僕は転び方を知っている

浅野エミイ

僕は転び方を知っている

 大学受験の合格発表。

 スマホで何度もネットにアクセスしてみるが、何度見ても結果は変わらない。

 ——不合格。発表を受けて、パートから帰って来た母に結果を報告しなくてはならない。気が重い。

シングルマザーとして女手ひとつでここまで育ててくれた母。僕はそんな母の唯一の自慢だった。僕のとりえと言ったら、頭がいいことくらいで。でもその学力は、いい進学塾や予備校に行っているやつらとだんだんトントンになっていった。だからと言って、そいつらに負けるわけにはいかない。独学でも国立、日本最高学府に受かってやる。それが僕の人生最大の目標だったのに。


「ただいまー」


 今日が合否発表の日だということは、母も当然知っている。連絡しなかったことで、きっともう結果も察しているだろう。僕は小声で「お帰り」とつぶやくと、大きく息を吸った。


「……落ちた」

「ああ、そう。仕方ないじゃない」


 母は笑った。その笑顔に、僕の張り詰めた糸はプチンと切れた。


「なんで仕方ないなんて言えるんだよ! 僕の3年間、すべて無駄だったってことじゃん! なんで母さんは笑ってるんだよ! 息子が落ちたんだぞ! もう息子が頭いいなんて自慢できないんだぞ? 僕は……バカだったんだ……」


「私、あなたが頭いいなんて自慢したこと、一度もなかったけど?」

「はぁっ!?」


 母の慰めているのかけなしているのかわからない言葉に、またプツンとキレる。


「なんで母さんはそんなに他人事なんだよ! 受験に落ちたんだぞ!!」

「とりあえず、お昼ご飯食べたの? もう夕方だけど」

「……食べてない」

「ちょっと待ってなさい」


 母は急いでシンクの下から、買い置きしていた緑のたぬきを取り出す。緑のたぬき……今は見たくなかった。受験勉強中、夜食にしていたものだから。


 母は粉末スープを入れるとお湯を注ぎ、僕の前に置いた。


「とりあえず、これ食べなさい。あなた、お腹空いてるから気が動転してるのよ」

「緑のたぬきなんて、今更食いたくない!」

「まぁまぁ。3分間、お母さんと話してたら食べたくなるかもしれないし」

「……」


 気が変わることなんてない。あり得ない。僕の家は稼ぎ手が母だけだ。うちの高校はバイト禁止だったから。もちろん、経済的余裕なんてないから、浪人することは無理だ。もう一一度、受験することは実質不可能なのだ。


「お母さんね、あなたが受験に落ちても全然気にしてないの」

「だからなんでっ!」

「だって、あなたは本当に頭がいい子だから」

「頭がよかったら、大学に受かってるだろ!」

「ふふっ、まだまだ子どもね」


 母はまた笑った。なんで息子が受験に落ちたのに、微笑みを絶やさないんだ。目を細めながら、緑のたぬきのフタを見つめる。


「挫折経験がある人のほうが、人生強いのよ? それに、お勉強だけができるんじゃなくて、本当に頭がよかったら、この先のことだってきちんと考えられる。自暴自棄にならず、ちゃんと道を見いだせる……受験に落ちたくらい何よ。中卒、高卒で出世した人が何人いると思う?」

「それは……知ってるけどさ」

「受験失敗なんて、長い人生からしたら大したことないの。それより、あなたが早くに『転び方』を知れたことのほうが母さん嬉しいわ」


 ……ちょうど3分経っただろうか。おつゆの香りがじんわりとした。途端、腹が急激に空くのがわかる。


「……やっぱり食べる」

「うん。食べて、少し冷静になりなさい。あなたがすることは、今の状況を嘆くのではなく、未来を見据えて行動することよ」


 そう言って、母はキッチンに立つ。夕食の準備をしてくれるのだ。こんな当たり散らした僕のために。


 フタを開けると、先ほどじんわり漂った香りが深くなる。そばを口に入れると、鰹だしの味。

 受験前は何度も食べた。絶対合格してやると思いながら。でも、母の言う通りなのかもしれない。ギャーギャーと落ちたことを嘆くのは、とてもダサい。これも残酷だけれど、ひとつの結果。母の言う通り、僕にとって必要なのは、これから先の未来を考えることだ。


 緑のたぬきを食べ終えると、腹がふくれたせいか、体が温まったせいか、気持ちが穏やかになる。空腹だったから、頭に血が上っていたのだろうか。それと、緑のたぬきを食べる前の母の言葉。母は僕の結果を残念がるより先に、「前を見ろ」と叱咤してくれた。

 僕は少し思い上がっていたのかもしれない。日本最高学府に受験し、合格できるかもしれない……それは失敗だったけど、このまま受験に成功していたら、もしかしたら学歴の低い人たちを見下すような、そんなダメ人間になっていたのかも。だとしたら、僕は受験に失敗してよかった。その、長距離的な人生スパンで見たら。


 僕はその後、しばらく自分自身で考え、私立の通信制大学へ願書を提出した。通信制大学だから、レポートを出さなくてはいけないが、普段は家計を支えるために派遣社員として働いている。これは正解だったと思う。派遣の仕事は色々な人と出会えるし、通信制大学のスクーリングも、様々な年代の人と知り合え、僕の見識を広めてくれる。今は今で僕の人生は充実していると僕は自負している。

 

 大学には落ちた。

 でも、僕は人生の転び方を知った。あのときの母さんの言葉。『あなたは本当に頭がいい子だから』。僕は一生忘れないだろう。

 僕は、これからも母さん自慢の賢い息子であり続けたい。学歴だけ伸ばすのではなく、本当に賢い選択ができるように。余計なことで目を曇らすことのないように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕は転び方を知っている 浅野エミイ @e31_asano

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る