疑問を感じる女心のツボは

 俺は自転車を降りると、マンションを見上げた。五階建てのマンションなので、首を真上にして見上げるという感じではないが、傍で見るとそれなりに高い。

 既に、通路には明かりが付いている。マンションの玄関をくぐり、春日かすがが住む部屋に向かった。


「おかえり」

「ただいま」


 春日かすがは俺に抱き着き、顔を上げて目を閉じた。もちろん、期待に応えた。最近、春日かすがはフレンチキスではなく、ディープキスを求めて来る。

 ちょっとディープキスをされると、俺も感じるものがあり、ついつい、下半身に血が流れ込み、海綿体の隅々まで行き届いてしまう。


「さあ、やろうか」

「はい」


 今年のバレンタインデーは月曜日だが、金土日と三連休になっており、客商売のバイトをしている関係上、二日間はそれぞれシフトが入ってしまった。

 しかし、明日と月曜日は休みをもらっている。


 春日かすがが俺のバッグをあさり始めた。中には、割れチョコ、小麦粉などが入っている。


 二月十四日は、二人で作ったチョコチップマフィンを食べようという計画で、今日はその予行演習だ。

 レシピはネットで調べたのだが、スイーツ類は作ったことが無い。そんなわけで、二人で動画を観始めた。


「動画の方がわかりやすいな」

「あれ、ふるいなんてありましたっけ?」

「たぶん、無い」


 春日かすがはコンロの下のドアを開け、何かを探し始めた。


「何か代わりになるものがあるんですか?」

「これだ」


 春日かすがが手にしていたのは、ステンレスのマグカップのようなデザインで、ハンドルを引くとカシャカシャ言うやつだった。


「おお、俺、これ、あこがれていたんです」

「兄がお好み焼き好きでな、あれの生地を作る時に使うんだ」

「これなら大丈夫そうです」


――カシャカシャカシャカシャ


 俺は、春日かすがから調理器具を受け取ると、ハンドルを握ってみた。

 実に興味深い構造で、ハンドルを引くとリンクが作動し、中にある羽が回転する。そして、メッシュをこするように回転しながら粉を落としていく。


――カシャカシャカシャカシャ


 どうにも好奇心が収まらず、何度もレバーを引いていたら、春日かすがに声を掛けられた。


二海ふたみ、そろそろ作ってみようか」

「はい」


 嬉しそうなあきれた表情を見せながら、春日かすがは垂らしていた長い髪の毛を後ろですべてまとめ、手を洗い始めた。


 俺は料理をするのは好きではあるが得意という訳では無い。ただ、下手と言われている人は、だいたいの場合、作ったことのない料理をレシピ通りに作らないから失敗する。

 お袋がそうだ。レシピ通りに作らず、すぐに適当に工夫と称して、失敗作への階段を降りていく。


二海ふたみ、はかりはこれを使ってくれ。祖父母が使っていたものだが」


 超アナログなはかりを見せられた……スイーツを美味しく作るには、はかりの精度や細かさも大切と聞いたことがある。

 これは、まずいのか? いや、大丈夫、多少、狂っていたとしても、正面から目視すればいいはず。


 そして俺たちは、すぐにつまづきそうになった。だが、まだつまづいていない。


 この超アナログなはかり、ゼロ設定ができないので、ボウルを乗せたらその分、引き算をしながら小麦粉などの材料を入れなければならない。

 しかし、そこは理系大学生が二人もいる。なんとかなる、うん、大丈夫。


「せっかくだからたくさん作ろう。小麦粉二百グラムでどうだ?」

「いえ、最初は失敗する可能性もありますから、百グラム、六カップ分で行きましょう」


 春日かすがは腕を組んだ。横顔が綺麗すぎる。鼻の下のラインと、あごのラインがあまりも見事だ。もし、ミスなんちゃらに出場したら優勝間違いなし。


「そうだな、二海ふたみの言うとおりにしよう。何しろ、私は簡単な料理しかできない。料理の得意な二海ふたみが慎重になるぐらいだ。料理については君に従おう」

「はい」


 はかりにボウルを乗せ、さらにカシャカシャ言うふるいみたいな道具を乗せると、小麦粉百グラム、ドライイースト三グラム、これはもともと三グラムのパックだから問題ない。

 そして色々と追加していくうちに計算が難しくなっていく。


――カシャカシャカシャカシャ


 楽しい、ずっとやっていると腕が疲れて来るが、実に楽しい。俺は空手をやっていたものの、筋肉質というほどではない。

