疑問を感じる女心のツボは
俺は自転車を降りると、マンションを見上げた。五階建てのマンションなので、首を真上にして見上げるという感じではないが、傍で見るとそれなりに高い。
既に、通路には明かりが付いている。マンションの玄関をくぐり、
「おかえり」
「ただいま」
ちょっとディープキスをされると、俺も感じるものがあり、ついつい、下半身に血が流れ込み、海綿体の隅々まで行き届いてしまう。
「さあ、やろうか」
「はい」
今年のバレンタインデーは月曜日だが、金土日と三連休になっており、客商売のバイトをしている関係上、二日間はそれぞれシフトが入ってしまった。
しかし、明日と月曜日は休みをもらっている。
二月十四日は、二人で作ったチョコチップマフィンを食べようという計画で、今日はその予行演習だ。
レシピはネットで調べたのだが、スイーツ類は作ったことが無い。そんなわけで、二人で動画を観始めた。
「動画の方がわかりやすいな」
「あれ、ふるいなんてありましたっけ?」
「たぶん、無い」
「何か代わりになるものがあるんですか?」
「これだ」
「おお、俺、これ、あこがれていたんです」
「兄がお好み焼き好きでな、あれの生地を作る時に使うんだ」
「これなら大丈夫そうです」
――カシャカシャカシャカシャ
俺は、
実に興味深い構造で、ハンドルを引くとリンクが作動し、中にある羽が回転する。そして、メッシュをこするように回転しながら粉を落としていく。
――カシャカシャカシャカシャ
どうにも好奇心が収まらず、何度もレバーを引いていたら、
「
「はい」
嬉しそうな
俺は料理をするのは好きではあるが得意という訳では無い。ただ、下手と言われている人は、だいたいの場合、作ったことのない料理をレシピ通りに作らないから失敗する。
お袋がそうだ。レシピ通りに作らず、すぐに適当に工夫と称して、失敗作への階段を降りていく。
「
超アナログなはかりを見せられた……スイーツを美味しく作るには、はかりの精度や細かさも大切と聞いたことがある。
これは、まずいのか? いや、大丈夫、多少、狂っていたとしても、正面から目視すればいいはず。
そして俺たちは、すぐに
この超アナログなはかり、ゼロ設定ができないので、ボウルを乗せたらその分、引き算をしながら小麦粉などの材料を入れなければならない。
しかし、そこは理系大学生が二人もいる。なんとかなる、うん、大丈夫。
「せっかくだからたくさん作ろう。小麦粉二百グラムでどうだ?」
「いえ、最初は失敗する可能性もありますから、百グラム、六カップ分で行きましょう」
「そうだな、
「はい」
はかりにボウルを乗せ、さらにカシャカシャ言うふるいみたいな道具を乗せると、小麦粉百グラム、ドライイースト三グラム、これはもともと三グラムのパックだから問題ない。
そして色々と追加していくうちに計算が難しくなっていく。
――カシャカシャカシャカシャ
楽しい、ずっとやっていると腕が疲れて来るが、実に楽しい。俺は空手をやっていたものの、筋肉質というほどではない。
時々、左手のサポートも入れながらすべての粉をふるいきった。
「
「そうですか?」
「ああ、そうだ」
そうだな、俺はほとんど笑わない。作り笑いをするわけではないが、ちょっと笑う程度。口をあけて笑ったことなんて、ここしばらく無いかもしれない。
――シャカシャカシャカシャカ
隣で
「これぐらいの力でいいのなら、明日は二百グラム行けそうだ」
「そうですか。良かったです」
お好み焼きと違って、マフィンの生地をかき混ぜるのはひと苦労だろう。まあ、二人とも、普通の人よりはよっぽど筋肉があるから大丈夫だ。
オーブンレンジを予熱、レシピ通りに温度設定をすると、俺はチョコを砕き始めた。
これがなかなか難しい。包丁で刻んでいくのだが、あまり細かいとチョコチップ感が無くなりそうだ。
そんなわけで、粉々になった割れチョコをボウルに入れ始めた。なんか、夫婦みたいだな。ちょっと照れる。
「
「あ、そうでした」
割れチョコと格闘し、ほっとして
「ちょっとかき混ぜるの、替わってくれるか?」
「はい。じゃあ、仕上げのかき混ぜをやりますので、カップを並べてください」
「わかった」
そして、俺は六等分に分けて生地をカップに流し込んだ。
「随分と少ないものなんだな。本当にこれ、膨らむのか?」
「
「任せろ」
そして……
カップに落ちるはずだった生地は、
二人してケラケラと笑った。
「私はアホだ。ボウルを垂直にして下に振っても、生地が手前に飛んでくるだけだ」
「とりあえず、拭きます」
「いや、後でいいから、何かアイデアは無いか?」
ふーむ、何のことはない、実に簡単な方法で解決した。カレーやシチューを食べる時に使う大き目のスプーン、これで十分だった。
動画ではシリコンのヘラを使っていたので、そこに頭がすぐに行かなかった。
「オーブンには俺が入れます」
「いや、私がやる」
「あの、
「わかった。私はちょっとおっちょこちょいだから」
「そんなことないですよ」
「じゃあ、どうしてだ?」
「その綺麗な手にやけど跡でもできたら困るってことです」
「本当に
「
そうなのか? そうなのかも。俺は後ろから伸びている
「
「あ、はい、いいですけど、あの」
「なんだ?」
「今、俺の背中、生地だらけになっていると思います」
「あ、ご、ごめん」
俺は
そしてそのまま、それぞれの部屋で着替え、俺は二人分の服を軽くバケツで洗って洗濯機に突っ込んだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――ピピピ
オーブンレンジのタイマーが焼き上がりを知らせてくれた。
結局、
いや、こんな年上の美女に甘えられるだなんて、幸福の極みだ。
「
「はい」
――ガチャッ
ん? なんかちょっと焦げ臭い気がする……気のせい?
