第9話

数日後、麻耶が講座を欠席した。前回のデート演習で話しやすくなったと感じていただけに、彼女の不在は素直に残念だ。なんとなく授業中も落ち着かず、つい教室の入り口に視線を送ってしまうが、麻耶が現れる気配はない。


授業が終わってからも、気になって何度か携帯を確認した。麻耶の名前を表示したまま、連絡するべきかどうか迷う。しかし、「余計なお世話かもしれない」と頭をよぎり、結局、電話をかけることはできなかった。


代わりに、麻耶と仲の良い友達にそれとなく話を振ってみた。そして、思いがけない事実を耳にする。


「麻耶? うーん…最近ちょっと彼氏と揉めたみたいよ。」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわつくのを感じた。麻耶が、彼氏と揉めている…。その情報が、どうしてこんなにも俺に影響を与えるのか、理由はよくわからない。ただ、デート演習のときに見せてくれたあの明るい笑顔が、今は曇っているのではないかと思うと、気持ちが落ち着かなくなった。


「そっか…。まあ、大丈夫だといいけど…」

軽く頷き、その場を離れる。


欠席の理由がわかったことで少し安心したはずなのに、知る前より彼女のことが気になっている自分がいる。何か力になれればいい――そんな思いが、胸の中で静かに広がっていった。


そうだ。俺は恋愛カウンセラーのはずだろ?学生たちの恋愛相談に乗る立場で、少しでも役に立てればと思っているのに、肝心の時に何もできていない。麻耶が困っているのなら、今こそ俺の知識と経験が役に立つべき時なんじゃないか?


…いや待て、実際のところ「経験」なんてほとんどないよな。…それでも、心理学を学んだ者として、彼女の力になれることが何かあるかもしれない。でも、俺と麻耶の関係はあくまで先生と生徒の関係。踏み込みすぎれば、逆に彼女を困らせてしまうかもしれない。


教室の窓から外を見る。いつもの夕暮れの風景が広がっているが、どこか物寂しく感じられた。ため息をつきながら、どう行動するべきか、自問自答が続く。


その時だ。俺の携帯のベルが鳴った。画面を見ると、そこに表示された名前は「麻耶」だった。思わず鼓動が速くなるのを感じながら、一瞬ためらう。電話をかけてくるなんて、何か緊急のことだろうか?それともただの偶然か?


迷いを振り払うように深呼吸をし、一瞬のためらいを振り切って通話ボタンを押した。

「もしもし、麻耶?」

できるだけ冷静を装おうとした声だったが、どこかぎこちなさが残る。


「先生…、少し時間ありますか?」

少し低めの、落ち着いた声。その響きに、どこか頼りない印象があり、思わず胸がざわつく。


「もちろんだよ。どうした?何かあったのか?」

心配を隠そうとしたつもりだったが、声の調子がそれを隠し切れない。


麻耶は一瞬の沈黙を挟み、電話越しにため息をついた。

「ちょっと、話したいことがあって…。今、少しだけ会えますか?」

その言葉には、何かしらの重さが感じられ、自然と心が引き寄せられるような気がした。


「わかった。どこで会おうか?」

即答した。自分に何ができるかはわからないが、今はただ、彼女が求めているなら、話を聞くしかない。


「えっと…、前に行ったあのカフェでどうですか?」

麻耶が提案した。


「うん、わかった!」

俺は力を込めて答える。どんな話をされるのか不安はあるが、彼女が頼りにしてくれるなら、今は自分にできる限りの力を尽くすべきだ。


電話を切った後、急いで身支度を整えた。心の中で「落ち着け、落ち着け」と繰り返す。前回のデート演習で訪れたカフェは、静かで落ち着いた雰囲気の場所だった。人が多すぎず、ゆっくり話せる空間。今の麻耶には、あの場所がぴったりだと思った。


数分後、カフェに到着すると、麻耶はすでに来ていた。店内の奥、窓際の席に座り、外の景色をぼんやりと眺めている。彼女の背中越しに見えるその姿には、普段の自信に満ちた雰囲気は少し影を潜めていた。


「お待たせ、麻耶」と声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。表情にはわずかな疲れが見えたが、同時にほっとしたような微笑みも浮かんでいた。その笑顔を見た瞬間、俺は思わず胸をなでおろした。思ったよりも元気そうだ――それが最初に浮かんだ感想だった。


「先生、早かったですね」と、彼女が席をすすめながら言った。口調には少し軽さが戻ってきているように感じる。


「いや、麻耶が待ってると思うと急がずにはいられなかったんだ」と、少し照れくささを隠すように答えると、麻耶はちょっとだけ微笑んだ。彼女の微笑みはやはり魅力的で、つい見惚れてしまいそうになる。


麻耶は視線をカップの中のコーヒーに落とし、小さく息を吸い込んだ。その仕草に、彼女が言葉を選びながら話そうとしているのが伝わってくる。


「実は…私、彼と別れることになったの」


その一言に、俺は思わず息を呑んだ。やっぱりだ。麻耶がこうして話をしたがっていた理由はやはり予想通りだった。


「そっか…大変だったね」と、できるだけ優しい声を心がけながら言う。視線を彼女に向けると、麻耶は軽く唇を噛み締めていた。だが、先ほどまでの緊張感が少し和らいだように見える。


