第2話

そこの空は、いつでも赤い色をしていた。



 もうずっとここにいるけれども、それが果たして夕日なのか、それとも暁なのか、知らなかった。




 川の方を向いたなら右の手に、あの石ばかりが丘になっている方を向けば、左手になるのが必然であり、今日きょうびまで疑問に思ったことはない。


 わたしは自分以外の人間には興味がなかったし、他のやつらもそうだと思うけれど、さて、今日の客はちょっとおかしいやつだった。


 向こうに見える一本きりの大きな木に向かい、白い長い影が、ずうっと向こうまで続いている。あの列は、わたしが知る限り途切れたことがない。近くで見ると分かるのだけれど、あれらはすべて白い着物を着た人間たちである。彼らは川を渡りに来ているのだ。わたしはいつも通り、白い影どもを見送りつつ、船尾を押して水面に滑らせていた。


 『そいつ』は、ちょうどわたしが船を水に乗せ、フゥと背筋を伸ばした時に声をかけてきた。黒髪の下に、白い顔が見える。ずいぶんと若いこと以外は、他のやつらと何ら変わりは無い。

 独特の海の潮のような香りがぷうんとにおう。血のめぐりを血潮というように、彼らの身体にこの香りがまとわりつくのは、その血を辿れば、わだつみを母とするからなのだろうか。


 どうやら、この船に乗りたいらしいが、さてどうしたものか……。こいつは分かっているのだろうか、と怪訝に思った。


 川原にぽつねんと一本の大樹が見える。

 あれは関所せきしょのようなものである。ばんをするオババがおり、わたしは彼女に指示されて、白いやつを対岸まで運ぶのだ。あの木はあんまりにも大きいので、この川原じゅうどこにいたって見える。あれを目印に、必ずオババのところに辿り着けるという寸法すんぽうである。


 わたしは彼女の許可が無いと乗せられない。わたしがそう言うと、そいつはにやりと笑って「いいんだよ」と言って、わたしを急かした。

 あんまりにも急かすので、わたしは困ってしまって、駆け足でオババにうかがいいにまいることにする。



『そいつ』を船の前に置いておくわけにもいかず、(泥棒をして、向こうにただで渡ろうとする不届きものは珍しくないのだ)仲良く川原をざりざり、歩くはめになった。


 気が重かった。


 わたしは要領が悪いので、時々こうしてオババに分からないことは尋ねに行くのだけれど、そのたびにオババは邪魔なわたしに向かって怒鳴り散らすのである。


 しかし勝手なことをすると、それはそれで「なんで聞かなかった」と、拳骨げんこつまで食らうので、やはりわたしの立場としては、窺いを立てずにはいられないのだった。



 オババは羊飼いのように白いやつらに囲まれ、迷える羊たちに向かって怒鳴り散らしては、川を渡れと水に突き落としていた。

 今日も忙しいオババは、鬼のような顔を鬼より怖くしてわたしを睨み、『そいつ』を睨んだ。





「なんだい! 」




 ああ、ええっと、その……。わたしはどう説明しようかと僅かの間だけ言いよどみ、睨みを強くしたオババの迫力に押され、あるがままを、なるべく分かりやすく語った。


 すると驚いたことに、オババは僅かに目を細め、品定めするように『そいつ』を見てから、私に向かってにっこりと笑ったのだ。




「ようし、分かった。話は聴いているよ。ゼニもいらない。乗せておやり」



 わたしはびっくりしてしまって、亀のように首を短くして、「いいんですか」と繰り返し尋ねた。すると短気なオババは、くるりとまた鬼の顔に戻るや「早くいきな! ぐずぐずしてるんじゃあないよ! 」と、わたしの尻を強く叩く。



 わたしは尻を抑えつつ、首を傾げ傾げ、船の元まで駆け戻り、もたつく“そいつ”の腕を取って船に乗せてやった。


 澄んだ水に膝まで浸かり、船を押し出した。やがて濡れた足を振りながらかいを手に、船頭に立つ。川は岸のほんの間際まではうっすら透き通っているけれど、この身の身長ほどまで漕ぎ出せばすっかり黒く濁りきって、虫か蛇の群れのようにうごめいている。

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