異鮮玄師

イカフライ黄金色

第1話『凶兆』

かつて玉座のあった所は、巨大な裂け目に呑みこまれていた。空間を切り裂いたような穴は、覗きこめば黒々とした闇が広がる。よく目をこらせば、闇の中に玉座や、裂け目の中に崩れ落ちた床や、護衛の兵士まで浮かんでいるのが見える。


「――ご無事ですか、陛下!」


肩ごしに聞こえた兵士の声で、玉曜帝はやっと我に返った。玉座が呑まれた瞬間、彼に腕を引かれたようだ。帝はこわごわと目を落とす。投げ出された自分の足から、わずか一寸ほどの距離に、裂け目がある。帝は深く息を吐いて、皮一枚でつながった幸運に感謝した。


「この天青国を治めて五十年……かように巨大な”虚”が、宮殿にまで出るとは……」


帝は呆然と呟いた。御殿のあちこちから、ざわめきに雑じって悲鳴が聞こえた。ある女官は膝をつき、友の名を呼んでいる。ある兵士はすっかり腰が抜けて、槍で何もない空中を突いている。混乱と恐怖が、空気に広がって行く――「陛下」


底をずるりと這うような声音に、横を向く。司礼監の楚文礼が膝をつき、袖を合わせていた。自宮した人間によくある、年に合わない弾力のある肌。かん高い声がなぜか耳にさわって、玉曜帝は眉をひそめた。


「この巨大な虚……やはり"囚影塔"のあれではありませんか?」

幸運なことに、楚司礼監の言葉は正に皇帝の望み通りだった。楚司礼監は合わせた袖の中でしきりに手をもみしだきながら続けた。

「あの凶兆が産まれてからというもの、虚の出現が止まりませぬ。囚影塔には”大災”も封じられておることですし……」

「ううむ……しかし、囚影塔におるのは……」

「陛下!お心が痛むのは分かります。されど、天青国のためにご決断なさりませ!あの凶兆がどれほどの怪異を引きよせてきたか……!」

楚司礼監に押されて、皇帝はとうとう頷いた。


「……兵部に命じて、あの凶兆を処刑させよ」

ついに不可逆の命令を出した皇帝の顔には、深い悲しみが宿っていた。



派手な服を着た芸人が井戸のふたに座って、自鳴琴の取っ手を回す。からからと鉄紙が吐き出されながら、音楽が鳴った。灰色の空が、ごろごろと鳴る。雨の気配に、子供たちはたまに不安げな表情で空をあおいだが、人形師が飴を配ると、けろりと忘れてしまった。


「さあ子供たち、今日は恐ーいお話だ」

人形師は指輪からつながった糸を、ぴんと引っぱる。自鳴琴の音に合わせて、道士の人形が剣をふった。


「かつてこの世に大なる災ひ降り来たりき。世の半ば『虚』といふ裂け目に呑まれ、虚より現れし化物ども、人々を脅かし惑はしたり」

人形師が語りだすと、子供たちの目は人形に釘付けになった。

「かの大災を招きし男あり、その名をば夏陽令といふ。人々、これを異鮮玄師と呼びて恐れ畏れたり……」



囚影塔――。それは旧都の跡地に作られた、罪を犯した皇族を幽閉するための塔だ。城壁で守られた王都の門を出て、五公里ほどで見える。苔むした廃墟が沈んだ沼の中にあり、高さはおよそ六十尺。全ての窓には鉄格子が嵌まり、強い結界と沼に守られて、外には絶対に『災厄』が出ないようになっている……。


「あそこに”凶兆”がいるのか」

船を漕ぐ兵士は、ぶるりと背中をふるわせる。灰色の空と、鳥の声すらしない、死の気配に満ちた沼があいまって、なんとも禍々しい。塔の頂上には燈と旗が付いているが、霞んで見えない。ここが天青国、ただ一人の皇女が住まう所とは、にわかに信じがたかった。

「陛下からは、凶兆を殺せとのご命令だ。……頂にいる”大災”には手を出すな、とさ」

もう一人の兵士は座って、刀を磨きながら言った。

「そうか。だから俺たち二人だけなんだな」

漕ぎ手の兵士はやっと理解したようだ。

「ああ、子供を殺すなんて、胸くそ悪い任務だが。さっさと終わらせよう」


塔の階段は、沼から半分だけ出ている。二人はそこに船をつけて、階段に足をかけた。



同時刻。塔のらせん階段を駆け上る影があった。まだ幼い皇女と、その手を引いて走る赤毛の女官。女官は時々ちらりとふり返って、主が苦しげな呼吸をしながら必死についてくることに、痛ましげに眉をよせた。

