第3話 魔王、人助けをする

 放課後、学校からの帰り道。

 私の隣を歩く隼人は、どこか上機嫌そうだった。昼休みに送った自撮りのメッセージが思いのほか効果的だったのか、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。

「何かやらかすと思って釘を刺しといたんだが……魔王が人間と仲良くできるなんてな。意外と楽しかっただろ」

 その問いかけに、私は一瞬口をつぐんだ。今日は友里や一親と一緒に昼食を取り、写真を撮って、笑顔を間近に見た。

 それがどうだったのか、自分でもうまく言葉にできない。ただ、無意味ではなかったという感覚は残っている。

「……まぁそうだな。悪くはない」

 そう言いかけて、言葉を飲み込むわけにはいかない。

 私は魔王だ。人間たちとただ仲良くして終わるなど、本来の私の目的ではない。すぐに顔を引き締め、続けた。

「……だが、私は魔王だ。奴らを利用しているだけにすぎん」

 自分に言い聞かせるように、強い口調で言い放つ。

 あの2人の笑顔や優しさが私にとって何を意味するのか。

 それはあくまで、今の私が成長してこの世界で生き抜くために、この世界を支配するためにすぎない。

 隼人は私の言葉に軽く目を細めた。嘲笑するわけでもなく、ただ静かに私の顔を見つめる。

「そういうことでいいよ」

 隼人の声には、妙に落ち着いた響きがあった。まるで、私が何を言おうと気にしていないかのような態度だ。

 その余裕に、私は少しだけ苛立ちを覚える。

 夕日が沈む街を歩きながら、ふと何かを思い出したように振り返り、私に声をかけた。

「それと、明日の球技大会。負けず嫌いなお前には厳しいかもしれないが……わざと負けろ」

「は……?」

 私は立ち止まり睨みつけた。わざと負けろ、だと?

 そんなことをわざわざする理由がどこにある。やるからには全力で相手を叩きのめすのが当然だ。

「やるなら完膚なきまでの完全勝利に決まっている!」

 思わず声を荒らげてしまった。戦いであれば、手加減するなど無意味なことだ。私はこの世界でも、持てる力を存分に発揮するつもりだった。

「魔緒はまだわかっていない。今いるのは、戦場じゃなくて学校だ。そして、お前のこの体は魔緒は、運動が大の苦手なんだ」

 隼人の言葉に、私は一瞬だけ戸惑った。魔緒が運動が苦手だということは知っていたが、それが今回の話とどう関係しているのか。

「そんな魔緒が急に運動神経抜群だと……流石に疑われる」

 確かに、もしこの体で私が全力を発揮し、他の生徒たちを圧倒するような動きを見せれば、必ず何かがおかしいと気づかれるだろう。この世界の魔緒として過ごす上で、不自然な行動は何よりも危険だ。

 せっかく力の制御の仕方を理解したというのに、発揮する場面が今のところ少ないのが悔やまれる。

「分かった…なるべく抑える」

 私は不満げに言い返した。



 球技大会当日。

 次の種目はリレー。私はバトンを握りしめ、スタート位置で呼吸を整えていた。

 魔力総量や私と魔緒が適合して来ているおかげで、段々と力を発揮できている。

 そして、スタートの合図が鳴るとともに、私の足が地面を蹴った。その瞬間、あっという間に周りの景色が流れ去る。ゴールまでの距離が一瞬で縮まり、気づけば、私はコースの先頭に立っていた。

 バトンを次の人に渡した瞬間、周りが一瞬静まり返り、次の瞬間に大歓声が上がった。

「1秒…!?」

 体育教師が時計を片手に叫ぶ。その声が運動場に響き渡り、他の生徒たちも目を丸くして私を見つめている。

 もはやリレーどころではなくなったのか、周りに人が集まる。

 驚きと興奮が入り混じった歓声、すべてが私の耳に心地よく響いてくる。

「ふふ」

 やりすぎたな…とは思っていたが、内心では興奮と高揚感がどんどん膨らんでいく。まるで、かつての魔王としての自分が、この世界で再び復活したかのような気分だった。全員の視線が私に注がれ、称賛と驚きの声が上がる。これこそ、私が本来手にしていた力の証。

