第3話
ふと息苦しさを感じ、眼を開けた。
今の今まで目を瞑っていたというのに、おれの眼は乾いて涙が止まらなかった。
芳香剤のにおいがする。よく知った車の狭い後部座席シートで、おれは猫のように体を丸めて横たわっていた。
どうやらトンネルを走っているらしく、青灰のシートが汚いオレンジ色に染まっている。
なんとか体を起こすと、ミラーに映った運転手の顔が、ひどく濃い黒で陰影がされていた。生温い橙色が、その者からもとの色を拭ってしまっている。
ぅぅううん、ぅぅぅううん、と、エンジンが唸っていた。
おれは唐突に、ひどく気分が悪くなってしまった。
仕方なく狭いシートに元のように横たわって、どうにか体を収納する。
眼を閉じる。
赤。
そう、赤い光が蘇らせる記憶。
はて、いつのことだったか。二人で馴染みの川沿いを、夕日を横目に歩いていた。買い物帰りだったと思う。
おれは「血のような夕焼けだ」と思った。
なにせ、空は茜色と云うより滴るように赤黒く、電柱の上では鴉が不吉に泣き喚き、家々も黒い影に塗られている。雲一つない空の中で、ぽっかりと赤い玉が、こちらをじっと見ながら沈んで逝くのだ。実に不吉な光景であった。
クウは、そんなおれの気も知らず、「きれいな夕日やねェ。お日様がホオズキみたい」とのたまった。
けれども確かに、そう言われればそう見えないこともないと思ったし、そう言ったあいつのことを、口にするのも憚ることだが……その、自分にとっての唯一無二の存在だと身に染みて、その想いを改めて胸に抱いたのである。
忘れるころに幼いころに嫌いだったものを、嫌いだったことも忘れてしまうことは、ままあることだと思う。少なくともおれはそうだったし、クウも恐らくそうだったのだ。
ではあいつは、思い出してしまったんだろうか。おれは覚えちゃいないのに。
狭いシートは、でかいおれには息苦しくてたまらなかった。
よくもクウは、こんなところで毎回いびきをかいていたもんだよ。
嫌いだったものを好きになるというのは、とても困難で、貴重な体験だと思う。
だって、嫌いだったのだから。
それを好きになるということは、一度近寄り、手で触れて、実感していないとその良さなんて分からない。
けして近寄りたくなかったものに近づかないと、その体験は成し得ない。
ほら、とても貴重なことではないか。
これを思い出すのは、これからまだ少しあとのことになるのだが、おれにとっては、水がそれだったらしい。
小さなころ、海で溺れたことがある。そう、まだ生きていたころの記憶だ。
母が目を離したほんの一瞬、足が滑って、浮き輪の真ん中から潮の中に沈んだのだった。
母は確か、妹の世話をしていていたのだったか。
水音で、ほんの少し気付くのが遅れた。それでも、ほんの一分もなかったことだった。
おれは、あっ、と思った時には水に顔が浸かっていた。
手足は水を掻くばかり、上も下も分からなくて、とっさにつむった目を開けることも出来なかった。
真暗な中でもがくうちに、あっというまに水が口に入り、鼻に入り、空気で満たされているところが侵食されていく。
鼻の管の奥が、つんと痛んだ。
声高に母を呼んだけれども、それは頭の中のことだったので、当然聞こえるはずもない。
手足のつかない現状に、ぼうと漠然と、底が抜けたのかと思っていた。そして抜けた底は、地獄にでも落ちて行ったのかと。
死ぬのだと思った。
そう思った瞬間に、母の腕が力強くおれを引き上げたのだけれど、それっきりおれは、膝より深い水に浸かることを恐れるようになった。
おれにとっちゃあ、プールなぞは地獄だ。といっても、なんだかんだ授業には出ていたから、それほどでしかない地獄だったんだろう。
なんとか母に強請ってゴーグルを買ってもらったのは、結局中学に上がってからだった。
きみは知らんだろうが、その頃はゴーグルなんぞ、眼病持ちでなければ付けなかったものだ。
しかしそのころには、水恐怖症も鳩尾までと改善していた。
今でも金槌だが、でもまあ人間は水生生物ではないのだし、この体は地上ならばそこそこ動けるわけであるので、そう悲観してはいない。
とっくに車も運転できる年にもなったし。
え? ああ、そうだった、嫌いなものを好きになる話だったな。
うん、まだ水は怖い。学生時代の散々な苦い思い出も相まって、憎々しい、とすら思うね。
でもね、なんでかなぁ。
風呂だけは、いつまでたっても好きなんだよね。まあ、おれが覚えていることといったらそれだけなんだけど。
え? なんだよクウ……そうだな、これ、どれくらい前の話かな。四つの話だから……おまえ、いくつになったっけ? え、だいたい六つ違う? それは知ってるよ。
問題は、『おれ』が本当はいくつになったっけ、って話だよ。
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