松村広志(2)
「あいつはね、最低の男だよ」
「えっと、それはどういうことでしょうか?」
尋ねる今川勇三に、光穂は軽蔑したような眼差しを向ける。
「あんた、ライターのくせに何もわかってないんだね。松村はさ、外面はものすごくいいの。特に男友だちの前では、偉そうにフキまくるんだよ……自分がいかに凄い男であるかを、ね。直後、金をバラ撒いて奢る。そうやって、周囲のバカにマウントを取ってたのさ」
いや、松村広志もお前にだけは言われたくないだろうよ……などと心の中で呟きつつ、今川はにこやかな表情を作り頷いてみせた。
この光穂由紀は、かつて広志と付き合っていたらしい。事前に電話などで連絡をとり、会う約束を取り付けた。最初は渋っていたが、謝礼を支払うと約束したとたん態度が変わる。そして今日、駅の近くのカラオケボックスで待ち合わせたのだ。
部屋に入って来た彼女を見た瞬間、今川は少なからぬ衝撃を受けた。顔立ちそのものは悪くない。田舎の風俗やキャバクラならば、恐らく上位に入れる美人ではある。
だが、その美貌すらぶち壊しにする要素があった。髪は金色で化粧は濃いが、それはまだいい。問題なのは、首を上下にカクカク振りながら、威嚇するかのような目つきでこちらを見ていることだ。コントに登場するバカなヤンキー女が、そのまま現実世界に現れたようなリアクションである。いったい、何を考えているのだろうか。自分の行動がどれだけ恥ずかしいか、わかっていないのだろうか。
しかもピンクのジャージ上下にサンダル履きで、タバコをスパスパ吸いながら歩いて来たのだ。近頃は、歩きタバコに対し規制が厳しくなっている。まして光穂の態度は、嫌煙派が見たら発狂しそうなものだが、そんな連中の思惑など気にも止めていないらしい。
この女を一言で表現するなら、絶滅しそこねた昭和のヤンキー女子だろうか。もっとも、女子と呼べる年齢でもないだろう。見た目からの予想だが、三十歳は超えているだろう。どんな職業で生計を立てているのかは知らないが、知りたくもないし興味もない。
「松村はね、見た目は確かにいいよ。イケメンだよ。金も持ってるし、遊ぶにはちょうどいいだろうね。でも、中身は最悪なんだよ。あと、あっちも下手くそ。勝手に腰振って勝手にイク、って感じ」
光穂は、不快そうな様子で語り続ける。ピンクのジャージの上からでも、肉感的なスタイルの持ち主であるのが見てとれる。特に、胸の大きさには特筆すべきものがある……人工的に膨らませたものかもしれないが。もう少し若ければ、グラビアアイドルもしくはAV女優としてデビュー出来ただろう。
いや、今は熟女ものにもかなりのニーズがあるらしいと聞く。となると、AVの方はまだチャンスがあるかもしれない。知り合いの業者にでも紹介してみようか……。
そんなバカなことを頭の中で考えつつも、今川はあくまで平静な表情で尋ねる。
「最悪、ですか。具体的に、どんな感じなんですか?」
「まずね、あいつは釣った魚に餌はやらないタイプなの。あと、うんざりするくらいの俺様キャラ。口を開けば、しょうもない自慢話ばっかり。聞いてらんない。話してると、ホント疲れる」
即答する光穂。彼女の発する言葉は、全て語尾の切れが悪いし、滑舌も良くない。はっきり言うなら、若いバカ娘の口調そのものだ。これが許されるのは、十代の間だけである。
三十過ぎた女がこんな喋り方をしていたら、ただただ痛いだけである。こんな女と話していたら、こちらのIQも下がりそうだ。まあ、バカな女の方がいいという男も少なくないのかも知れないが。
こんな女と、松村はどうやって知り合ったのだろう。やはり出会い系サイトだろうか。あるいは、ツイッターやインスタグラムなどのSNSだろうか。
それとも、友人や知人からの紹介だろうか……だが、今川はその考えを否定した。まともな価値観を持った人間なら、こんな昭和ヤンキーの見本のごとき女を友人に紹介したりしない。
心の内でそんなことを思いつつ、今川は話を続けた。
