リバイバルウィッチ〜現世への逆襲
桓譲
プロローグ
肌を切るような冷たい風が、石畳の上を荒々しく吹き抜ける。黄昏時の大気は湿り、重い雲が上空を覆いつくしている。まるで世界全体が呼吸を潜め、ここで行われる残酷な儀式を見逃さぬとでも言うかのように。
広場には人々が黒くうごめいていた。貧民、商人、農夫、老若男女、ある者は十字架を握り締め、ある者は石ころや腐った野菜を握りしめている。誰もが憎悪と恐怖と好奇の入り混じった表情を浮かべ、その視線は一点に集中していた。粗末な木材で組み上げられた処刑台。その中央に一本の太い杭が打ち立てられ、そこに一人の若い女が縛られている。
女の名はミーシャ。
彼女は色素の薄い長い髪を乱れたまま垂らしていた。その髪は元々は柔らかな金色を帯びていたが、今は灰や血が付着し、汚れきっている。肌は本来ならば艶やかな白さを宿していただろうが、数日間に及ぶ監禁と拷問でその潤いは奪われ、所々に鞭打ちの痣が走っている。瞳は淡い琥珀色――かつては心優しい光を宿していたが、今は冷えきった静謐な光が宿り、人々を見下ろすような冷たい輝きを放っている。
「魔女め、震えて懺悔しろ!」
男が唾を飛ばしながら怒鳴る。何の罪かと問うまでもない。この世界――中世ヨーロッパの辺境の小国では、「魔女」という存在は異端とされた。作物不作や疫病、家畜の死、説明できぬ現象などすべて彼女らのせいにされてきた。ミーシャはほんの小さな村の出身で、治癒薬草に詳しく、夜に草花を摘む姿を見られただけで「魔女」と指弾された。それは珍しいことではない。誰かが原因不明の不幸に見舞われれば、身近な「異質」を探し出して糾弾する――それが彼らの習性なのだ。
ミーシャは顎を上げ、まるで自らが処刑される者であることなど忘れたかのように、静かに広場を見渡す。彼女はもはや悲嘆や恐怖を感じていなかった。痛みには耐えた。絶望には慣れた。炎に包まれる運命を目の前に、むしろ奇妙なほど心が冷めていた。もし本当に魔法が使えたなら、この場の全員を叩き伏せて逃げ出せるのに――そんなことを考えても意味はない。魔法など使えるはずがない。彼女はただの村娘であり、薬草師に毛が生えた程度の存在に過ぎない。
だが、周囲はそうは見なさない。彼らの眼にはミーシャは「魔女」だ。その一点において、真偽は問題ではない。処刑台の下では、粗末なローブを纏った神父や、鉄仮面を被った異端審問官が並び立っている。神父は聖典を片手に祈りを捧げ、審問官は無表情に火刑用の薪の山を確認する。もうすぐ松明が投げ込まれるだろう。もうすぐ、この若い女は炎に包まれ、断末魔の叫びを上げるはずだ。それが、この群衆が望む結末だった。
「……馬鹿げてるわ」
ミーシャは掠れた声で呟く。彼女は拷問で声帯を痛め、まともな声を出すのも難しい。それでも最後に一言ぐらいは言いたかった。自分を取り囲む愚かな人間たちに、言葉の刃を突きつけてやりたかった。
「私は何もしていない……お前たちこそが、盲目で狂信的な加害者だ。私が魔女? 本当に魔女がいるなら、こんな歪んだ世界を滅ぼしてくれるだろうに」
その囁きはかき消される。民衆は誰も耳を貸さず、審問官は一瞥すら与えない。神父は呆れたような苦い表情で十字を切るだけだ。薄汚れた布のように彼女の主張は無視される。
そして時が来る。
審問官が合図を送り、処刑人の男が松明を構える。薪の山は乾いており、一度火がつけばすぐに燃え上がるだろう。ミーシャは自分の足元に積まれた薪を見下ろす。これが自分を呑み込む炎の床か、と。心臓が脈打つ音が耳奥で重く響くが、不思議と手足は震えない。
「行け――!」
誰かがそう叫んだ。空気が切り裂かれ、松明が薪に投げ込まれる。次の瞬間、オレンジ色の炎が生まれ、踊り、唸り声を上げながら大きくなっていく。熱が肌を舐め始める。髪が焦げ、鼻腔を刺激する臭いが満ちる。ミーシャは歯を食いしばり、息を詰まらせた。
「――ちっ!」
喉が焼ける前に何か言おうとするが、熱で声は出ない。ただ、瞼の裏がチカチカと白く光る。周囲の歓声、嘲笑、祈りが混ざり合い、奇怪な合唱となって彼女を包む。
その時だった。