「大丈夫ですか、麗花様」

「うん、笙鈴」

麗花はうなずき、安心させようと微笑んだ。つながれた冷たい手から、笙鈴の緊張が伝わる。三つ編みの赤髪がせわしなく揺れるのも、ひび割れた石壁に反響する靴音も、麗花の不安をじわじわとかきたてる。


(この塔に逃げる所なんかない……笙鈴、何を考えているの?)

赤子のころから一緒に暮らす女官の気持ちが分からないのは、初めてだった。走るたびに、ぱさりと落ちる白髪が視界をふさぐ。この白髪が、麗花をこの冷たい塔に閉じこめ……今、殺そうとしている。麗花は髪を耳にかけて、脚を動かすのに集中した。

「ああ、またっ……忌々しい扉だ!」

笙鈴は扉に阻まれるたび、腰帯から下げた鍵を穴に差しこむ。錆び付いてなかなか開かないのを、もどかしそうに叩いた。


最上階まで駆け上がり、回廊に出る。麗花は鳳凰の装飾がほどこされた柱の向こうに広がる、灰色の空に目を向けた。雲にぴしっと電光が走り、回廊を白く照らし出す。遅れて、恐ろしい雷鳴が轟く。回廊を抜けてまた建物の中に入ると、麗花は心からほっとした。


「っ、ここはなに?」

麗花は走りながら聞いた。まっ白な壁には一つも扉がない。ひたすらに長い廊下の終点に、石造りの小さな門がぽつんとあった。赤い扉には、封印札がぺたりと貼られていた。


「ど、どうしよう。笙鈴……」

麗花は泣きそうな顔になった。すぐ後ろから、兵士たちの足音、鎧の金具がぶつかり合う音が近付いてくる。笙鈴は唇を結んで、しばらく考えて。覚悟を決めた。足を止めて、息を切らす麗花と向かい合う。


「麗花様。ここは私にお任せ下さい。これでも武門の出。足止めくらいはできます」

「で、でもっ……」

「向こうに門扉が見えますね。あれは見かけより軽いので、あなたでも開けられます。あそこを抜ければ、封印の間に出ます」

「封印の間……?それって、まさか」

「そう。大災が封じられている、忌み間です。兵士ども、さすがに呪われたくはないでしょう。ご安心ください。すぐに迎えに参ります」

笙鈴は微笑みを浮かべて、麗花の顔の部品を一つずつ、確かめるようになぞる。

「忘れないで下さい。笙鈴は、あなたを心から愛しております」

笙鈴は最後にぎゅっと抱きしめて、優しく囁いた。


「――行ってください!」

強く突き飛ばされ、麗花の足はよろめいた。同時に回廊とへだてる扉が蹴破られ、兵士たちが入ってくる。彼らは笙鈴が守る少女を見つけると、ためらいがちに武器を構えた。

「……っ、約束、忘れないで」

麗花は踵を返し、走り出す。笙鈴は満足げに目をふせて、袖からするりと鎖付きの暗器を出した。黒光りする柳葉飛刀を両手に構え、腰を落とす。――絶対に守る。敵を睨み付ける瞳には、強い意思が宿っていた。



「はあっ、はあっ……」

麗花は息を切らして、必死に走った。心臓が痛い。喉がひりつく。瞬きのたびにぼやけた視界が揺れて、熱いものがこぼれた。


(どうして?私、ずっと我慢したのに!)


やるせない悲しみが、麗花の頭の中をぐるぐると回った。かびくさい、沼から嫌な匂いが上がってくる寒い塔に暮らしていた。何の罪が自分にあるというのか。友達は女官とねずみだけ。もし皇太子だった父が生きていたら……麗花は頭をふって、何回も考えた『もし』をふり切った。産まれたその日に、囚影塔に閉じこめられた。金麗花は一回も、祖父である皇帝に不満を伝えたことすらない。――その終点がこれか!彼女の中で、怒りがふつふつとわき起こる。まずはあの兵士どもから逃れて、隠しておいた船の所へ行く。


(死んでたまるか。こんな所で……絶対に、生き残る!)

