第4話 赤ずきん②

 あれ、私……どうしたんだっけ……?


「ねぇ、聞いてるの?」

 突然の声に、ハッと我に返る。

 目の前には、心配そうに覗き込むオバサンの顔があった。

「『寄り道せずに早く帰ってくるのよ』って言ったのよ。ここでは年長者のあなたが母親代わりでもあるんだから」


 ああ、そうだった……。

 これから出かけるんだった……。


「わかっています。心配しないでください。すぐ戻りますから」

 私は外向けの笑顔を作って頷いた。


 オバサンの横を通り過ぎ、私は顔を上げる。

 大きな通りに出ると、吹きつける風はひどく冷たかった。

 私は赤いマフラーに顔をうずめる。

 足取りは軽くはなかったが、ゆっくりと目的の場所に向かうことにした。


 今日の服装は、気温から考えるとひどく薄着だ。

 ただ、この格好は正解だった。

 出かけにアイツがいやらしい目で見てたから……。


 オバサンは何もわかってない。

 この施設のことも、アイツのことも、お兄ちゃんのことも……。

 養護施設なんて上っ面だけ。

 里親に引き取られた子がその後どうなったのか、オバサンは知らない。

 みんなアイツの善人面に騙されて、この施設がどんなところかわかっていない。

 アイツは表面上、私たちにも優しい。

 でも、私と日向は知っている。

 裏でアイツがお兄ちゃんにしていること。

 お兄ちゃんは私たちを心配して、18歳になったのに退所できずにいること。


 だから、私がすべて終わらせるの。

 今日、アイツを殺す。

 日向には小さい子たちを逃がすよう言ってある。

 刺し違えてでも殺す。

 万一、私だけが死んだとしてもアイツは殺人犯だ。

 二度と養護施設の施設長などできないだろう。


 私はギュッとマフラーを握りしめた。

 お兄ちゃん……。

 もう自由になっていいんだよ。お兄ちゃんが誰より優しい人だって、私たちは知っているの。


 そんなことを考えていると、いつのまにか私は目的の場所に着いていた。

 私の生家のアパート。忌々しい思い出が詰まった場所。

 アイツがここに来るよう仕向けておいた。

 町の中でも廃れたこの一角にはひと気がない。

 アイツはここで私を襲うだろう。

 そこを私がこれで……。

 私は包丁が入ったカバンをギュッと掴んだ。

 理想は、正当防衛としてアイツを殺すこと。

 ダメだったときは刺し違える。

 最悪でもアイツを殺人犯にする。


 私は意を決して、アパートの扉を開けた。

 老朽化が進んだこのアパートはまもなく取り壊しとなるため、鍵がかかっていない。


 私は小さく息を吐いた。

 アイツは今どのあたりだろう?

 カバンからスマホを取り出してアプリを起動する。

 アイツの動きを把握できるよう、アイツのスマホにGPSアプリを入れておいた。

 もうすぐ会合が終わってこっちに来るはず……。


 薄暗いアパートの中、スマホの画面だけが明るく光った。

「え……!?」

 思わず声が出た。

 アイツのスマホの信号は、養護施設の方に向かっていた。

「な、なんで!? だって、アイツ……!」


 そんなこと考えてる場合じゃない!

 私はアパートを飛び出した。


 この時間は、まだ日向が施設に残っている可能性が高い。

 小さい子を逃がしたことを知ったら、アイツは日向に何をするかわからない。

 念のために、アイツの持っている施設の鍵は抜き取っておいたけど、それでも……。


 走りながら、震える手でスマホのボタンを押した。

 今日一番かけたくなかった番号に、もう電話をかけるしかなかった。

 しばらくコール音が鳴った後、いつもの穏やかな声が耳元に響く。

 声の温かさに思わず涙が滲む。


「ごめん、お兄ちゃん……! ごめん!! 私……とんでもないことを……!」

 お兄ちゃんに簡単に事情を説明すると、私は全力で施設に向かって走った。


 私が余計なことしたせいで、日向に何かあったら……!


 ようやく施設が見えてきたところで、私は思わず立ち止まった。


 ドアが……壊れてる……。

 顔から血の気が引いていく。


 落ち着け、落ち着け。まだ何かあったと決まったわけじゃない。


 私はゆっくりと施設に近づいた。

 「……日向? 中にいるの?」

 できる限り何でもないような口調で、中に向かって声をかけた。

 まだアイツが中にいる可能性がある。何も悟られないように、慎重に……。


 施設の中はいつも以上に荒れていた。

 奥へと進んでいくと、本棚は倒れ、布団はすべて外に放り出されていた。

 これは一体……。


 ふいに奥のクローゼットで何か動く気配がした。

「……日向?」

 クローゼットの中で、また何かが動いたのがわかった。

「お、お姉……ちゃん?」

 日向の声は明らかに恐怖で震えていた。


 いる。日向と一緒にアイツも。このクローゼットの中に……!


「日向、どうしたの? こんなところにひとりで……。かくれんぼのつもり?」

 私は何も気づいていないフリをしながら、自分のカバンに手をかけた。

 ゆっくりとカバンを開け、震える手で包丁を取り出す。


「な、なんでもないから……お、お姉ちゃんはもう向こうに行っ……」

 日向の声は不自然なかたちで途切れた。


 勢いよくクローゼットが開き、アイツのニヤついた顔が見えた。


 震えを抑えようと包丁を持つ両手に力を込める。

 ここで絶対に、この男を殺す!

「……死ね!!」

 私はアイツの顔を目がけて、渾身の力で包丁を振り下ろした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る