「なるほど。でも、そんな男は珍しくないですよね? 最悪、というほどでもないんじゃないですか?」
その言葉を、光穂は鼻で笑った。実に失礼な女である。彼女の頭には、礼儀という概念がないのだろうか。それ以前に、脳が入っているかどうかも疑わしいが。脳の代わりに、ニコチンが詰まっていたとしても驚かないだろう。
「あんた、やっぱり松村のこと何もわかってないんだね。あいつはさ、平気で女を殴るんだよ」
「えっ、殴るんですか?」
「そうだよ。あいつはね、女をグーで殴るんだよ。はっきり言ってクズでしょ」
「いや、それは初耳ですね。意外でした」
正直、驚いた。佐藤を始めとする友人知人たちから聞いていた話とは、まるで違う。少なくとも、女に暴力を振るうタイプだったとは聞いていない。
しかも、この光穂は殴られたら殴り返して来るタイプに見える。さぞや、派手な喧嘩になるだろう。
「そう。あいつはね、顔みたいに目立つ場所は絶対に殴らないんだよ。肩とか、腹とかを何度も何度も殴るの。あたしも、何度殴られたかわかりゃしない」
そう言うと、光穂はタバコの箱をポケットから出した。一本抜き取り、くわえて火をつける。
美味そうに吸い、煙を今川に向けて吐き出した。かなりイラッとしたが、そんな気持ちはおくびにも出さずに話を続ける。
「いや、それは意外でしたね。知らなかったです」
今川は、にこやかな表情で言葉を返す。意外だとは言ったが……思い起こせば、DVの常習犯というのは、外面のいい人間が多いのだ。外に出れば穏やかな好人物、しかし家の中に入れば暴力で家族を支配する……きわめて典型的な、DV男の行動パターンである。
ただ、松村もそのタイプだったとは思わなかった。やはり、物事を判断するには多くの情報が必要だ。
「だったら、あんたは松村のことを何もわかってなかったんだよ。あたしに取材できて、本当によかったね」
「いや、よかったです。意外な一面を知ることができました」
その言葉に、嘘偽りはない。この女でなければ、話してくれなかっただろう。
「でしょう? しかもさ、あいつは口答えを絶対に許さない。松村の決めたことには、絶対服従なんだよ。逆らおうものなら、延々と説教された挙げ句に腕が上がらなくなるまで殴られる」
「それは酷いですね」
相槌を打ちながら、今川は夏帆のことを考えていた。彼女に対しても、松村は暴力を振るっていたのだろうか……有り得る話だ。
ひょっとしたら、娘の栞にも?
「本当、酷い奴なんだよ。しかもさあ、あいつは……」
その後、光穂は一方的に延々と喋り続けた。その全てが、松村広志の悪口である。ひとりの人間を、よくもまあここまでボロクソにけなせるものだ。佐藤孝明とは、完全に真逆である。
仕方ないので、ひたすら相槌を打ちながら話が終わるのを待った。
しばらくして、光穂の言葉が止まった。ようやく、胸に秘めたものを言い尽くしたらしい。拷問にも等しい時間がようやく終わり、今川はホッとした。
と同時に、彼はカバンを開けた。光穂から得られるものは、もう何もない。松村広志の情報に関しても、打ち止めであろう。そろそろ引き上げ時だ。
「今日は、どうもありがとうございました。では、少ないですが、こちらを……」
言いながら、今川はカバンから封筒を取り出した。
その途端、彼女の目つきが変わった。引ったくるようにして封筒を受け取り、その場で何のためらいもなく中を覗きこんだ。
直後、憮然とした表現になる。
「ねえ、たったこれだけ? 冗談だよねえ?」
彼女の目つきは、完全に据わっている。声の調子も、先ほどとは違うものになっていた。
今川は、思わず顔をしかめた。どうやら、面倒な展開になりそうだ。
「はい、それだけです。足りませんか?」
「足りないね。もっと出してくれなきゃ困るんだよ。こっちだって、自分の恥を晒してるんだからさ。わかるよね?」
口調が完全に変わっている。B級ヤクザ映画に登場するチンピラのごとき喋り方だ。時代も令和だというのに、こんな女がまだいるとは……今川は、思わず頭を掻いた。