こうして話すことで、ほんの少しでも気持ちが軽くなっているのかもしれない。そう思うと、俺の中にも少し安堵が広がった。


「うん、いろいろあったけど…。」麻耶はふっと微笑み、少しだけ首を振った。「なんか、今はスッキリしてるかも」


その言葉に、俺はほっと胸をなでおろした。彼女が少しでも前向きに考えられているなら、それが一番だと思う。少しでも役に立てれば、と心の中で祈るような気持ちになる。


「ずっと前から分かってたの。私たち、どこか噛み合ってなかったって。」麻耶の言葉は、どこかせいせいしたような響きを含んでいた気がするが、強がりなのだろうか。 


「そうだったんだ。話してくれてありがとう、麻耶。辛い時に、こうして話してくれるって…すごく勇気がいることだと思うよ」


麻耶は一瞬驚いたように目を見開き、そして小さく頷いた。「うん、先生には話しておきたかったんだ」と、か細い声で言った。その言葉に、俺の胸にじんわりと温かさが広がるのを感じた。


どうしよう?何か慰めになる言葉をかけなくては——そう思うものの、口を開けば何を言っても軽く聞こえてしまいそうで、言葉が喉の奥で引っかかる。こういうときこそ、俺はカウンセラーとして力を発揮しなくてはいけないはずなのに、彼女の前にいるとそれさえもままならない。


「…無理に前向きに考えなくてもいいんだよ」


気づけば、そんな月並みな言葉が口をついて出ていた。自分でも情けなくなるほど当たり障りのない一言だ。それでも、麻耶はふっと顔を上げ、少しだけ微笑んだ。


「先生、なんだか不器用ですね。でも…ありがとう。そう言ってもらえるだけで、なんか少し楽になった気がする。」


彼女の茶目っ気のある微笑みを見て、ようやく自分の肩から緊張が抜けていくのを感じた。どうやら、少しは慰めになったようだ。カフェの静かな空間で、俺たちはしばらくの間、言葉も交わさず、ただ目の前の時間を共有していた。


「辛いことを乗り越えるのは、本当に大変だよね。でも、麻耶ならきっと大丈夫だと思う。君には、ちゃんと自分の気持ちを話せる強さがあるんだから」


そう言いながら、自分が言葉の重さに見合う存在かどうか、不安に思いながらも彼女に向かって微笑みかけた。彼女の心の痛みが少しでも和らげばと思いながら。


麻耶はもう一度、今度ははっきりと頷いた。


「70点ですね」


麻耶はそう言って、少し意地悪そうに微笑んだ。まるで俺の励ましの言葉を採点するかのように。それでも、その笑顔には、いつもの明るさが戻っている気がする。


「え、70点?結構がんばったんだけどな…」


俺は苦笑しながら肩をすくめる。正直、もう少し高い点数を期待していた。けれど、麻耶の冗談に返せる余裕が出てきたことに、ほっとしている自分がいた。


「でも、まあ…70点でも、今の私には十分かも」


彼女はそう言って、俺の顔を一瞬見つめた後、今度はカフェの窓の外を見つめる。その横顔は、少しだけ寂しげだったが、それでも、前向きなオーラは感じさせた。


「じゃあ、次は80点目指してみようかな」


俺がそう言うと、麻耶はふっと笑ってコーヒーに口をつけた。彼女の笑顔に、ほんの少しだけ自信を取り戻したような気がした。


少し安心した俺が下を向きコーヒーを飲んでると、凄く小さな声だけど、確かにこう聞こえたんだ。


「先生でもいいな…」


え!?と思ったが俺のその声は出なかった。胸がドキドキと打ち、麻耶の方を見ることができない。


「えっと…」と俺が少し気を取り戻し何か言おうと思った瞬間、麻耶が立ち上がった。


「そろそろ帰りましょうか?」


麻耶が立ち上がったことで、何となく会話が途切れた。少しだけ焦ったような気持ちを押し込めて、俺も立ち上がる。


「え、ああ、そうだね。じゃあ、帰ろうか。」


俺の言葉には、ちょっとした戸惑いがにじんでしまったように思う。麻耶の表情をうかがうが、彼女は軽く微笑んでいるだけだった。その笑顔に、何かを感じ取ろうとしても、上手く読み取ることができない。


二人で店を出て、外に向かう。夜風が心地よく、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。麻耶と並んで歩くその一歩一歩が、普段よりも少しだけ重く感じる。無理に会話を続けるのは、なんとなく気まずい。


「先生。」


突然、麻耶が口を開いた。俺は思わず彼女を見てしまう。


「うん、何?」


「今日は、ありがとう。これからもよろしくね。」


そう言うと彼女は、俺に握手を求めるように手を差し出した。俺が握手すると、麻耶は柔らかい手でぎゅっと握りしめてきて、俺はまた胸が高鳴った。


「俺こそ、ありがとう。麻耶が元気を取り戻せたなら、それだけで…」


その言葉が少しだけ心に響いたのか、麻耶がふっと笑って、言葉を遮った。


「先生って、意外といい人だよね。」


その言葉に、俺はほんの少し照れくさい気持ちを抱えつつ、笑顔で応えた。


「意外と、ね。」


握手を終えると、俺たちはそのまま歩き続ける。今度は、少しだけ自然に感じた。心の中で、ほんの少しだけ安心した自分と、まだ胸の高鳴りが止まらない自分がいた。

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