麗花は門扉に辿り着くと、迷わず封印札を剥がした。全身の力をこめて、門扉を押す。

「わっ……本当に軽い。……いたっ!?」

あまりに軽すぎて、足がつんのめる。顔から転んで、麗花は「うぅ……」と痛みに唸った。起き上がり、目を暗闇に慣らそうと、ぱちぱちと瞬かせる。そこはまるで洞窟だった。岩を切り出して造られた巨大な空間は、塔の中とは思えない。大きな階段があり、薄闇の中にぼんやりとその果てをかすませていた。

「……っ!」

麗花ははっと我に返り、門扉を閉めた。錠がないのは恐いが、笙鈴の言う通り、兵士たちが呪いを恐れることを願おう。


「ここに“大災”が……?」

ためらわれるが、ほかに行く所はない。階段を上り切ると、ぽっかりとした円形の広場に出た。かつては反逆者たちの首を落としたそこは、いまは大災を封じる場所だ。

「……っ」

麗花はこわごわと『大災』に目を向けた。天井と壁からのびる鎖で吊るされたかたまりは、無数の呪符に覆われ、その下にある体は見えない。薄闇の中に浮かびあがったそれは、さながら虫の蛹のようだった。麗花はごくり、と唾を呑んで。一歩ずつ、かたまりに近付く。


「これが大災……異鮮玄師、夏陽令」


すぐ触れそうな距離に、世界を混沌に落とした災厄がいるのは、不思議な気分だ。麗花の手が、鎖をかすめる。

「いっ……!」

指先にぴりっ、と鋭い痛みが走った。鎖は危険性を知らせるように、ほのかに赤く発光する。麗花はこわごわと手を離し、かたまりを見つめる。ぎっちりと重ねられた護符は黒ずんで、梵字の墨もにじんでいる。かたまりが微かに揺れるたび、重い鎖はぶつかり合い、ぞっとするような音をあたりに響かせた。

「笙鈴……」

麗花の足元から、じわじわと不安が上ってくる。遅い……。笙鈴は天壇を守る隊卒の娘だ。兵士くらいなら倒せる……はず。

「お願い、母上……笙鈴を守って」

麗花は指を組んで、亡き母に祈った。



「ハァッ、ハァッ……くそ、手こずらせやがって」

兵士は刀を床に突き立て、膝をつく。肩で息をしながら、やっと動かなくなった女官に目を向ける。血の海に横たわる彼女は、まだ小刀をしっかりと握りしめていた。

「だいぶ時間を食ったな……おい」

壁にもたれた仲間に声をかける。返事がない。肩をつかんで揺すると、頭はがくんと落ちた。

「……っ!」

喉仏に触れて、脈がないのに息をのむ。兵士はしかたなく、ぼろぼろに刃こぼれした刀の代わりに、彼の大刀を取った。

「行くか……」

嫌な役目を一人でやらなくてはいけない不運に、ため息を吐いた。踏みだした靴底から、びちゃりと血が跳ね上がる。兵士はこわごわと靴を離し、もう動かない体を跨ぐ。その時、光をなくした笙鈴の目からひとすじの涙がこぼれた。誰にも見られることはなく。



ばたん、と門扉が蹴破られた。

(笙鈴……!)

麗花ははっと気が付いてふり返る。兵士は彼女を見つけると、辛そうに眉をよせた。

「どうか安らかに、天におのぼり下さい」

兵士はそう言って、大刀の切っ先を麗花に向ける。

「いやっ……!」

麗花はまだ逃げようと後ずさる。その拍子に、袖が後ろのかたまりに触れる。指先がたわんだ紙をかすめた、瞬間。かたまりはどくんっ、と大きく脈打った。


「うっ……!」

強い光が、ぱあっとかたまりの中から放たれた。兵士は思わず目をつぶる。眩しさによろめいた麗花の手が、とっさにかたまりをつかんだ。まだ濃かった呪符の文字がすうっと消えて、ひらり、ひらりと剥がれていく。

「あれは……まさか」

瞬きの向こうに見える影に、兵士は目を疑った。絵でしか知らないが、あの石黄色の羽織。片目の隠れた黒髪。腰帯から下げた刀剣――聞いた通りの姿だ。無数の呪符が舞う中で、彼はゆっくりと目を開ける。その手は麗花の肩をしっかりと、守るように抱きよせていた。


「異鮮玄師……!!」

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