 私は内心で気持ちよくなっていた。

「おい、何バカなことやってんだ」

 隼人は教室の窓から飛び出し、すぐ私の元までやってきた。

「いやぁ…制御をミスった」

「にしては楽しそうだけどな…」

 隼人は、両手を広げ空中に複雑な紋様を描き始めた。

 指先が光を帯び、次第に空気中に魔法陣が浮かび上がる。見たことのない細かな模様が魔法陣に刻まれ、周囲に不思議な圧力を放ち始めた。

「メモリーズブレイク」

 魔法陣が眩い光を放ち、運動場全体にその光が広がった。光の波が生徒たちに降り注ぎ、彼らの瞳はぼんやりと色を失っていく。まるで時間が止まったかのように、すべての動きが静止した。

「あんまり記憶をいじるのは好きじゃないんだよなぁ」

 この魔法は発動してから効果を発揮するまで10秒かかる。その間に隼人は急いで教室に戻って行った。

 魔法陣の光がゆっくりと薄れ、周りの生徒たちの瞳が元の色を取り戻していった。彼らは一瞬戸惑ったように周囲を見回し、何事もなかったかのように再び動き始めた。

「……え、私たち、何してたんだっけ?」

 まるで先ほどの「世界記録」の出来事がなかったかのように、生徒たちの記憶からすべてが消え去っていた。

「窮屈な世界だ…」

 そのまま、私はクラス対抗リレーでは最下位、バレーでは足手纏いと悲惨な結果を迎えた。


---


 夕暮れの道を歩きながら、私は軽く息をついた。

 友里と一親と一緒に遊びに行った帰り道、久しぶりにたくさん歩き回ったせいか、体には少しだけ疲労を感じる。だが、悪い気分ではない。

「それにしても、相変わらず運動音痴だね……」

 一親がくすっと笑いながら私を振り返る。その口元には、どこか楽しそうな表情が浮かんでいる。今日の球技大会の中で、私がうまく動けなかったことをからかうような口調だ。

「退院して間もないからな」

 私はそっけなく答えた。

 今のこの体では、少し動いただけで思うようにいかないことも多い。運動音痴と言われるのも仕方がないが、それが少々悔しいのも事実だ。

「でもさ、退院早々、あんなに動けるのはすごいよ!」

 友里が明るい声でそう言い、私の隣にぴょんと寄ってきた。

 瞳はキラキラと輝いていて、私を褒めることに何の迷いもない。私はその素直な言葉に少しだけ戸惑いながら、目をそらした。

「……大したことじゃない」

 友里と一親の笑い声が背中から聞こえ、私は小さく息をついて歩みを進めた。

「にしても、煙臭くない?」

 一親が顔をしかめながら、周囲を見渡す。友里も同じく鼻を手で軽く押さえ、辺りを気にしている。

「……あれ、何か燃えてない!?」

 友里が遠くを指さす。そこには、黒煙が立ち上っている30階ほどのマンションが見えた。走り周辺に近づくと、火の手が高く上がり、周りにはざわめきと人々の悲鳴が響いている。

「中に子供が……!」

「夫が……!」

 周囲から次々と叫び声が上がり、混乱が広がる。どうやら、マンション内にまだ人が取り残されているらしい。

「私達じゃ何もできないね…」

 一親は少し悔しそうな顔をした。

 正直、人間が何人死のうが私には関係ないことだ。だが、そこにいる母親だ。泣きながら神にでもお祈りするかにようなポーズ。何かに縋りながら大泣きをする様子。

 まるで私の母親のようなそんな顔をしている。

 その姿を見ていると、ただ冷淡でいることができない自分に気づいた。

「……ちっ」

 舌打ちして目を逸らす。関係ないと思っていたのに、どうしてこんな気持ちになるのか。しかし、あの「母親」の顔を見てしまった今、無関心でいることはできなかった。

「……仕方ない、やるか」

 私は決意を固め、マンションに向かって歩き出した。

 あくまで人間の心を知るためだ。人助けじゃない。

「助けに行くとかいうつもり!?そんなことしたら……怪我するよ、死んじゃうかもしれないよ!」

 その言葉に、私は胸の奥が少しだけ痛んだ。彼女たちが私を心から心配してくれているのはわかる。だが、今は躊躇している時間はない。マンションの中で、誰かが助けを待っているのだ。