 時々、左手のサポートも入れながらすべての粉をふるいきった。


二海ふたみのそんな笑顔、初めて見た気がする」

「そうですか?」

「ああ、そうだ」


 そうだな、俺はほとんど笑わない。作り笑いをするわけではないが、ちょっと笑う程度。口をあけて笑ったことなんて、ここしばらく無いかもしれない。


――シャカシャカシャカシャカ


 隣で春日かすががボウルに泡だて器を突っ込んで混ぜ始めた。


「これぐらいの力でいいのなら、明日は二百グラム行けそうだ」

「そうですか。良かったです」


 お好み焼きと違って、マフィンの生地をかき混ぜるのはひと苦労だろう。まあ、二人とも、普通の人よりはよっぽど筋肉があるから大丈夫だ。


 オーブンレンジを予熱、レシピ通りに温度設定をすると、俺はチョコを砕き始めた。


 これがなかなか難しい。包丁で刻んでいくのだが、あまり細かいとチョコチップ感が無くなりそうだ。


 そんなわけで、粉々になった割れチョコをボウルに入れ始めた。なんか、夫婦みたいだな。ちょっと照れる。


二海ふたみ、全部、入れちゃダメだぞ。後で上に乗せるからな」

「あ、そうでした」


 割れチョコと格闘し、ほっとして春日かすがに見とれていたら、すっかりレシピを忘れてしまっていた。


「ちょっとかき混ぜるの、替わってくれるか?」

「はい。じゃあ、仕上げのかき混ぜをやりますので、カップを並べてください」

「わかった」


 そして、俺は六等分に分けて生地をカップに流し込んだ。


「随分と少ないものなんだな。本当にこれ、膨らむのか?」

春日かすが、ボウルに生地がだいぶ残っちゃいました。何かいいアイデアはありませんか?」

「任せろ」


 春日かすがは俺からボウルを奪い取ると、上から勢いよくカップに向かって振り下ろした。


 そして……


 カップに落ちるはずだった生地は、春日かすがの服に飛び散った。そうか、ボウルの形状から推測できることだ。


 二人してケラケラと笑った。


「私はアホだ。ボウルを垂直にして下に振っても、生地が手前に飛んでくるだけだ」

「とりあえず、拭きます」

「いや、後でいいから、何かアイデアは無いか?」


 ふーむ、何のことはない、実に簡単な方法で解決した。カレーやシチューを食べる時に使う大き目のスプーン、これで十分だった。

 動画ではシリコンのヘラを使っていたので、そこに頭がすぐに行かなかった。


「オーブンには俺が入れます」

「いや、私がやる」

「あの、春日かすががやけどしたら困るので」

「わかった。私はちょっとおっちょこちょいだから」


「そんなことないですよ」

「じゃあ、どうしてだ?」

「その綺麗な手にやけど跡でもできたら困るってことです」

「本当に二海ふたみは、そういうところ、ずるいな」


 春日かすがは、俺がすべてのカップをオーブンレンジに入れ終わると、後ろから抱き着いた。


二海ふたみ、結構、変わったな。以前の二海ふたみなら『綺麗な』なんて言わなかったと思う。もしかして、私が君を変えているということか?」


 そうなのか? そうなのかも。俺は後ろから伸びている春日かすがの手を握り締めた。


二海ふたみ、焼き上がるまで三十分ある。私の部屋に行かないか?」

「あ、はい、いいですけど、あの」

「なんだ?」


「今、俺の背中、生地だらけになっていると思います」

「あ、ご、ごめん」


 春日かすがらしくない言葉遣い、たまには以前のように戻ることもあるのか。


 俺は春日かすがの服をタオルで拭き、俺の背中は春日かすがに拭いてもらった。

 そしてそのまま、それぞれの部屋で着替え、俺は二人分の服を軽くバケツで洗って洗濯機に突っ込んだ。



  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



――ピピピ


 オーブンレンジのタイマーが焼き上がりを知らせてくれた。


 結局、春日かすがとリビングでダラダラしていて、春日かすがの希望で、俺が甘えさせてもらったたぐらいで何もしていない。

 いや、こんな年上の美女に甘えられるだなんて、幸福の極みだ。


二海ふたみ、オーブン、開けてみようか」

「はい」


 春日かすがはオーブンを開ける係、おれはプレートを取り出す係、ちょうどいい手袋が無かったので、コットンのタオルを折りたたんで待ち構えた。


――ガチャッ


 ん? なんかちょっと焦げ臭い気がする……気のせい?


