第3話


 セガンティー二作『悪しき母たち』。

 解説曰く、この赤毛の女は堕胎の罪を犯した淫乱な女どもである。

 彼女らはこの凍土で罰せられ、やがて罰は終わり、救いに辿り着く。イタリアの詩人、イリカの詩「涅槃」をもとに描かれた。




 巽はそこまで読んで、拗ねたように唇を曲げた。


(……へえ。妖怪の木の絵に、そんな綺麗な話があったとは)


 きっとこの女は、貪欲な木の養分として絞りつくされるのだろう、と思っていた。


(……残念だな。なんだか)





 巽は溜息を吐いて、ようやく額縁の前から踵を返す。かつかつとヒールの音が響き、周囲の人間は、絵画では無くその後ろ姿を名残惜しげに見送った。



 白い彫像のような、その美貌。

 足首まで覆う高いスカートの下からは、尖ったヒールの先が見えている。右手には杖。セールで安く買い叩いたような無地のワンピースに、着古した男物の褪せたカーキのジャケットを羽織り、長くうねる髪は無造作に背に流されていたが、それでも巽は芸術品のように整っていた。


 おれはそんな巽のことを誇らしく眺めながら、足を止めて彼女を待つ。巽は出口に立つおれのところまでよたよた歩いてくると、腕をからめて小さくぼやいた。


「疲れた」


「長かったですね。楽しめましたか? 」



 こんな美しい人が、おれなんかにまっすぐ向かって行ったことに、周囲が驚いているのがわかる。巽は煩わしそうにおれの腕に縋ったまま顔を伏せ、首元にすり寄ってきた。



「足が痛いし、お腹もすいた。早く帰りたい」


「承りました」



 丁寧に手袋ごしに彼女に触れる。膝の下に左の腕をいれ、腰に右腕を絡めて抱き上げた。そうすると、自然彼女の胸元あたりが顔の横にくることになった。

 見せつけるように歩く。



 彼女はなのだ。


築二十年。コンクリートの四角ばった十階建てマンション。びっくりするくらい遅いエレベーターを嫌い、巽はいつも階段を所望する。


「あんなのろま、いつ底が抜けるか分からない」


「そうそう抜けはしませんよ。止まりはするかもしれませんが」


「じゃあ止まったとして、わたしが閉じ込められたら? それも中途半端なところでさ、扉をこじ開けて出ねばならない。わたしはそんな時に限って足がうまく動かなくて、床と天井の間に挟まってしまう。そうしたらいきなりエレベーターが動きだして………」


「オチが分かりました。巽、昨日は夜更かしして、テレビを見ていましたね? はあ」


「最初の三十分だけだ。金曜の夜だからいいだろう」


「出かける、前の、日に、九時まで起きていたら次の日に響く、と……ひい、ふう、はあ……よっと……」


「わたしは間違いなく真っ二つになるぞ。魚の脚じゃあ、死体を見てもわたしのものだと分からないな」


「まったく、はあ、家が近くなると、元気になって……ふう、ふう……」


「昔はわたしを担いで山道も歩いていたくせに。鈍ったんじゃあないかぁ? え? 柳」





 家に着くや玄関で靴を脱ぎ捨て、巽は四つん這いで一つしかないベットまで一直線に飛び込んだ。

 おれはといえばすぐに風呂場に寄り、湯船の蛇口を開ける。


 部屋の隅で、がしゃんがしゃんと檻がうるさい。巽が眉をひそめたので、おれはポットからコップに湯を注ぎ、檻の上にかかった布の上からかけてやった。



「ああ、柳。服を脱がしてくれ。水に浸かりたい」


「もう少しお待ちください。まだ溜まっていませんよ」


「早くしてくれよ……」


 彼女の肌は、熱に極めて弱い。手袋はかかせないのだ。

 ひと肌でさえ、彼女には火傷になるのだから、彼女に触れたいのなら、厚いジャンパーを夏でも脱いではいけない。


 肌に触れないように上着を脱がせ、ワンピースと下着も取っ払うと、ぴくりとも動かなかった巽はもぞもぞと寝返りを打った。


 秋とはいえ、冬も近い。

 剥きだしの上半身に毛布をかけると、おとなしくそれに包まれる。白い腰から尻の上の境から、硝子の気泡のような薄いつくりの鱗が覆っていく。


 二つに裂いて、長く“足”として使ってしまったひれは、擦り切れてもうほとんど残っていない。

 傷跡の残る内側の腿も含め、鱗も斑になり、はげた地肌は青白くて薄汚れた灰色になってしまっていた。


 幼いころの巽の脚は、それはもう美しいものだった。かつて、あの鍾乳洞の泉に浸かっていた彼女は、まさしく化生のものだったのだ。


 彼女はおれに、その鱗の綺麗な断面だけを見せつけたまま、やんわりと言った。




「……ねえ柳、おねだりしてもいい? 」


「なんでもどうぞ。わたしに出来ることでしたら」


「あの絵が欲しい」


「セガンティー二? 」


「そう。『悪しき母たち』だ」




 ピーッ、と給湯器が風呂の用意が出来た合図をする。

 ああ、また美術館に行けば、図録か画集か、複製原画でも売っているだろう。



「分かりました。明日にでも」


 裸の彼女を抱き上げて、湯船に向かう。


「ついでに食事にしますか? 」


「ああ」


 応と答えが返ってきたので、彼女を湯船に下ろすとおれは部屋に逆戻り。

 エッチラオッチラ檻を運び、浴室の手前の廊下で手早く処理をする。さすがのおれも、この時ばかりは動きに障らないよう上着を脱ぐ。


 むわりと血のにおいがし、とたん、空気清浄機が駆動音を大きくする。


 窓を閉めていたかが気になった。帰ってから窓には触っていないから、大丈夫だと思い直す。




 この毛むくじゃらをどうにかせねば、彼女の口には入れられない。

 けれど前もって準備したものなんてのは論外だ。新鮮でなくては。


 こうして、浴室のドアの前、狭い廊下に挟まれながらベトベトになっていると、ふと、我に返る時がある。



 ―――――兄貴があの女に喰われなきゃあ、どうなってたんだろうなぁ。


 おれは巽と出会わない。

 きっとおれは、とっくに死んでいるだろう。

 五十か六十かの短い生のうちで、女房や子供でもこさえて、病で苦しい思いでもしながら、糞尿垂れ流し死んでいたのだろう。


 それに比べ、おれには巽がいる。


 あんなに綺麗で、世に二つといない人魚。おれがいなけりゃ生きていけない美しい宝。


 巽に餌をあげる時、おれは救われる。

 百余年、巽と共にする道々は、錦のようにまばゆく尊い。


 こんな小さな獣ひとつしか用意できなくて、巽を満足に食わせてもやれないけれど。

 もう何十年も、あいつを腹いっぱいにはさせてやれていないけれど。


 けれど巽は、おれの手で命を繋いでいる。


 そう思うと、ああ、無駄じゃなかった。この時のために生きている。……そう思う。




 巽は皮を剥ぎ取り、ぬらぬらと赤い獣を掴み、その背骨に沿って啜るのが癖だ。

 いつまでもいつまでも、食事の時には、手も、顔も、胸から腹まで垂らして汚してしまうのが、子供の様で可愛らしい。




「……あんまり見るなよ」


「ふふふ……巽、巽、巽……」


「なんだ」


「いい名前だ、と思って」


「おまえがつけたんだろう、柳」








 ああ、そうだった。


 そうだったな。なあ、巽。

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