「……心配するな」

 私は彼女の手をそっと振りほどき、できるだけ優しい表情を作った。それから彼女たちに背を向け、マンションの入口を見据える。

「私は……強いんだ。だから、大丈夫だ」

「はぁ…!?トスもスパイクも、走ること際できない奴が何言ってんだよ!」

「吉報を待ってろ。死ぬ気はない」

 そう言い放つと、私は再びマンションへと駆け出した。背後から、

 叫ぶ声が聞こえたが、振り返ることはしなかった。

 マンションの入口にたどり着くと、熱気が一気に押し寄せ、視界がぼやける。炎の熱と煙の臭いが、容赦なく鼻を突いた。普通の人間なら、ここで尻込みしてしまうだろう。だが、私には魔力がある。すでに周囲の熱を防ぐための魔法を展開していた。

 中の廊下はすでに煙で充満しており、炎が所々で床や壁を焼いている。視界は悪く、熱気が肌を刺すようだ。しかし、そんなことは気にしていられない。

「……どこにいる?」

 私は耳を澄まし、かすかな声を探した。遠くから、助けを求める声が聞こえる。煙と炎の向こうから、何かを叩く音がした。私は迷わずその方向へと走り出した。

「15階くらいか?」

 その付近まで階段で駆け上がり、あっという間に部屋のドアに近づいた。

 中から「助けて!」という叫び声が聞こえた。私はすぐさまドアノブを握り、魔力を込めて一気に押し破った。

「ここだ、来い!」

 中には小さな子供が、怯えた目でこちらを見ている。私は彼に手を差し伸べ、包み込むように抱き上げた。そして、魔力で周囲にシールドを展開し、炎を押しのけながら廊下へ戻る。

「命だけは保障してやる」

 そう言うと、子供の怯えた表情が少しだけ和らいだ。私はそのまま子供を抱えて、マンションの出口まで駆け抜ける。外へ飛び出し、無事に救助した子供を近くの大人に託した。

「次だ」

 私は再び建物内へ戻る。今度は別の階にいる人々の声が聞こえる。階段を駆け上がり、煙と熱気を振り払って進んでいく。人々の声に耳を傾け、そのたびに魔力で炎を払いのけて道を切り開いていった。

 2つ目の部屋には、若い夫婦が閉じ込められていた。彼らは窓際に追い詰められ、どうすることもできない様子だった。

「そのままじっとしてろ!」

 私は叫び、魔力を纏った足で一気に部屋の中へ飛び込む。壁に開いた小さな穴から炎が燃え盛っているが、私は気にせず手を伸ばした。

「手を伸ばせ!」

 夫婦は戸惑いながらも私の手をつかむ。その瞬間、私は二人をしっかり抱え込み、魔力で作ったバリアで彼らを包んだ。そして、ベランダ飛び出した。

 マンションの前にたどり着くと、外にいた人々が驚いたようにこちらを見ていた。私は夫婦を地面に降ろし、彼らの安全を確認する。

「誰か手当てしておけ」

 私は息を整え、次の部屋へと向かおうとする。全身に汗が滲み、煙の臭いが服に染み付いていたが、まだ救える人々がいる限り、止まるわけにはいかなかった。

 こうして、私は次々と炎の中から人々を救い出すため、何度もマンションに飛び込んでいった。

 友里と一親の心配そうな声が背中に響いたが、振り返らずに足を進める。

 その時、ふと頭の中に疑問がよぎった。

「……なぜ、こんな時に隼人はいないんだ?」

 苛立ちが胸の中でふつふつと沸き上がる。これほどの非常事態にどうして現れないのか。いつも口うるさく私に忠告してくるくせに、こんな肝心な時に姿を見せないとはどういうことだ。

