曼荼羅の糸(当麻寺のお話)

三分堂 旅人(さんぶんどう たびと)

曼荼羅の糸(当麻寺のお話)

當麻寺を訪れたのは、都会の暮らしに飽きた青年だった。名は菊池。無趣味で、人生に特に目標もない彼は、ネットで「不思議な体験ができる寺」と紹介されていた當麻寺に足を運んだ。

寺の入り口で、年配の案内人が微笑んだ。「曼荼羅を見に来たんですね。中将姫様の伝説はご存じですか?」

菊池は首を振る。案内人は語り始めた。

「中将姫様は、念仏を唱え続けた結果、蓮の糸で極楽浄土の曼荼羅を織り上げられたんです。その糸には不思議な力があると言われています」

菊池は興味を持ったが、少し疑いもあった。「その糸、今も見られるんですか?」

案内人は答えた。「曼荼羅に宿っていますよ。ただし、心が清らかでないと糸を見ることはできません」

そんな言葉を聞いた菊池だが、寺の奥に進むと、次第に胸がざわつき始めた。曼荼羅が展示された部屋に入ると、不思議な感覚に包まれる。曼荼羅の細密な描写に目を凝らしていると、突然、絵の一部が光を放ち始めたのだ。

「なんだ……これ?」

曼荼羅から光る糸がするすると空中に伸び、菊池の手元に絡みついていく。糸はやわらかく温かかった。すると、頭の中に声が響いた。

「この糸は、あなたの運命を織り直すものです。望みを語りなさい」

菊池は戸惑ったが、試しに呟いた。「……もっと自由な人生が欲しい」

すると、糸は一層輝きを増し、彼の周りに幾重にも巻きついた。気がつけば、菊池の目の前には新しい曼荼羅が広がっていた。それは彼の人生そのものを描いたものだった。過去の後悔、現在の迷い、そして未来の選択肢が鮮やかに浮かび上がっている。

「これが、僕の人生?」

曼荼羅の中に、どこか見覚えのある光景が現れた。それは、都会の喧騒から離れた小さな工房だった。そこで、彼は木材を削りながら笑顔で過ごしていた。

菊池は思わず心の中で叫んだ。「僕が、こんな暮らしをするなんて……!」

その瞬間、曼荼羅が崩れ、糸も消えた。周囲を見渡すと、彼はまた當麻寺の展示室に戻っていた。だが、胸には確かな感覚が残っていた。「あの曼荼羅が示した未来が、本当に僕の望みかもしれない」

菊池は寺を後にし、すぐに都会での生活を捨て、小さな町で木工職人の道を歩み始めた。不思議なことに、彼の工房には當麻寺で見た曼荼羅と同じ模様が自然と浮かび上がるようになり、それが評判を呼ぶようになった。

そして彼は時折思う。「あの曼荼羅の糸は、本当に中将姫が織り上げたものだったのかもしれない」と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

曼荼羅の糸(当麻寺のお話) 三分堂 旅人(さんぶんどう たびと) @Sanbundou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る