ジョンクレイン、最後の上昇

@SBTmoya

第1話 規格外の野望





その男は、『あろうことか』ANA航空 NH212便成田空港行き そのエコノミークラスに搭乗していた。







 機内の空気は、新たに旅立ったばかりの静かな高揚感と、乗客たちの期待や安堵が混ざり合った独特の雰囲気に包まれていた。

ロンドン・ヒースロー空港を離陸してからまだ20分も経っていない。ジェットエンジンの低い唸りが機体全体に振動を伝え、窓の外には雲海が広がり始めている。

キャビンの照明は穏やかな青白い光で、乗客たちを落ち着かせるように調整されていた。


 エコノミークラスの方では、まだ多くの人々がシートポケットから取り出した安全案内カードや雑誌を手に、軽く興奮した表情を浮かべていた。

通路ではCA(客室乗務員)たちが忙しなく動き回っている。彼らの動きは流れるように滑らかで、ほぼ無音だった。

出発直後の定例の作業として、配布されたメニューカードに基づいて食事の選択を確認している。


「チキンとビーフ、どちらにいたしますか?」


 という声があちらこちらで聞こえる。

国際線ならではの様々な国の言葉が飛び交い、その場にいるすべての乗客に対応するプロフェッショナルな空気を感じさせる。

機内は徐々に安定した巡航高度へと移行し、シートベルト着用サインが消えた。

これを合図に、乗客の中には上着を脱ぎ始めたり、リラックスした姿勢を取る人もいた。中央ギャレーでは、CAが飲み物のサービス準備を進めている。

冷蔵ケースから取り出されたジュースや炭酸飲料が並べられ、その上に乗ったカトラリーの整然とした配置が目を引く。

空間そのものは落ち着いているものの、耳には低いエンジン音が常に響いており、完全な静寂ではない。窓側の席では、一部の乗客がすでに窓の外にカメラを向け、広がる雲海や地平線を撮影している。

その光景は時間帯によって異なるが、この瞬間はまだ薄明るいロンドンの空が尾を引いているようだった。


 エアコンの効いた空気は少し乾燥しており、独特の清潔感ある匂いが漂っている。この匂いは、飛行機の内部でしか感じられないものだ。

すでに何度も飛行機に乗ったことがある人にとっては、これこそが旅の始まりを告げる合図のようなものだった。


 この便で働くCAの一人、小笠原 舞は、31DからG席に座っている乗客が気になって仕方がなかった。

それはエコノミークラスの最前列である。特に31Eの乗客は、杖をついていて高齢の男性だが、

先程から黒いサングラスの奥の瞳に見つめられている気がしてならなかった。


 上質な、それも選りすぐりの羊から今さっき刈り取ったかのようなウール素材のスリーピースのオーダースーツ。

その胸ポケットからは、機内のLEDがハレーションを起こすほどの白さを持つハンカチーフが顔を覗かせている。

エドワードグリーン製の茶色い革靴は、汚れという概念を未だ知らないのではないかという無垢な光沢を放ち、それでいてこの主人を何十年と支えてきた貫禄さえ持ち併せていた。

さらに目を引くのが、シワだらけの細い指に付けられたシルバーの指輪だ。

舞はその指輪に刻まれた紋章を、どこかでみた記憶が確かにあるのだが、それがいつ、どこで見たものなのかを思い出せないでいた。

 


 老人を挟むように座っている男たちも、身なりも恰幅も良い。そして比較的若い。が、白人、黒人、アジア人と人種に統一感がなく、

それがまたこの老人が只者ではない印象を植えてつけている。

体格は3人ともスーツ越しにもわかる、一才の無駄な筋肉を排除したまさにプロフェッショナルの『主の剣、主の盾』を体現した体格をしており、

足を組まずに腕を組み、やはりサングラス奥の瞳が近づくものを威嚇していた。



 老人は、舞を見て、微笑んでいるようにも、軽蔑しているようにも見えた。どのみち、サングラスの向こうの瞳は舞をどこか『品定め』しているかのような印象があった。


 『事』は、NH212便がイギリス上空を通過し、北海に差し掛かったあたりで起きた。


「君、君」

 老人の左隣に座っている白人男性が、舞に声をかけた。


「何かお手伝い致しますか?」


 舞が老人に話しかけると、白人男性は、


「先に断っておくが、私の言葉は、ジョン様からの言葉だと思っていただきたい」


 白人男性は、元々そういう喋り方なのか、丹田から搾り出したかのような威圧的な声で舞に話しかけている。


「はい……ジョン様?」


「ジョン様から君に希望がある」


「希望ですか?」


「つまりはこの希望を叶えることが、世界のため。……当然、君のためにも幾分かはプラスになるものと思われる。

 つまりは君にとってチャンスでもあると受け取ってもらってもいい」


「はあ……」

 