「まったく、使えない奴だ……!」

 私は小さく舌打ちしながら、20階のベランダにたどり着いた。

 普段はあれこれとうるさく指図してくるくせに、助けが必要な今、姿が見えないとは。結局、私一人でどうにかしなければならないのだ。

「……まあいい。私がやるだけだ」

 苛立ちを振り払うようにそう呟き、私はマンションの中へと飛び込んだ。

 あれから何人助けただろうか。

 激しい炎と黒煙が、マンションの内部を容赦なく飲み込んでいた。私は魔力のバリアで熱気を防ぎながら、何度も人々を救い出すために炎の中を突き進んだ。しかし、その度に魔力を消耗し、次第に体が重くなっていくのを感じる。

「……くそ……こんな時に……」

 一人、また一人と救助していく中で、全身から汗が噴き出し、呼吸が荒くなる。回復魔法で傷を癒しても、体力は限界に近づいている。

 視界が霞み、膝が震え始めた。次の瞬間、私はその場に膝をつき、息を荒らしながら額から汗をぬぐった。煙が充満する空間で、頭がクラクラと揺れる。

「……立て」

 私は自分を奮い立たせて立ち上がろうとするが、足に力が入らない。今にも意識が遠のきそうだ。ここで倒れるわけにはいかないという気持ちだけで、なんとか踏ん張ろうとする。

その時、かすかに聞こえた声があった。

「どこだ! しっかりしろ!」

 視界の端に、見慣れた人影が駆け寄ってくる。私はぼんやりとその姿を見つめた。炎の中をかき分けてこちらに向かってくる。

「隼人……」

 私はかすれた声で彼の名前を呼ぶ。隼人は私の元に駆け寄り、腕を掴むと、力強く引き上げてくれた。その瞬間、彼のバリアが私を包み込み、熱と煙を遮断する。

「まったく……無茶しやがって! お前、一人で全部やるつもりだったのか?」

 隼人は険しい顔で私を見下ろし、私の肩を支えながら呟いた。その声には怒りと同時に、心底心配している気持ちが混ざっているのが伝わってきた。

「……すまない、だが……まだ人が……」

「わかってる。だから、俺が来たんだろ?」

 隼人は私を軽く抱え、再び立ち上がらせてくれる。彼の魔力が体中を巡り、少しずつ力が戻ってくるのを感じた。

「連絡くらいすれば来たってのに」

 言葉に、私は黙って頷いた。力尽きる寸前の私に、彼は間に合った。今、彼がいるなら大丈夫だろう。隼人の背中を見つめながら、私は安堵の息をつき、わずかに意識を取り戻していった。

「それで、あと何人だ?」

「あと1人だ」

 周囲の騒音や熱気に意識がぼんやりとし始める中、ようやく遠くから聞こえるサイレンの音が耳に入ってきた。

 私はサイレンの音に反応し、遠くの通りに目を向けた。赤いライトが見え、緊急車両がこちらに急行している。しかし、その音に少し安堵しながらも、同時にあることに気づいて隼人は目を見開いた。