ミーシャの瞳が、ありえない現象を捉えた。炎が彼女の足元から立ち上る刹那、何か眩い光が視界を覆った。まるで月が砕けて無数の欠片が降り注ぐような、白銀の閃光が頭上から降り注ぎ、彼女を包み込む。熱さが一瞬にして消え、周囲の音も遠のいていく。
「なに、これ……?」
視界が白く塗りつぶされ、上下左右の感覚が消え失せる。身体が宙に浮かぶような、不思議な感覚が襲う。息はできる。熱も痛みもない。ただ、眩い光の海に溺れているようだった。
どれほどそうしていただろう。
やがて、白い輝きが徐々に薄れていく。代わりに柔らかな緑の色彩と、木漏れ日のような光が瞼越しに感じられた。ミーシャはゆっくりと目を開ける。そこには、見知らぬ森が広がっていた。
濃密な緑の匂い、湿った土の香り、そして鳥のさえずり――先ほどまでいた石畳の広場、群衆、炎、叫び声。すべてが跡形もなく消えている。ミーシャは慌てて自分の身体を見下ろした。先ほどまで杭に縛られていた縄はない。衣服はボロボロだが、火に焼かれた様子はない。肌には先ほど感じた熱の傷跡も残っていない。
「ここは……?」
震える声で呟く。森は深く静かで、木々が高く聳え、落ち葉が地面を覆っている。陽光が斜めに差し込み、薄い霧が漂い、幻想的な光景が広がる。中世ヨーロッパのどこかの森林なのか? しかし、こんな豊かな緑をミーシャは見たことがなかった。彼女の出身地は、もっと荒涼として、厳しい気候だったはずだ。
立ち上がろうとして、ふと違和感を覚える。身体が驚くほど軽い。先ほどまでの拷問で痛めつけられたはずの筋肉痛が感じられない。むしろ力が漲るような感覚さえある。
「夢……なの?」
頭を振っても意識ははっきりしている。痛みもなく、目も覚めている。あの炎の中で死に、死後の世界に来たのかもしれない。でも、死後の世界がこんな森だとは聞いたことがない。
試しに周囲を歩く。落ち葉が柔らかく足裏を包み、草花が繁茂している。苔むした岩、流水の音、まるで生きた絵画のような美しさ。それと同時に、彼女は自分の中に奇妙な「流れ」を感じ取る。身体の内側に、不思議な熱流が巡っているような……魔力、と呼べばいいのだろうか?魔女と呼ばれた自分が本当の魔法を感じる日が来ようとは皮肉だ。
試しに手をかざしてみる。何か、こう、力を出したいと意識した時、指先に薄い光が集まる気がした。集中する。まるで新たに得た感覚器官を動かすように。すると――ふわり、と周囲の小枝が震え、枯葉が舞い上がった。
「嘘……」
驚愕で口元が引き攣る。確かに彼女の意思に従って、葉が宙を舞ったのだ。さらに意識を強めると、今度は小さな光の玉が手のひらに現れる。淡い青白い光球、それは熱くも冷たくもないが、はっきりと自分の「意志」が形をとったものに思える。ありえない。こんなことは夢や幻でしかないはず。
だが、これは現実なのだろう。
ミーシャは嬉しさと戸惑いに言葉を失う。あの火刑台から救った光、あの時空を超えた干渉。もしかしたら、あの瞬間に世界の理がねじれ、彼女は別の次元へと飛ばされたのかもしれない。中世ヨーロッパの常識など通用しないこの場所で、彼女は「本当の魔女」になったのだ。
腹が鳴る。考えてみれば、ここ数日まともに食べていないはずだ。生きている以上、空腹を感じるのは当然だろう。ミーシャは森を歩き回り、食べられそうな果実やキノコを探す。すると不思議なことに、彼女の手が触れた若木からはみずみずしい果実がぽとりと落ちてくる。まるで樹木すら彼女の意思に従っているようだ。
かじってみると、甘酸っぱく柔らかな果実が舌に広がる。栄養が身体に染み渡り、力がさらに満ちてくる気がした。水は? 少し歩けば、小川のせせらぎを見つけることができた。澄んだ水を手ですくって飲む。冷たくて清らかだ。ここは地獄ではない。むしろ天国と呼べる場所かもしれない。
「じゃあ、次は……」
ミーシャは自分の周囲を見回す。衣服はボロ布同然で、住む家もない。この新たな世界で生きるなら、まずは寝床を確保し、服を何とかしなければならない。魔力があるのなら、それを使って環境を整えることができるかもしれない。
彼女は意を決して魔力を集中させる。先ほどの光の玉より、もう少し具体的なイメージをする。頑丈な木材で作られた小さな小屋。風を避け、火を灯せる場所。冷蔵するような機能――現世にはなかったが、魔力で冷気を操れば「冷蔵庫」のような空間も作れるかも、と突拍子もない発想が浮かぶ。
