図書館を堪能せよ

@momoyama_wagashi

その1


 図書館に足を伸ばしたのは、なんとなくで始めたプログラミングの勉強のためだった。

 なんでここは自動ドアじゃないんだろう。

 テーブルのある地下へ向かおうとしたところ、視界の隅に司書さんが頭を下げていた気がする。少しだけ気まずい。階段まで足早に、けれど音を極力立てないようにして歩いた。地下の空間は日の光が窓の半分より上から差し込んで、適当に並べられた椅子にも明かりが届くようになっている。よかった人がいない。

まずは、と椅子にコートをかけた。その瞬間、目の前がぐるりと回転して、右目のほうから黒い影が波打ってくる。立ち眩みだ。横から押されたように倒れて、ハッとする。コートをかけた椅子以外、見知らぬ場所になっていた。



 ここは図書館だ。突き当りが見えない書架の森は、蛍光灯の光の中でもなおこの世のものではないことを確信させた。端っこにぶつかる頃には、おじいさんになっているか、知識人になっているかのどっちかなんだろう。

 わっ! 

 思ったよりも本は音を吸い込んで、見えないところまで届く前に消えていった。ここはどこなんだろう。近くの本に手を伸ばしてみる。見たことのない文字が、順番もなく書かれているだけだった。横の本もそうだ。ここの列もそうだ。

 遠くの書架の陰から声がした。誰かいますか。まさかこんな言葉をいうことになるとは。

 オフィスカジュアルな男性が低い声で答える。こんにちは。ああどうも。眼鏡が光る。少しの間、奥の眼が見えなくなって、横にずれながら挨拶をした。彼は何も気にしてないようだった。優しそうな人だと思った。

「プログラミングの勉強がしたくて来たんですけど」

「あの奥にある新聞架けわかりますか、IT関連はあそこを右に曲がったところにありますよ」

 優しい人だ。



「本を探すときは声をかけてください」

「あ、わかりました」

「それで、ここがどこだかわかりますか?」

「全然わかってなくて。突然来ちゃったもんだから、右も左も、なにも」

「ここは図書館で、どんな本でも置いてあります。自分は司書で、どんな本でも見つけられます」

「それはすごいですね!」

「いえいえ。不思議と頭の中に浮かんでくるんです。あなたは違いますか? ここに来る人はなにかしら、不思議な力を渡されて来るようですから」

「……なにも浮かばないです」

「ここの文字が読めるとか」

「……」

「……」

「ここから帰る方法の本を探してほしいんですけど」

「それなら、FLXD40339という棚にあります」

「あるんだ」

「足取り軽くて20年ほどでしょうか」

「遠いですね」

「ここに時間なんてあってないようなものです。朝日は昇りますが、本が朽ちるところを見たことがありません。数字を数えていた頃からいくつ経ったかわかりませんが、少なくとも90年はここにいます」

「私みたいな人は、どうしてるんですか」

「どこかへいかれます。本をお探しなら、案内しています。自分はここから動けませんから」



 司書さんのいる受付はいつ見ても汚れがない。自分とは違う生き物見えて、それはそれで間違ってないような、と思う。書きかけのメモはないし、何かをこぼした跡もない。ただ大量に積んでいる本を、上から順番に読んでいるだけだ。左の角にあるコーヒーメーカーが、忘れ物みたいになっていて少し面白い。故障中と貼り紙がされてるのに電源が付いている。

黒い液体がこぽこぽと音を立てて、すこし焦げたようなにおいがいつもそこにある。迷子になったとき、何度かお世話になった。いつもありがとう。

 司書さんは足を組まない。腕は組む。眼鏡をしない時もある。遠出したとき大量の本を持ってくるのは、必ずいつもの椅子に座って読むからだ。しかも、読み始めたら途中でやめない。しおりは持たない。新聞は読まない。本を戻すときは手を先に入れてスペースを作る。彼に名前はない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る