 舞が相槌を打つと……


「ア……アァ……」


 老人は、舞をじっと見た後、左隣の男性に再び耳打ちをした。舞には一言も聞き取れなかったが、

白人男性は、老人の言葉を一言一句聞き終えると、通訳のように舞に向かってチャンスどころか無理難題を押し付けてきた。






「ジョン様は、ここでタバコを吸うことを希望されている」






「それは……無理ですね。機内は完全に禁煙ですので」


 このエコノミークラスの乗客の中で誰よりも紳士的で、誰よりもまともそうに見えた一行が、実はやばい客だったとわかった瞬間であった。

白人男性は舞を一瞥した後、老人に、どこのものか判別のつかない言葉で喋り終えると、

老人の表情が変わった。

まるで、そんなことを言われるのは先刻承知だと言わんばかりに、ニヤリと笑って見せたのだ。

舞にはそれが恐ろしく見えた。


 そして再び老人は、「ア……」と左隣の男性に耳打ちをし、通訳である白人男性は、


「幾らなら首を縦に振る?」


 ……と聞いてきた。

 

「あ、いいえ……そういう問題ではなくてですね、機内は完全に禁煙でして他のお客様のご迷惑になりますので……」


 舞が喋るたびに左隣の白人は老人に同時通訳をしているように見えた。

舞が言葉を言い終わると、老人は嬉しそうに「アー」と笑って見せた。

舞には事態がまるで飲み込めない。


 そして老人はまた、隣の白人男性に耳打ちをした。

「それでは、ここの観客全員に報酬を払おう。おそらくそれは相応以上のものである自信がある。君は見たところニッポン人のようだがあってるだろうか」


「はい……」


「(耳打ち)ア……ア……」

「君たちの言葉に、『諭吉(現渋沢)以下はただのお金。しかし諭吉は金にあらず、真心と正義なり』という言葉があるはずだ」


 初めて聞く言葉だ。しかしこの老人が口にしたなら本当にある言葉なのではないかという謎の説得力があった。


「ア……」


 今度は老人は、右隣のアジア人に耳打ちをすると、アジア人は、足元のトランクケースを取り出し、舞の目の前で開けて見せた。

ケースの中は……山のようなポンドで敷き詰められていた。

左の白人が答える。


「それらはすべて君のためのマネーだ。君が希望を聞き入れてくれたら、『諭吉』は君のハズバンドだ」


 老人は、シワだらけの顔から、真っ白な歯をニカっと出して笑っている。

……すると、白人は、やや舞に近寄り、舞のほぼ耳元で囁いた。


「……彼はジョン・クレイン。 ……君たちの言葉で言うところの秘密結社、『リミナル・シンジケート』の代表だ。

 名前は聞いたことあるだろう」


 リミナル・シンジケート。その言葉を聞いた瞬間、舞の表情に険しさが現れた。そしてますます事態が飲み込めなくなった。舞の想像が正しいなら、リミナルシンジケートなる団体は、

数千年前から裏世界を牛耳っている、半ば都市伝説的な存在だったからである。

そう言う俗世の都市伝説には疎い舞でも、やれ『世界の株価の調整はリミナルシンジケートが取り仕切っている』

『ジョブスもイーロンも、米国大統領も、国家主席も、メンバーの一員である』

『コカコーラのその日の成分』の決定権も、

『マックのグラコロバーガーが今年は何日に販売されるか』に口を出せる立場でもあり、

『ピコ太郎、カンナムスタイル がブレイクした理由は、リミナルシンジケートの力が働いている』とも。

日本では、『坂本龍馬を暗殺したのも、教科書から消したのも、リミナル・シンジケートの手のものである』


などという噂も耳にしたことがある。


「君の言いたいことはわかる。なぜエコノミークラスに彼が座っているかだな。……これは彼の希望だ。

 彼は、事情があり余命が幾許とない。我々は、彼の残り少ない命で、彼のやりたいことを叶えるというミッションを請け負っている。

 彼の最後の希望、それが……」


 舞は正直耳を塞ぎたかった。この後の言葉を聞きたくなかったのだ。




「旅客機のエコノミークラスで、タバコを吸うことだ」




 しかし舞の希望は天に聞き入れられず、聞きたくなかった事実が告げられてしまった。


「これはただの喫煙ではない。ジョン様にとって、これは遺言だと言ってもいい。」



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