第17話
そしてまた講座の日がやって来た。
教室のドアを開けた瞬間、グッと胸が高鳴った。麻耶がいる。それだけで、俺のテンションは大幅に上がるんだから、自分でも単純だと思う。
「よし、今日はいつもより張り切っていくぞ!出来る男風に見せなくちゃ!」と心の中で気合を入れ、教卓に向かう足取りを少しだけ大股にしてみる。
教室の隅の席に座る麻耶と目が合うと、彼女は片手で周囲から身を隠すようにしながら、満面の笑顔で首を傾げ、反対の手で小刻みに手を振ってくれた。
その瞬間、心臓が大きく脈打ち、不覚にも顔が熱くなるのを感じた。気がつけば、デレっと笑ってしまっている自分がいた。俺のためだけに向けられたその仕草は、ありふれた挨拶のはずなのに、俺にとっては特別でたまらない。
「やばい、もうすでにペースを崩されてる気がする……」
そう焦る一方で、胸の奥では密かに幸せを噛み締めていた。麻耶の親しみ溢れるその仕草は、まるで俺を引き込む魔法のようで、抗う術もなく心を奪われていた。
授業を始めた。他の誰より可愛い子が、俺のことを笑顔で見守ってくれている。そう思うと、胸の奥が温かくなり、自然といつも以上に自信を持って話すことができた。難しい質問が飛んできても、軽快に切り返し、学生たちから笑いが起きると、さらに調子に乗ってしまう。
けれど、俺の視線は不思議と麻耶に吸い寄せられる。彼女は柔らかく微笑みながら、時には真剣な表情でこちらを見つめている。その視線に気づくたび、どこか自分が試されているような感覚に陥った。
彼女はこの講座を楽しんでいるのだろうか?俺の仕事ぶりに満足しているのだろうか?クラス全体を見る立場など忘れ、そればかりが気になってしまっていた。
そして、講座は終わった。あ、麻耶が近づいて来る。と思ったら、それより先に他の学生が話しかけて来た。
「先生、この間は楽しかったです。でもあの後電話かけたんだけど、どうして、折り返しかけてくれないんですか?」
先日の飲み会で酔っ払って俺に絡んで来た学生だ。
「あ、ごめんね。あの日酔っ払いすぎて、早く寝ちゃって…」と適当に言い訳をしながら、俺の視線は無意識に麻耶の動きを追っていた。しかし、彼女はすぐにいなくなってしまった。立ち去る時に見えた彼女の後ろ姿――ほんの一瞬だけ振り返り、こちらを見たけれど、目は合わなかった。けれど、その表情は、「勝手にすれば?」と言うような冷たい雰囲気を帯びていたように思う。
彼女が素早くいなくなったのは、俺が他の学生を最初に相手にしたことへの無言の抗議なのだろうか?それとも、ただの思い過ごしだろうか?
「寝ちゃっても、その後はかけてくださると思ってたのに残念です。」
学生の声が耳に入るが、頭の中は麻耶でいっぱいだ。どうにかしないと、目の前のややこしい話に集中するのは無理そうだ。
「いや、本当にごめんね。いつかけようか迷ってたらタイミング逃しちゃって……本当ごめんなさい。」
必死で言い訳をする俺だが、学生はニヤリと笑いながら畳みかけてくる。
「本当ですかー?本当に申し訳なく思ってるなら、また模擬デートに連れて行って奢ってくださいよー。」
「えっ?」と思わず間抜けな声を漏らす俺。すると、気がつけば隣にいた他の二人の学生まで頷き始めた。
「私も行きたいです!」「先生、罪滅ぼしで楽しめるチャンスですよ!」
学生たちの目がキラキラ輝いている。いや、それが純粋な輝きなのか、単に奢ってもらえるチャンスを逃したくないだけなのか、俺には判断がつかない。
「いやいや、模擬デートって……。そもそもデートって、そんな気軽に行くものじゃないんだぞ。」
苦しい言い訳をしてみるが、彼女たちは意に介さない。
「じゃあ、先生が電話を無視したお詫びで、特別に気軽にしてくれたらいいんです!」
「そうそう!優しい先生なら絶対してくれますよね。」
彼女たちの期待の視線に押され、俺は逃げ場を失いそうだった。
内心で「あちゃー……」と呟きながらも、「わかったよ!今回だけだぞ。」と言うと、学生たちは歓声を上げた。そして、次の模擬デートプランの話題で盛り上がり始めた。俺の抗議もむなしく、完全に主導権を握られているのがわかる。
その瞬間、視界の端で何かが動いた気がして顔を上げる。クラスの外の廊下で、麻耶がこちらを覗いていた。ほんの一瞬だったが、彼女の目は冷たく光り、口角がわずかに下がっているように見えた。
「……麻耶?」
思わず名前を口にしかけたが、次の瞬間には彼女の姿はもうなかった。
まさか、今のやり取りを見られてたのか?いや、見られてたとして、俺が悪いのか?いやいや、どう考えてもこれ、俺が悪い流れになるやつだろ!
