていたわ。だからいつも、老女の姿をしているの」


「それで」


「ええ……でも、若い女性が、しわしわのおばあちゃんって、悲しいでしょう? その憂いを晴らすために、カツミとよくお話していたのよ。


オカミ様はね、水神なの。水の神様。あたくし、オカミ様の足に鱗を見たわ。オカミ様はタツジョだから、龍なんですって」



「鱗。ひれもあったかい」


「さあ……あったような、なかったような」


 あたくしは、首をひねりひねり、頭を探った。すると天啓のように、長い長いひれが水の中を泳ぐ光景が浮かんでくる。

「ええ、あった。あったわ……ひれもあった。魚の足のようだったわ……」



 ふうぅ……っと、風船が萎むような溜息を吐いて、赤毛の麗人は項垂れ、座布団に沈んでしまった。顔を覆って、なにやらぶつぶつ呟いている。



「……あたしはタツガワなんて知らないよ……あたしの知らない人魚だって? 母さんは知っとるんだろうか……」


 ぶつぶつ、ぶつぶつ。



 おやじさんがため息を吐く。そうして太い声で言った。



「おもかげ、おまえ、何をしに来たんだ。そろそろゲロッてもいい頃合いだろう」


「あら、おやじさん。最初に言ったじゃあありませんか。あたくしは雲児の使いですわ。もうそろそろ、お暇いたします」


「じゃあ雲児に伝えろ。早く帰って飯作れってよ」



 あたくしは、また嬉しくなった。


「おやじさんは、雲児が帰って来られると思っていらっしゃるのね? 」


「思うも何もない。あいつらが帰るのは、ここだけだろう」


「うれしい。あたくしも帰ってきてもいい? 」


「好きにしろ。どうせ空船にくっついてくるんだろう」


「ふふ。時が来れば、そうさせていただきます。ンネエ、おやじさん。空船は奥の部屋なんでしょう。そうでしょう? 」


 おやじさんは、興味がうせたように鼻を鳴らした。



「そうなのね? ねえ、行ってもかまわない? 」


「好きにしな……」

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