「待てよ……ってことは……!魔緒、まさか、4分くらいでこの人数を助けたってのか!?」

 信じられない気持ちで、救助した人々を見渡す。もう何十人にもなる。彼らが無事に外へ運ばれ、手当てを受けているのを確認しながら、私は唖然とした。

「よくやった。あと1人は任せとけ」

 隼人が軽く息を整えながら言う。隼人に担がれ最上階の30階に上がった。

 そこには、一匹の大型犬が、怯えた様子で縮こまっていた。

 鎖につながれたまま、炎の勢いに怯えて身を縮めている。最後の救助者が人ではなく、犬だった。

「犬も大切な家族だしな」

 隼人は小さく呟き、素早く犬の鎖を外した。犬は彼に飛びつくように駆け寄り、尻尾を振りながらこちらを見上げる。

「よーしよし、偉いな」

 そのまま犬を抱えて、下に降りた途端マンションが爆発した。

 マンションから脱出し、外の空気を胸いっぱいに吸い込む。

 隼人は犬を抱えたまま、私を支えながら安全な場所まで運び出してくれた。私の体は疲れ切っていたが、無事に人々を救い出せたという安堵感に包まれていた。

 ようやく地面に腰を下ろし、荒い息を整えたところで、隼人がふっとこちらに目を向けた。

「……お前、友達に心配かけすぎだぞ」

 突然の言葉に、私は彼を見上げた。隼人の表情には、少しだけ優しさと気遣いが浮かんでいた。どうやら、私たちが救助に入っている間に何かがあったらしい。

「どういうことだ?」

 私は問いかけると、隼人は軽くため息をつき、視線を遠くに向けた。

「ここにきた理由も、電話越しに一親が泣きながら謝ってきたんだ。『力づくでも止めれば良かった』ってな」

 その言葉に、私は心臓が少しだけ締め付けられるのを感じた。友里と一親の顔が頭に浮かぶ。彼女たちは、私がマンションに飛び込もうとしたときに必死に止めようとしてくれた。あの時、私は彼女たちの心配を振り払うようにして中へ入っていったが、その結果、彼女たちにこれほどの不安と罪悪感を与えてしまったのだろう。

「……そんなことを言ったのか、あいつらが」

 隼人は静かに頷く。その目には私を責めるわけではない、ただ現実を伝えようとする優しさがあった。

「どうせ記憶は消すが、ケジメとしてちゃんと謝ってこい」

 その言葉に、私は驚いて彼の顔を見上げた。隼人の表情は真剣で、私を試すような目つきをしている。

 記憶を消す。

 つまり、救助の出来事や私たちがやったことを人々の記憶から消し去るということだ。そうしなければ、普通の「魔緒」としての生活を続けられないのはわかっている。

「……謝る、か」

 私は自分の膝を見つめ、小さく呟いた。これまで魔王として生きてきた自分にとって、誰かに謝るなど考えたこともなかった。しかし、今のこの状況では、友里たちに何かしらの言葉を伝えなければならないと感じていた。

「あいつらの気持ちは本物だった。そのことにちゃんと向き合え」

 隼人は静かに、しかし強い口調でそう告げる。その目には、私への期待と厳しさが入り混じっていた。

「……わかった」

 私は重い足取りで友里と一親のもとへと歩き、ようやく二人の前に立った。

「……ごめん……心配かけた」

 必死に考えて、やっとのことで出てきた言葉だった。これまでの自分なら、決して口にしなかっただろう。だが、今は彼女たちの気持ちに向き合う必要があると理解していた。

 その言葉を聞いた瞬間、友里の顔がぐしゃりと歪んだ。目に溢れた涙が、頬を伝い落ちる。そして、次の瞬間。

「……っ!」

 突然、頬に鋭い衝撃が走った。思わず目を見開く。友里が、全力で私の頬をビンタしたのだ。その表情には怒りと悲しみ、そして安堵が入り混じっている。

「馬鹿!! またどこか遠くに行っちゃうかと思った!」

 彼女の声が震えている。私は、痛みで頬に手を当てながら彼女の言葉を受け止めた。その胸の内に、どれだけの不安と恐怖があったのかが伝わってくる。

 あの時、私が彼女たちの心配を振り払って、炎の中に飛び込んだことがどれほど彼女たちを傷つけたのか。

「ごめん、本当に……」

 再び、私は謝罪の言葉を絞り出す。友里はその言葉を聞き、目を閉じて肩を震わせた。一親も隣で黙り込み、涙を浮かべている。

「私たち、またあんたがいなくなっちゃうんじゃないかって……怖かったんだよ……」

 一親が声を震わせながら続ける。その言葉に、私の胸の奥にじんわりとした感情が広がっていった。私が思っていた以上に、彼女たちは私を大事に思ってくれていたのだ。

「……悪かった、もう、こんな心配はさせない」

 私は深く息を吸い込み、約束するように言った。

 しかし、その安堵も長くは続かなかった。背後から足音が近づく。振り返ると、そこには隼人が静かに立っていた。彼の表情はいつもと変わらないが、その瞳には深い決意が宿っている。

