きっと春の海底に寝そべっている幸福

朝桐

【短編】きっと春の海底に寝そべっている幸福

 春の匂いがした。

 冬の冷たさから殻を破って芽吹いた花の匂いは、柔らかで繊細だった。


 早朝のウォーキングが日課になったのは、前職を辞めて朝の出勤に余裕が出たからだ。たった三十分のウォーキングだったけれど、眠気で鈍った頭を揺り起こすには丁度良かった。朝の空気は澄んでいて、沿岸沿いを歩いていると毎日かすかな発見をした。たとえば今日の海は穏やかに凪いでいるだとか、潮風が幾分か濃い気がするだとか、海鳥が多いだとか。そういったこと。


 その日の発見は、男の人だった。

 背はすらりと高く、色素も薄くて、空と海の世界のなかにいると儚げにさえ見えた。擦れ違いざまに、そのひとの整った顔立ちにどきりとした。私もいい歳をした大人だが、やはり美形の異性には意識をもっていかれてしまう。重力の掟に従うように自然と視線が吸い寄せられて、歩むスピードが緩慢になっていく。


 その人は水平線上を見詰めていた。大事なものを見詰めるように。まるで海の果てへと飛び去った何者かを追慕するような眼差し。一体何を考えているのだろう。擦れ違うのが惜しかったが、青年に声をかける理由も勇気もない私は、そのまま通り過ぎようとした。


 けれど、


「あの」


 青年から呼び止められたのだと理解するのに、数秒かかった。

 立ち止まって振り返れば、淡い色彩をした青年は困ったように微笑んでいた。


「すみません。このあたりって遊泳禁止ですか?」


 何を言い出すのだろうと思った。

 遊泳禁止もなにも、今は初春だ。海水浴のシーズンじゃない。

 それともこの、白皙の青年は海に入りたいのだろうか。私は訝しげに思いつつ答えた。


「多分泳いでも大丈夫だと思いますけど……でも今、海は冷たいと思いますよ」

「そうですか……そうですよね。うん、今はきっとまだ冷たいだろうなぁ」


 青年は眉尻を下げて、また困ったように笑う。

 

「泳ぎたかったんですか?」


 思わず問えば、青年は目を柔らかに細めて答えた。


「そうですね……泳いで、深く泳げば、会いたいひとに会えるかと思ったんです」


 ばかげてますよね、と笑う青年は何故か泣き出しそうに見えた。

 私は青年の、その消えてしまいそうな空気感の理由に、唐突に気付いた。


 ああ、このひとは、大切なひとを失ったのか。

 それでこのひとは、そのひとに会いたくて、深みまで泳いでいけばまた会えると思ったのか。


「溺れちゃいますよ」


 春の匂いと海の香りが混じり合う。涙みたいにしょっぱい匂いが鼻先を掠める。


「人間は人魚じゃありませんから」


 何故だか私のほうが泣き出したいような気持ちになっていた。

 そうか。そうか。そうか。このひとは逢いたいのだ。

 うしなわれた、たいせつなひとを一心に探し求めているのだ。


「そうですよね。人間は人魚じゃない。溺れてしまう」


 青年は私の言葉を繰り返した。伏せた睫毛で、しろい目元に薄い影を落としていた。

 一瞬、青年が泣いているのかと思った。けれど視線を持ち上げた青年は、私ではなくまた、海の方を見詰めていた。きれいな、硝子のビー玉みたいな双眸は、朝日を受けて光を散らしていた。


 私は産まれてこのかた、大切なものを失ったことがない。だから青年の気持ちのすべては理解できない。理解できるわけがないのだ。この人の遺失物は、こころの籠から零れ、どこかに漂流している。この果てない海のどこかに流れていっているのかもしれないし、凍てつく深海の底に揺蕩っているのかもしれない。


「この足を切り落として、尾にできたら良かったのになぁ」


 青年は春の陽射しを受けて柔らかに笑う。それが、心からの願いのように。


「尾ができても、呼吸ができませんよ」

「呼吸は、ふた呼吸分くらいあれば、いいんですよ。人魚が溺れるなんて変な話だけれど」


 僕はそれでよかった、と青年は言う。

 私は思った。

 メーデー、メーデー、聞こえていますか?

 このうつくしい人にとって、いっとうに大切なひとよ。

 メーデー、メーデー、聞こえていますか?

 この人はいつか春のつめたい海に浸りますよ。それでいいんですか?

 どうか、止めて下さい。

 だって哀しいじゃないですか。こんなきれいな人が海の藻屑になるなんて。

 でも止められるのは、うしなわれたあなたしかいない。私では、無理だ。


「ありがとうございました。呼び止めてすみませんでした」


 青年はそう言うと、もうそれっきりこちらを振り向くことはなかった。

 私はというと、それ以上青年に何も声をかけられなかった。


 幸いとは、いったいどこにあるのだろう。

 私の幸いは身近にあって、何もうしなわれてはいないというのに。


 あのうつくしいひとの幸いは、海の底にでもあるのだろうか。




 あれから数週間が経ったが、未だに入水自殺のニュースはない。

 私はそれに安堵する。

 夢だったのかと思う日もある。いっそ、夢だったら良かったと思った。

 気紛れに陸に上がった人魚の、戯れ言であったら良かった、と。







 


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きっと春の海底に寝そべっている幸福 朝桐 @U_asagiri

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