 春日かすがの顔を見ると、春日かすがもチョコチップマフィンの匂いを嗅いで微妙そうな表情をしている。でも、しっかり膨らんでいる。これは感激だ。


「なにか間違えたのかな」

「とりあえず、明日の朝までしっかり冷まして、朝食後に食べてみましょう」

「そうだな」

「あ」

「どうした?」

「上に乗せるチョコレートが……」


 キッチンの隅に置いた小さなボウルに、砕いたチョコが入っていた。


「うーむ、二海ふたみ、どう思う?」

「マフィン、まだ熱いので、今から無理やり乗せるのは?」

「いいな、そうしよう」


 そして、二人で笑いながらマフィンにチョコを乗せていく。チョコは溶け、まるでマフィンをチョコでコーティングしたかのようになった。


「これはこれでいいんじゃないか?」

「はい、俺もそう思います」


 しばらく、チョココーティングされたチョコチップマフィンの前で、二人で笑った。


二海ふたみ、本当に笑うようになったな。うれしい」


 春日かすがは俺の腕を掴むと、自分の部屋に引っ張っていった。

 以前の一件以来、春日かすがは積極的になった気がする。キスもフレンチからディープへ、一緒に寝る時も自分が上になることもある。


 二人でベッドに寝転がると、春日かすがは俺の上に乗り、じっと見つめた。後ろで束ねていた髪が落ちてきて、俺の頬を撫でる。


二海ふたみ、言いにくいんだが、実は……」

「どんなことですか?」

「二月十四日の夜のことだ」

「それ以上は言わなくても大丈夫です。俺、姉ちゃんいますから」


 春日かすがの周期だと、ちょうど始まる頃だ。別に俺が変態という訳では無く、姉ちゃんがいること、そして一緒に暮らしていればわかることだ。

 家族旅行の時、生理用品を買いに行かされたことだってある。


 俺は春日かすがを抱きしめた。


 しばらくして春日かすがは風呂の準備、俺はキッチンに戻って片付けを始めた。やっぱり少し焦げくさい気がする。何でだろう?



  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



 翌日の朝食後、早速、チョコチップマフィンを食べてみた。


二海ふたみ、これ、チョコが底の方に沈んでしまっているぞ」

「あ、ホントですね。それで焦げちゃったのかも」

「でも、味は良いな」

「はい」


 二人でチョコチップマフィンを六カップ食べ終わると、反省会をした。大丈夫、材料はまだたくさんあるし、足りなくなったら買ってくればいい。


「俺、アイデアがあります」

「なんだ?」

「生地に混ぜるチョコと、上に乗せるチョコの大きさを変えます」

「なるほど、そうすれば生地の中にあるチョコは沈まず、チョコチップ感も出ると」

「はい」

「じゃあ、また夕方、作ってみよう。それで、今日はどうする?」

「駅地下でプリなんとかするのはどうですか?」


 春日かすがの動きが止まった。いや、凍結したと言ってもいいような止まり方だった。


「うん」


 ラフに髪の毛を後ろに束ねた美少女が視線を斜め下に落とし、頬を赤らめている。見ている俺まで恥ずかしくなってきた。

 しかし、ここは我慢だ。ちゃんと出かけなくては。


 行先は、リベンジということで、駅地下に決定し、俺たちはバスに乗って駅まで行った。地下に降りると、香ばしい食欲をそそる匂いがする。


 プリなんとかがたくさん並んでいるコーナーがあり、女子高生らしき集団がシールを見て話をしていた。そして、こっちを見た。


 恐らく、春日かすがを見ているんだろう。春日かすがは背が高いし、モデル体型だし、何しろ美人だし。


 俺たちは入り口と思われる場所で順番待ちをした。


 すると、中から中学生ぐらいの女の子が三人出てきた。長い黒髪の美少女は、左足を少し引きずっているようだ。怪我でもしているのかな。


「終わりました。どうぞ!」


 美少女は俺の顔をじっと見た。やっぱり美少女だ。胸は春日かすがぐらいある気がする。


「あ、ありがとう、じゃあ、春日かすが、やってみようか」

「う、うむ」


 美少女は、いたずらっぽい笑顔で笑った。


「もしかして、お姉さんたち、初めてですか?」


 い、痛いところを突かれた。


「すごく緊張オーラが出ています」


「その通り、初めてなんだ」

「じゃあ、特別に教えます。あ、二人ともルターバックス、先に行ってて」

「ほい、じゃあ、あとでね」


 二人が立ち去るのを待たず、美少女は俺たちを幕の中に招き入れた。


 そして、結局、操作方法、ポーズ、盛り具合の調整まで全部やってもらい、最後は三人で一緒に撮影した。


「お礼に何か――」

「ハグがいいです!」


 俺が言い終わる前に、美少女は俺に抱きついた。ハグする方じゃなくてされる方とは……なんとなく頭を撫でた。

 春日かすがを見ると……明らかに……さっきの言葉を借りるならば「怒りのオーラ」が出ている。


 その後、一緒にバスでマンションに帰り、こたつに入った。


二海ふたみ、いつもああなのか?」

「いえ、あんな風に抱きつかれたのは初めてで」


 春日かすがは立ち上がり、俺の横にしゃがむと、頭を差し出した。


 そこか、女心はやっぱりわからない。春日かすがを抱き寄せると、頭を撫でてみた。


「気持ちいい。昔は、兄によく撫でられた。懐かしい気持ちだ」

「いくらでも撫でますよ」


――ピコピコ、ピコピコ


二海ふたみ、スマホ鳴っているぞ」

「あ、はい」

「取りなよ」

「いいんですか?」

二海ふたみのスマホは滅多に鳴らない。きっと重要な用件だ」

「わかりました」


 誰からかな……千逅ちあからだ。どうしたんだろう?




   ----------------




あとがき

数ある小説の中から読んで頂き、ありがとうございます。


本エピソードで夢中になって「カシャカシャ」やっている粉ふるいは、「シフター」というそうです。


レバーを引くと、器の底で羽が回転するようになっており、実に興味深い構造になっています。そんな気持ちを、素直に書いてみました。



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それではまた!

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