枯線

海崎玲

平和の逃走

第一話

廃線に揺れる陽炎。

粗雑に顔を並べるポスター。

音量の変わらない、旧式の丸型スピーカー。

あの懐かしくて、いつも来る人を忘れる駅舎も、よくある地方の夏の顔だった。

隣町との境目が、国境になるまでは。


「いい加減にしろよ!」

分断の一日は、年子の姉との喧嘩で始まった。

「あんたが我慢すれば良いじゃん!」

「いっつも我慢してるわ!弟の肉を見てない隙に食べ盗るコソドロじゃねんだよ」

今考えれば取るに足らない、とても些細な事だった。

夜勤の母親が置いていった、食費の2000円を巡って。

「なっ!もうそれは前のことでしょ!これとは別じゃない!」

「同じだろ!食い意地張ってるから俺の好きなもの食べさんのも」

「あんたは十分好きなもん食ってんじゃん!高校生なんか食べ盛りじゃない!」

「じゃあこれだって食っていいだろ」

食い意地の張った新大学生の姉の食べたいチキン南蛮。俺は断然家系ラーメン。2000円もあるから高い店に行きたかった。年季の入った、昭和の団地の面影を残す我が家にとって、外食は紛れもない月の楽しみだった。食にうるさい母のいない月末は特に。

「もういいよーだ。私バイトのお金あるし。」

「だったら最初からそれで食えよ。」

大学生で初めてバイトしただろ、と喉元まで上がった言葉を飲み込む。

「ほんと優しくないんだから。じゃ、早く帰ってきなねっ」

耳をつんざくような音と共に、古い石製のドアが閉まる。

「おー。」

その2000円を丸めて階段を下った。チェーン切れの自転車は置いて、歩いて学校に行く。土曜日のレア日程、半日日課を迎える朝である。


一限の数学、二限の古典を終えて、次は三限の社会だった。

「みなさんすみません、今日は、あの、公共の飯島先生が休みなので代わりの人がきます。」

高校生相手、いつもやけに低姿勢の担任が言い残し立ち去る。

そして来た、「代わりの教師」は変なことを言い出して授業を始めた。

「みなさんは、国境は引かれるものではなく、引かされるものだと知っていますか?」

案の定、変な空気が一瞬で立ち込めた。代わりの教師と言いつつも、あの低姿勢で緘黙な担任が喋ったのも一因だが。

引かれるもの?

そもそも国境なんて日常で感じるわけない。島国だし、せいぜい去年いった修学旅行で、海外組が空港を超えた瞬間ぐらいじゃないか。純日本人の俺は、海外に行った記憶はない。

「やっぱり知らないですよね。すみません、あっでもね、」

さも「でもね」らしく顔をあげながら言う。

「みなさん国境の定義を調べてみてください。きっと何か見えるはずです。」

はぁ。

国境。国の境目。コッカリョウイキの限界。シュケンの及ぶ範囲を定めるもの。国の要素を物理的に区切るもの。

「『国を構成する要素を区切るもの』、こうありませんか、旬さん。」

クラスの大半が「森咲」と呼ぶ俺を、なぜか担任は下の名前で呼ぶ。

「あります。でも要素を区切るって、やっぱり引くものじゃないですか?」

「そうですね、でも能動じゃないんですよ。」

どういうことだ。担任曰くこうらしい。

国境とは、国の構成要素を区切るもの。その構成要素は、普通多数が同化していて差異が際立つことはない。でもその違和が多数になって集団に存在する時、同化意識は急激に薄くなる。だから同化状態を保つために、違和との間に中間線を設ける他の選択肢がないのだと。

「でも先生。中間線を設けずに、交わり続ければ差異が薄まるんじゃないですか?」

「そこが難しいんです。交われば交わるほど、普遍であれば普遍であるほど、その差異や違和に対する疑念は深まって行く。だからそれと同化意識が生まれても、意識に対する嫌悪が始まってしまうんです。決して外国人嫌悪を正当化する訳ではありませんよ、それは絶対に許されない事です。でも、でもね。たとえアイデンティティじゃなくても違和は感じるんです。物理的じゃなくても。」

「それって、国の中に国境があるみたいな?」

「そうd...」

キーンコーンカーンコーン。丁度良く、丁度悪いチャイムが頭上に響いた。何かを極度に恐れた、細い担任の顔を置いて。


ラッキーな自習時間の四限を終えて、ラーメンめがけて教室を出ようとした。

「あれ旬。もう帰るんか?」

「瑞人。旬はあの美人姉と仲睦まじいランチだよ。」

「うっさいな。なんだ丁寧な言いは。」

年子で高校二年生の時に三年生だった姉は、そのスタイルの良さと水泳部での活躍で学校の有名人だった。このやんちゃで不真面目な青木優斗と日向愛太郎も、そのファンの一人だったように。

「姉さんは今日いないの?」

「いねえよ。どうせ友達と水泳だろ。」

「いいなぁ旬は。あの長身を毎日見られるだから。」

「俺の好物の唐揚げを生贄にな。」

冷徹そうで、あまり口を開かない姉は、家では食い意地の張った内弁慶だ。

「今日は帰るよ。街の家系ラーメン食べるから。」

「えっラーメンかよ。お前この真夏だぞ。」

「だから上手いんだろ!あの油たっぷりの汁がたまんないじゃん!」

「そういう日向は帰んないのか?」

「面接練習だよ、面接。俺進路就職だから、夏終わりはやらないといけないんだよ。」

「あね。就職できそう?」

「それが、あるんですよ!一つありそうな見込みが!」

「業界は?」

「デパート業。」

「デパート!?珍しいな。」

「いや本命だったからね。取れるとは思わなかったわ。」

盛り上がる日向を横目に、一の数字を指す時針が目に止まる。

「ごめん。やっぱ先に行くわ。」

「分かった!じゃあな。」

「おう!」

錆びた雨水管が目立つ校舎を尻目に、ラーメン屋へ急いだ。

教室を見るのが、最後とは知らずに。

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枯線 海崎玲 @umisaki99

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