第3話
船頭のくせにと情けなくて誰にも言ったことが無かったけれど……いや、そんなことを明かせる人間がいなかったのだけれど……わたしはその水が、そしてその川底が、怖くてたまらなかった。
当たり前のことだけれど、川底だけを取り出して見ることだなんて出来るわけがない。そこにはどんな生き物がおり、どんなものが沈んでいるのか。こんなに真っ黒いわけをわたしは知らない。
これは試練の川だ。あの白い列の共々が足を踏み入れるこの水が、時に沈んでいくこの川が、けして浮かんでこない者どもを――――亡者を喰っているのだろう
その、ひしめく蟲の間に櫂を差し入れる瞬間は、いつもぞくりと肌が泡立つ。川底を強く殴りつけ、わたしはあっという間に
ぽつり、そう零すと、奴はウンと頷いた。
「ぼくも思うとりましたんや。ほうか、ここは、そないに長ぅおっても怖いとこにや変わらんにやな」
そう、わたしはこんなにも怖いのだ。もっというのなら、ここにいる人たちにも恐怖を感じる。オババが怖いのはもちろん、うなだれて列に並んでいる白い人間たちも、また恐ろしい。もちろん、こいつも。
「不気味な川やァな。しかもえらく広い」
そいつはぽつり、そう呟いた。
わたしは自分に語りかけているとすぐに察したけれど、聞こえないふりをして櫂を漕いだ。
きしきしとするのは、櫂かそれともわたしの腕か。かつんかつん船底を何かが叩くも、いつものことだと耳をふさぎ、わざと乱暴に流れをかき混ぜた。
「船頭さん、船に乗ってどれくらいになるのン? 」
名指しされてしまっては、無視をする方が気に悪い。岸までは遠く、旅路はまだ長いのだ。
わたしは、さあどれくらいかね。もう忘れたくらい長くかな。というようなことを言った。
「フウン。ねえ、船頭さん、ちょうっとお話しましょうや。暇なんです。ええでっしゃろ」
わたしは駄目だとは言えません。首を垂れて、わたしは小さく言った。
「ふふふ。意地イ悪いこと言わんでくだしゃあ。これでもぼくはね、うつしよにいるときゃあ、それなりに長いこと色んな経験をさせてもろたんです。ね、いいでしょ? 聴いて下さいよォ」
これじゃあ、意地が悪いのがどっちだかという話だ。
仕方なしに、わたしは櫂を置き、船底に座した。船が穏やかに流れだし、客人はぎょっと身をすくませる。少しだけ胸がすく。ここまで来ればどうせ勝手に流れるだけなのだ。やがて岸に着くのだと、わたしは何でもないように取り繕って、言ったやった。客は問う。
「どんくらいかかる? 」
さあ、だいぶかかるとは思うけれど。
「しやなあ……じゃあ、ちょっとそこらで人に聞いた話。むかしあった本当の話や。取るに足らない不思議な話―――――」
奴は語りはじめる。
「ある日、天女の
空を駆け、天を飛びぬけ、水の底で息ができて、火の中で歌を歌うことができんねや。
彼女らは何千年ぶりに顔を合わせて、それぞれの話をした。「そういえば」と、一人が言う。
「そろそろあの子たちはどうなったカシラ」
とまあ、こんな感じやな。
実はそう多くない天女たちのうち、二人がいなくなっていた。
彼女らは姉妹で、人間と一緒に暮らしたいがために、罰を受けて追放されたんやった。
「アラ、すっかり忘れていたわ。そういえばそうだったわね」
そのころ地上には、二人の人間がおった。一緒に育ったけれど、兄弟ではない。二人は一緒に暮らしていたけれど、恋人というわけでもなく、友達でもない。
こいつらの名前は、『クモジ』と『カラフネ』という」
奴は指で、船底に字を書いた。
「『くものこども』と書いて『雲児』、『からのふね』と書いて『空船』。
子供でもなければ大人でもなく、男にも女にもならない。半分だけ人間で、半分は別の何か違うものだ。年を取らず、子供のまんま。いつかの昔に、泥の中から出でたもの。この二人は二人だけの秩序をもって、昼と夜とを生きている。
そんな彼らを見下ろして、天女は言った。
「もうそろそろ、いいんじゃあないかしら」……ナンて、ね」
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