学生たちの楽しそうな声が耳に入らなくなり、頭の中は麻耶の表情でいっぱいになる。気まずい。これはまずい。何とかしなきゃとは思うが、具体的にどうすればいいかなんて、全く思い浮かばない。
学生たちは「次はどこがいいかなー?」とネットで情報を集めながら楽しそうに話しているが、俺の中ではまるで警報が鳴り響いているような状況だ。模擬デートに奢る約束をさせられるよりも、麻耶の態度のほうが、何倍も気になって仕方ない。
「先生!豪華三ツ星フレンチディナークルージングデートはどうですか?」
麻耶のことが気になりすぎて、気が気でない俺は、その学生のとんでもない提案にもあまり考えず、「うん、いいんじゃないかな」と言ってしまった。
「やったー!!」、「すごーーい!」「先生最高!!三ツ星フレンチなんて生まれて初めてです!」
学生達が狂気乱舞している。何でも1人5万円のクルージングディナーだそうだ。俺の少ない給料が一瞬で消えて行きそうだ。我に帰った俺の心の中で冷や汗が流れた。
「おいおい、ちょっと待て! 5万円とか、冗談だろ?」
必死に冷静を保とうとする俺の言葉を無視して、学生たちはどんどん盛り上がっていく。
「フォワグラでしょ?トリュフでしょ?あとー…」「先生凄いよねー!20万とかポンと払えちゃうなんて、彼女に立候補しようかな…」
俺が頭を抱えていると、スマホが震えた。麻耶だ! 慌てて教室を出て、スマホに小声で話しかけた。
「もしもし、麻耶?」
「もしもしヒロ君?お疲れ様ー。」麻耶の声はいつもと同じ可愛い声だが、少しトーンが冷たかった。
「ありがとう。すぐ話したかったのに捕まっちゃって。」俺の精一杯の感情表現がこれだった。
「いいよ。外から見てたんだけどさ、ヒロ君みんなにモテてて良かったね。」麻耶の言葉は真意とは決して思えない冷たい響きを発していた。
「いや、そんなことないよ。ただ、たかられちゃって困っててさ。」俺は正直に返す。
「ふーん、気をつけてね。先帰るからまたね。」
そう言うと、麻耶は俺の返事を待たずに切った。最悪だ…。
なるほど、麻耶がすぐに講義室を出て行った理由が今わかった――いや、本当はそれでも完全には分からない。ただ、彼女がわざわざ外に出て、先日俺にベタベタひっついてきた女子学生たちとの様子を、あの距離から見ていたのだとすれば……。
いや、でも待て。どうして麻耶がそんなことをする必要がある? 俺と彼女たちの関係なんて、麻耶には何の関係もないはずなのに……。
ただひとつ確かなのは、彼女の機嫌が明らかに悪いということ。そして、おそらく嫌味を言いたくて電話をかけてきたのだろうということだ。
講座のスタート前、あんな素敵な笑顔で手を振ってくれた麻耶を、俺は怒らせてしまった。その事実が、じわじわと胸を刺してくる。先日ベタベタしてきた女子学生たちにまた適当に流されてしまったことが、彼女にどう映ったのかを考えると、余計に落ち着かなくなる。
俺は神様を恨んだ。電話を取らなかったのは確かに俺が悪かったが、こんな最悪なタイミングで、その責任を取らされるのは、運命を恨むしかないと感じた。
お金のかかる模擬デートも大問題だが、その数倍キツいのは、麻耶を怒らせたことだ。この携帯の向こう側ではいつでも麻耶と繋がってるはずなのに、今は彼女の声を聞く勇気は全くない。俺は今まで麻耶との関係に置いて、全ての面で麻耶にリードされ、少しづつ仲良くなってきた。
つまり逆に言えば俺が主体的に麻耶との関係を改善できたことは一度もなかったと思う。だから今回麻耶が怒り俺をリードすることをやめてしまうと、俺たちの関係はどうなってしまうのか。そう考えるだけで胸が押し付けられ痛くなった。
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