ワーキングマザーの仁義なき戦い👊✨

風雅ありす@『宝石獣』カクコン参加中💎

第1話 年子男児を抱えての職場復帰は地獄である。

 ある年の秋。私は、元気な男の子を産んだ。


 一日半、陣痛に耐えたが子宮口が3cmよりも開かず、急遽帝王切開となった。


 はじめて経験する陣痛は、背中に板があるようで、その上を大型トラックに踏みつけられるような痛みだった。帝王切開は、脊髄にチューブを入れて麻酔をする。これも激痛が走ったが、陣痛の痛みから逃れられると思えば耐えられた。


 4248g。


 そりゃ、産まれるはずがない。でかすぎである。


 仮にも女が腹部に傷を作ったのだ。かわいいビキニパンツが履けなくなってしまったのは悲しかった。


 でも、新選組の原田左之助が大好きだった私は、彼の名言から拝借し「のお腹は金物の味を知って」と言えることが密かに嬉しくもあった。


 翌年の秋。再び私は、元気な男の子を産んだ。年子としごである。


 初産が帝王切開だったため、今回も帝王切開だった。一度経験しているので怖くはなかったものの、二度目の方が術後の痛みがひどかった。執刀してくれた医師が下手くそだったのだ。(その産婦人科は今はもうない。)


 予定日よりも早く産んだにも関わらず、産まれた時の体重は、3600gを超えていた。手術台の上で腹を縫われながら「え? 3600? 3600って言った? でかくない?!」と一人ツッコみを入れた。エコーでは「3000gいかないでしょう」と言われていたのだ。おかしいではないか。


 遺伝である。


 こうして二児の母となった私は、ちょうど二年の育児休暇を続けて取得し、慣れない育児に翻弄されながらも日々を耐えていた。


 私の実家は広島にある。両親も広島だ。

 初産の時は里帰り出産をしたが、二人目の時は大丈夫だろうと高をくくって、帰省しなかった。まさか年子育児がこんなに大変だとは思いもしなかったのだ。


 ちょうど夫が仕事で多忙な日々が続き、一週間から二週間……と、家に帰ってこない状況が続いた。

(※ちなみに不倫ではない。会社で寝泊まりしている夫に、着替えを持って行ったのでw)


 想像できるだろうか。言葉の通じない赤子二人と家で一人。孤独しかない。


 毎日同じルーチンを繰り返すことは得意であったが、一歳の長男とゼロ歳の次男は、同じタイミングで寝てはくれない。どちらか一方が寝ている時は、どちらか一方が起きている。私は、確実に寝不足であった。


 睡眠は、人の三大欲求の一つである。これが不足すると、人は精神を病む。


 産後二か月が経ち、このままではノイローゼになる(というかかけていた)と思った私は、急遽実家のある広島へ帰省することを決めた。


「実家に帰らせて頂きます!」


 玄関先で、私と息子二人を見送る夫の悲しそうな目を……私は今でも覚えている。


 普段決して涙を見せることのない夫が泣きながら私を引き止めるのだ。夫も仕事が辛かったのだと思う。支えてあげられなかったことは申し訳ないと思うが、私もそれどころではない。深夜残業が永遠と続くようなものだ。体力も精神も死ぬ。

(※そもそも夫が家に帰ってこないのだから、支えようもないのだが。)


「深夜残業がなんぼのもんじゃ。こちとら年中無休のやで!」


 私は、夫を振り切って、自分の健康を優先した。なぜなら私の健康は、赤子二人の命に関わるからだ。


 正直、あのままの生活を続けていたら、ノイローゼになった私が子供の命を奪っていたかもしれない。あれは英断であった。


 そんなこんなで……(省略)……次男が生まれて一年が経った。


 三年目の育児休暇は認められなかったため、私はその冬、職場に復帰した。


 長男が二歳、次男が一歳になっていた。


 地方に住んでいるため、保育園には困らなかった。ただ、中途半端な時期から入園を希望したため、二人同時に入園できる保育園が、自宅から駅を超えた向こう側にしかなかった。


 そのため私は、朝子供たちを連れて駅を超え保育園へ行き、その足で駅に戻って電車通勤。帰りは、保育園へ子供たちを迎えに行き、再び駅を通ってから自宅へ帰る。

 これを電動自転車に乗って往復する。


 しかも、駅から自宅までの道のりは、山並みの道が続いており、二つも急な坂を上らなくてはいけない。


 電動自転車だから楽だと思うなかれ。


 後ろに長男、前に次男、両手に保育園へ持って行く二人分の荷物(これが幼児の場合やたら多いのだ)を持ち、背中に通勤用のリュックを背負いながら上るのだ。


 電動自転車自体の重量が35kgもあるので、幼児二人と合わせて大人一人分くらいの体重になる。


 これを平日毎日こなすことは、それまでのんびり家で育児休暇を過ごしていた身としては過酷であった。特に、二度の連続出産は、確実に私の体力を奪っていた。


 そのため、風邪でもコロナでもない(当時まだコロナはない)のに、私は咳がひどく止まらなかった。要は、咳喘息である。


 呼吸器科で薬をもらってはいたものの、毎日休む暇がないのだから治るはずがない。


 母親業は、年中無休なのだ。


 特に復帰したばかりの頃は本当にひどかった。


 出社しても、子供が熱を出したと保育園から度々呼び出された。会社へ向かう通勤電車の中で電話を受け、すぐ次の駅で折り返すことも少なくない。


 特にうちは二人赤ん坊がいるようなものなので、一方が治ったと思ったら、もう一方が熱を出す……というから始末に負えない。


 一週間出勤して、二週間子供の看護で休み、一週間出勤して、また二週間休む……これの繰り返しだった。毎週何かしら病院へ通っていた気がする。


 仕事が休みと言っても、幼児二人の相手は辛い。きゃつらは熱に対する感覚がマヒしているようで、四十度の熱があるのに走り回るのだ。病院へ二人連れて行くだけでもしんどい。


 これは後でわかったことだが、たぶん二人とも多動性障害の子だったようだ。

 その頃の私は、男の子ってみんなこうなのか~めちゃくちゃ大変じゃん、と素直に受け止めていたのだ。いや、まじで苦労したけどね(現在進行形)💦


 熱があるのに動き回る。そりゃ治りません。そんなわけで、一度体調を崩すとなかなか仕事に行けなかった。


 ちなみに幼児は体温が高いので、37.5度を超えると発熱とみなされる。


 時には、お迎え電話をもらって保育園へ行ったのに、家へ帰ると平熱……ということも多々あった。詐欺である。


 でも、これは育児あるあるかもしれない。


 そんなふうに度々仕事を休む私を、職場の同僚たちがどう見ていたのか……想像に難くない。


 そして、事件は起きた。

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