「それはまいりましたね。僕としても、それが精一杯なんですよ。何せフリーになったばかりで、貧乏でしてね。他にも、あちこち回らなきゃならないですし──」
「そんなの、あたしの知ったことじゃないんだよ。あと、一本よこしな。でないと、ここにヤバいお兄さんを呼んじゃうよ」
「あと一本、ですか。となると、十万円ですか?」
今川がそう言った瞬間、光穂は吸っていたタバコを投げつけてきた。もちろん、火はついたままである。
投げられたタバコは今川の顔をかすめ、後ろの壁に命中した。彼女がタバコを吸うのは、単にニコチン摂取のためだけではなく、脅しの道具として使用するためでもあったようだ。何とも迷惑な話である。目に当たっていれば、失明の可能性もあったのだから。
「あんた、あたしをなめてんのかい? バカ言ってんじゃないよ。一本って言ったら、百万に決まってるだろうが。払ってもらうよ」
光穂が、その下種な本性を現したのだ。声そのものは静かだが、奥には有無を言わさぬ意思を秘めている。無駄だと知りつつも、一応は愛嬌でごまかすことを試みてみた。
「えっ、百万ですか!? いやいや、まいりましたね。そんな金、逆さに振っても出ませんよ。もう少し、何とかならないでしょうかね?」
へらへら笑いながら聞いてみたが、光穂はにこりともしない。むしろ、表情がさらに険しくなっただけだった。
「あんたさあ、あたしをバカにしてんの? あのね、八百屋で大根買うのとはわけが違うんだよ。まけてくれ、なんてセリフが通じるわけないでしょうが。ちょっとは、自分の頭で考えてみなよ。なんなら、ヤバい金貸し紹介しようか? 電話かければ、この場にすぐに呼べるんだよ。百万くらい、すぐに貸してくれるよ」
「ちょっと待ってください。まずは、話し合いましょう」
引き攣った笑顔を浮かべながら、今川はどうにか場を収めよつとした。だが、光穂に引く気配はない。
「無理だね。話し合う余地なんかない。さっさと払っちまった方が、長い目で見ればお互いに得なんだよ。払わなければ、あんた非常に困ったことになるしね。あんた、本当に後悔するよ」
光穂は、落ち着いた声で言った。こうした恐喝まがいのやり取りは、初めてではないのだろう。ひょっとしたら、これが彼女の仕事なのかもしれない。
思わずため息を吐き、天井を見つめる。松村の裏の顔を知ることが出来たのは、確かにありがたい。だが、その代償として百万は高い。高すぎる。
払えないことはない金額ではある。だが、この手のチンピラはしつこい。一度では終わらせてくれないだろう。
さて、どうしたものか。
「ねえ、どうすんの? あたし、銀星会の幹部の人とも知り合いなんだよ。あんただって、銀星会の恐さは知ってるでしょ。下手すりゃ、マグロ船に乗ることになるよ」
そう言うと、光穂はニヤリと笑った。嫌な感じの笑みである。今川は、心底から目の前の女が嫌いになっていた。
「ねえ、マジで銀星会呼ぶよ? どうすんの?」
黙っている今川に向かい、光穂はさらにたたみかける。
銀星会とは……この国でもっとも有名であり、全国的に大きな勢力を誇る広域指定暴力団である。好き好んで、敵に回そうなどと思う者はいない。
もちろん、彼女の言葉が真実であるという保証はない。ハッタリの可能性も高い。そもそも、銀星会の人間が、わざわざ光穂のようなチンピラ以下の人間の電話一本で動くとは思えない。
つまり、無視してこの場を去るのが一番賢いやり方なのだろう。だが、今川は敢えてそうしなかった。金はかかるが、最後まできっちりとやり遂げた方がいい……彼の裡に潜む何かが、そう言っている。
直後、大きな溜息を吐いた。まさか、こんな展開になるとは……世の中とは、不快なことに満ちているらしい。
自分はただ、話を聞きたかっただけだった。
「わかりました。では、仕方ないですね、僕もマグロ船には乗りたくないですから……付いて来てください。お支払いしますので」
にこりと笑い、今川は立ち上がった。
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