「どうせならやってみようじゃない」
笑みがこぼれる。どれだけ無茶苦茶な考えでも、この世界なら可能かもしれない。彼女は両腕を広げ、樹々に呼びかける。風がざわめき、木の幹が軋む音がする。ごう、と大気が揺らめくと、数本の木が根こそぎ宙に浮かび上がり、彼女の目の前で形を変え始めた。人間技ではありえない。これが魔法なのだ。濃厚な魔力の流れが彼女の脳裏にイメージを刻み、木材が組み合わされていく。
やがてそこには、簡素ながらもしっかりとした小屋が現れた。扉と窓、屋根があり、雨風を凌げそうだ。中に入ると、床には柔らかな苔のベッドが敷かれ、角には冷気が保たれたスペースがある。果物を入れれば腐らずに済みそうな天然の冷蔵庫だ。加えて、光球をランプ代わりに浮かべれば、夜間でも不自由なく過ごせる。
「なんてこと……私、こんなことができるなんて」
ミーシャは半ば茫然自失だが、同時にその強大な力が嬉しくてたまらない。かつての世界では無力だった。無実なのに魔女と罵られ、焚刑台で殺されかけた。あの時、少しでも抵抗できる力があれば……と何度思ったか知れない。
だが、今は違う。この世界では彼女はまぎれもない魔法の支配者になりうる。食糧、住居、すべてが意のままだ。いや、まだ試していないが、攻撃的な魔法も使えるはずだ。炎、水、風、土、大地を裂き、嵐を呼び、雷を落とすことも出来るのでは? 彼女の中で興奮と野心がゆっくりと膨らんでいく。
小屋の中で一息ついたミーシャは、先ほど拾った果物を冷気のスペースに並べる。次いで、衣服をどうにかしたい。ボロ切れの衣は見るに堪えない。魔力を糸のように紡ぎ、植物の繊維や、そこいらの動物の毛を抽出して布にできないだろうか。そんな発想が次々浮かぶ。
「こんな風に好き放題やれるなんて、夢みたいね」
ミーシャはくすりと笑う。拷問椅子に縛り付けられた数日前の自分に、この光景を教えてあげたいぐらいだ。もし、あの世界に戻れたら……彼女は一瞬考える。その世界に自分の恩人はいない。家族は魔女と疑われ離れていったし、彼女を救おうとする者はいなかった。戻ったところで何になる? あんな世界、壊してしまえばいい――ふと、暗い考えが頭をよぎるが、今はまだ早い。まずはこの世界で自分の力を試す。自由を謳歌する。それからでも遅くはないはずだ。
外へ出てみると、日が傾き始めている。木漏れ日の角度が変わり、鳥の声も夕暮れを感じさせる旋律に変わっている。ここでしばらく暮らしてみようか。この静かな森は彼女の庭だ。彼女が望むなら、森を広場に、畑に、果樹園に変えることもできるだろう。焚き火を灯して料理を作り、温泉のような温かな水場を創造することもできるかもしれない。想像力が限りなく膨らむ。
そして、何より彼女は今、「力」を持っている。「魔女」と蔑まれた過去など吹き飛ばせるほどに。この世界でなら、誰にも干渉されず、自分の思うがままに生きていける。魔法の練習が飽きるほど繰り返せる。いつかはこの世界を支配し、裏で操る大魔法使いになることだって夢ではない。
日が落ち、夜が訪れる。ミーシャは小屋の中で横になる。苔のベッドは驚くほど柔らかく、体温を保ってくれる。光球の穏やかな明かりが、彼女の顔を照らす。目を閉じれば、異世界での新生活に胸が躍る。今はまだ何も決まっていない。だが、彼女が無力だった時代はもう終わった。これからは、自分の意思と力で道を切り拓くのだ。
静かな森の夜気に包まれながら、ミーシャは微笑む。
「力なき魔女は、もういない――」
そう呟いて、彼女は新たな世界の始まりを迎える。その瞼の裏には、燃え盛る焚刑台の幻が浮かんでいるが、それはもう過去の残像に過ぎない。これからは彼女自身が“魔女狩り”をする番かもしれない。いつか、元いた世界に戻れるなら、あの愚かな連中に見せつけてやる。魔女が本当に恐ろしい存在なら、どれほどの恐怖を味わうことになるかを。
静かな夜空の下、森の中の小さな小屋から、世界を揺るがす大魔法使いへの物語が動き出した。
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