緑のデンティスト

浅野エミイ

緑のデンティスト

 歯科医になって、ここの「みどり歯科」に勤務し始め早11か月。1年近くになるのに、仕事にはいまだ慣れない。

 今は大先生と一緒に、研修のような形で訪問診察に向かう。分刻みのスケジュールに、歯科衛生士さんもバタバタしている。

僕はもっと忙しいのだが、最近多忙すぎて食事を抜きがちだ。食べられても医院の前にあるスーパーで買ったサンドイッチを片手にカルテを読んでいる。3分後には患者さんが来るから、もうサンドイッチも『食べている』というより『倒れないための栄養補給』と言ったところだ。

 訪問診察ももちろんだが、一般の診療もしているので、本当に1日が終わるころにはクタクタ。どうやって家に帰ったかすら覚えていない状態。なんとか布団に着くと、泥のように眠って気づけば朝。

 まともに食事をしたのって、最後はいつだっけなぁ……。本当に片手で食べられるサンドイッチか、ゼリー飲料しか食べていないのだ。これじゃあ患者さんの治療の前に、自分がバテてしまいそうだ。さすがにそれはいけないと思い、休日には少しはまともなモノを食べようと考えるが、買い出しに行くのも億劫だ。料理? 無理。この疲れた体で料理なんてできない。

 そして今日も大先生とともに往診へ行く。車を運転していると、大先生が換気のために少し窓を開ける。後ろにいる歯科衛生士さんが身震いするのを、バックミラー越しに確認する。

「今日は特に寒いな。雪でも降りそうだ」

「そうですね」

「おでんを食べながら熱燗をキューッといきたいところだよ」

「はは」

 もちろんそんな余裕なんて、僕にはない。みどり歯科の抱えている患者は、往診している寝たきりの患者さんやご年配の方以外にも、子どもたちもいる。何度も言っているように、分刻みのスケジュール。このハードワークをこなすには、酒なんて飲む余裕は今のところない。休日明けの仕事に差し支える。

 車を走らせて数十分。僕らは寝たきりの伊藤さんが住む家に着いた。

「いつもすみません」

伊藤さんの娘さんが、僕らを出迎えてくれる。さっそく部屋へお邪魔すると、伊藤さんが待っていた。

「伊藤さん、どうですか? 歯は痛くないですか?」

「あぁ……痛ぇよ!」

「ズキズキ痛い? それとも染みる?」

「ズキズキだね」

「じゃ、ちょっとお口診ますよー」

 僕が診察するのを、大先生がチェックしている。もうあと2か月。2か月経ったら、僕と歯科衛生士さんだけで往診をする予定なので、最後のOJTだ。

 歯は、入れ歯がズレて金属が歯肉に食い込んでいた。これは痛い。入れ歯を取り、歯肉を消毒して処置する。他は……特に異常ないかな。歯垢が少し溜まっているから、歯科衛生士さんにお願いする。これで今日のところは大丈夫だろう。大先生も何も言わない。

「伊藤さん、終わりましたよ」

「ありがとさん。今日は寒いな!」

「え?」

「布団にもぐってても寒い! 裕子! あれ、先生たちに持ってこい!」

「もう、お父さんったら……」

 娘さんは一度部屋から出ると、3つ、緑のたぬきを持ってきた。

「これ、カップ麺ですけど……」

「はぁ」

「お父さん、ここの会社の株主やっていて、定期的に買ってるんですよ。たくさんあるので持って行ってください。今日は寒いですし……」

「ははっ、ありがとうございます」

 緑のたぬきかぁ。まさか往診先でもらうなんて。でも、ゆっくりと食べる時間は……。

「今日の昼食は、緑のたぬきだな。おでんは無理でも、あったかいものを食べる時間くらいは取らないと」

 大先生が笑う。今日はサンドイッチじゃなくて、緑のたぬきか。寒い日に、温かい汁物を食べられるのはありがたい。でも、そんな時間は……。

 伊藤さんの家を出ると、大先生は言った。

「君はもう少し心の余裕を持った方がいい。確かにこの仕事は忙しいが、3分とちょっとくらいゆっくりすることも必要だよ」

「……そうですね」

 忙しい、忙しいと、僕は自分を急かしすぎていたのかもしれない。いくら分刻みのスケジュールでも、昼ごはんを食べる時間は疎かにしてはいけないな。医者は体が資本なんだし。

 緑のたぬき。待っている3分間は、心に余裕を持たせるための時間なのかもしれないな。

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緑のデンティスト 浅野エミイ @e31_asano

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