「……そろそろ時間だ」

 彼の一言で、すべてが動き出す。私は息を呑み、二人の方に目を戻した。隼人が背後に立ち、手を掲げる準備をしているのがわかる。

「記憶を消す時間がやってきた」

 私の口から出たその言葉に、友里と一親はきょとんとした表情を浮かべた。もちろん、彼女たちには何のことか理解できないだろう。

 隼人手を一振りする。光が一気に広がり、友里と一親の体を包み込んだ。二人は一瞬だけ目を見開き、そしてそのまま意識を失って静かに地面に倒れ込む。

 しばらくして、ここにいたみんなが記憶を取り戻した。

 友里と一親がゆっくりと目を開け、ぼんやりとした表情で起き上がった。彼女たちは自分の周りを見渡し、状況を把握しようとするかのように瞬きを繰り返した。

「あれ……? 私、何してたっけ……」

 友里が頭を振りながら立ち上がり、ぼんやりとしたままこちらを見つめる。続いて、一親も不思議そうに周囲を見回し、私の姿を見つけて首をかしげた。

「なんで、私服?」

 彼女たちは、私の姿に戸惑ったようだった。そうだ、マンションの火災の中でボロボロになった制服の代わりに、私は急いで家に行き私服に着替えていたのだ。

「……ああ、制服がダサいからな」

 わざと真面目な顔で答えた。

 友里と一親は一瞬呆気にとられたようにこちらを見つめていたが、次の瞬間、二人はクスクスと笑い始めた。

「何それ! たまに冗談言うんだから!」

 友里と一親が笑い合う中、遠くから一段と大きなサイレンの音が響いてきた。振り返ると、消防車が次々とマンション前の広場に到着し、消防士たちが素早く装備を整えて展開していく。

 ホースを引き出し、隊員たちが手際よく動く。

「俺たちがいても邪魔だろ?さっさと帰ろうぜ」

「いつのまにか隼人まで……どうなってんだ?」

 一親が混乱したように呟く。友理も頷きながら隼人を見つめる。

「そうだよ、さっきまでいなかったよね? どこから来たの?」

 二人の視線にさらされながら、隼人は少し面倒そうな表情を浮かべて頭をかく。そして、にやりと笑いながら適当な理由をでっちあげる。

「俺は忍者みたいにどこにでも現れるからな。お前らが気づかなかっただけだよ」

「は?何言ってんの?」

「酔っ払い…?」

 隼人のボケは見事に滑り、総ツッコミを受けた。

「酔っ払ってるわけないだろう? ただ、こういう緊急事態の後は変なテンションになっちまうんだよ。ほら、早く帰ろうぜ」

 その言葉に、友理と一親は少しだけ首を傾げながらも、深く追及はしなかった。

彼女が小さく頷くのを確認し、隼人は目の前で手を叩き、軽く笑った。

「よし、じゃあ帰るか。みんな、お疲れさん!」

 夜の冷たい風が、火事の熱気にまだ残る私たちの体を冷やしてくれる。消防隊の消火活動を背にしながら、私たちは帰路についた。

「にしても、今回は大活躍だったな。まさか、こんなに助けられるとは思わなかったよ」

「ふん、当然だろう。私は魔王だぞ」

私は隼人の言葉に鼻を鳴らして答える。自分が炎の中に飛び込んで人々を助けたのは事実だし、誇らしくないと言えば嘘になる。しかし、隼人は私の言葉を聞いても特に反論せず、淡々と続けた。

「でもさ、次はもう少し冷静になってくれ。友達も親も心配させたくないだろ?」

「あぁ…」

「じゃあ、帰ってゆっくり休もうぜ」

 隼人の軽い口調に、私は黙って頷いた。

 並んで歩く帰り道は、いつもより少しだけ心地よく感じられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る