「なにか間違えたのかな」
「とりあえず、明日の朝までしっかり冷まして、朝食後に食べてみましょう」
「そうだな」
「あ」
「どうした?」
「上に乗せるチョコレートが……」
キッチンの隅に置いた小さなボウルに、砕いたチョコが入っていた。
「うーむ、
「マフィン、まだ熱いので、今から無理やり乗せるのは?」
「いいな、そうしよう」
そして、二人で笑いながらマフィンにチョコを乗せていく。チョコは溶け、まるでマフィンをチョコでコーティングしたかのようになった。
「これはこれでいいんじゃないか?」
「はい、俺もそう思います」
しばらく、チョココーティングされたチョコチップマフィンの前で、二人で笑った。
「
以前の一件以来、
二人でベッドに寝転がると、
「
「どんなことですか?」
「二月十四日の夜のことだ」
「それ以上は言わなくても大丈夫です。俺、姉ちゃんいますから」
家族旅行の時、生理用品を買いに行かされたことだってある。
俺は
しばらくして
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日の朝食後、早速、チョコチップマフィンを食べてみた。
「
「あ、ホントですね。それで焦げちゃったのかも」
「でも、味は良いな」
「はい」
二人でチョコチップマフィンを六カップ食べ終わると、反省会をした。大丈夫、材料はまだたくさんあるし、足りなくなったら買ってくればいい。
「俺、アイデアがあります」
「なんだ?」
「生地に混ぜるチョコと、上に乗せるチョコの大きさを変えます」
「なるほど、そうすれば生地の中にあるチョコは沈まず、チョコチップ感も出ると」
「はい」
「じゃあ、また夕方、作ってみよう。それで、今日はどうする?」
「駅地下でプリなんとかするのはどうですか?」
「うん」
ラフに髪の毛を後ろに束ねた美少女が視線を斜め下に落とし、頬を赤らめている。見ている俺まで恥ずかしくなってきた。
しかし、ここは我慢だ。ちゃんと出かけなくては。
行先は、リベンジということで、駅地下に決定し、俺たちはバスに乗って駅まで行った。地下に降りると、香ばしい食欲をそそる匂いがする。
プリなんとかがたくさん並んでいるコーナーがあり、女子高生らしき集団がシールを見て話をしていた。そして、こっちを見た。
恐らく、
俺たちは入り口と思われる場所で順番待ちをした。
すると、中から中学生ぐらいの女の子が三人出てきた。長い黒髪の美少女は、左足を少し引きずっているようだ。怪我でもしているのかな。
「終わりました。どうぞ!」
美少女は俺の顔をじっと見た。やっぱり美少女だ。胸は
「あ、ありがとう、じゃあ、
「う、うむ」
美少女は、いたずらっぽい笑顔で笑った。
「もしかして、お姉さんたち、初めてですか?」
い、痛いところを突かれた。
「すごく緊張オーラが出ています」
「その通り、初めてなんだ」
「じゃあ、特別に教えます。あ、二人ともルターバックス、先に行ってて」
「ほい、じゃあ、
二人が立ち去るのを待たず、美少女は俺たちを幕の中に招き入れた。
そして、結局、操作方法、ポーズ、盛り具合の調整まで全部やってもらい、最後は三人で一緒に撮影した。
「お礼に何か――」
「ハグがいいです!」
俺が言い終わる前に、美少女は俺に抱きついた。ハグする方じゃなくてされる方とは……なんとなく頭を撫でた。
その後、一緒にバスでマンションに帰り、こたつに入った。
「
「いえ、あんな風に抱きつかれたのは初めてで」
そこか、女心はやっぱりわからない。
「気持ちいい。昔は、兄によく撫でられた。懐かしい気持ちだ」
「いくらでも撫でますよ」
――ピコピコ、ピコピコ
「
「あ、はい」
「取りなよ」
「いいんですか?」
「
「わかりました」
誰からかな……
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あとがき
数ある小説の中から読んで頂き、ありがとうございます。
本エピソードで夢中になって「カシャカシャ」やっている粉ふるいは、「シフター」というそうです。
レバーを引くと、器の底で羽が回転するようになっており、実に興味深い構造になっています。そんな気持ちを、素直に書いてみました。
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それではまた!
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