ホエールフォール
「この両脚のかわりに、きれいな鱗でみちた尾が欲しいわ。そうしてね、深海に向かって沈んでいくの。鯨のね、死骸みたいに私も天国からの幸になりたいの」
先生は事ある毎に、そんなことを口ずさんでいた。僕は作家というのは風変わりな人が多いのだと思ったけれど、先生が亡くなって担当を外れた今、それは違ったんだなと思った。
華集透子先生は、風変わりな先生だった。最後まで、先生に僕は翻弄され続けていたように思う。華集先生は独身で四十代の女性で、作家としてはそれなりに成功していたけれど、奇天烈なことばかりをするひとだった。
忘れ物をした言い訳を「空があんまりにも青かったから」なんて言ったり、〆切りが遅れた理由を「森へ妖精を探しに行っていたから」なんて言ったり、突然行方をくらませてはケロリとした顔で帰ってきた。
先生は自由奔放で、常に縛られることを嫌った。先生が縛られてもいいと思える唯一のものは、小説くらいのものだったように思う。
「私はね、書くことで何かを残そうと必死なの。私は鯨のような人魚になりたいから。君、知ってる? ホエールフォール。鯨が死ぬとその死骸がね、深海へと沈んでいくの。やがてその大きな死骸は、海底の生き物にとっての豊かな実りとなるのよ。だから天国からのギフトだと、きっと深海の生き物は思っているわ」
先生は煙草を吸わない代わりに、ベランダでシャボン玉を吹きながらそんなことを言っていた。
僕は頂いた先生の新しい原稿を読みながら、はぁ、と溜め息ともつかない首肯を返した。
「でもそれなら人魚じゃなくて鯨になりたいでいいじゃないですか」
僕の、それなりにまともな指摘に、先生はにんまりと笑った。分かっていないなぁ、というように。
「私が鯨みたいな大きな生き物になれると思う? それなら、人魚のほうが現実味があるでしょう」
「人魚も無理があると思うんですが……」
「夢見るのは勝手じゃない」
先生はシャボン玉を吹く。虹色の膜を帯びた、まあるい透明な球が、風にさらわれて飛んでいく。
あー、と先生はそれを惜しそうに眺めている。遠くに飛んで、弾けて消えたシャボン玉を見て、本気で悔しがっている。そんな大人を、僕は先生以外に知らなかった。
僕は華集先生の書く小説は好きだったけれど、華集先生のことはよく分からなかった。
ただ、海が好きな人なんだな、ということだけは分かっていた。
あおく、きらきらしたもの。
そういったものに先生が惹かれていたのは、何故だろうと思った。
その理由を知ったきっかけは、珍しく先生が自宅で酒を呑んでいる時だった。
「初恋のひとがね、たぶん、死んじゃったのよ。海で、溺れたって言われてた。海で泳いだり、潜ったりするのが好きだった人だったから。でも私は、今も彼が海で生きているような気がしてならないの。だって彼は海と戯れることが、とても好きだったから、そんな海で死ぬんだとしたら溺れるなんてマヌケなこと、きっとしない。長いこと泳いでいるうちに、彼も人魚になったのよ」
酔っ払った先生の言葉は水面みたいにゆらゆらしていて、寄る辺がなかった。
僕は華集先生にミネラルウォーターを渡すと、先生はひったくるようにしてそれを受け取って、がぶがぶと飲み始めた。たぶん、もう酒と水の区別もついていにくらい、酩酊していたのだと思う。
唇の端っこから一筋水がこぼれ、顎を伝って首筋を流れる。どうしようもない大人の姿なのに、僕は初めてその時、華集先生がきれいな人だな、と思った。容姿云々の話じゃない。四十を超えても尚、初恋のひとの思い出を指先に絡めている先生が、愛おしく思えたのだ。
「そう、だから私も人魚になる。溺れたって安心。私の死骸は海底の生き物へのギフトになるから」
先生はアッハッハと笑ってミネラルウォーターをあおった。
先生の手の中で揺れるペットボトルの水は、小さな海のようだった。
華集先生がそれから姿を消したのは、数日後のことだった。
永遠に、先生は僕の前から姿を消した。遺作を残して。
遺作は、鯨にまつわる話だった。人魚なんて登場しなかった。それが僕は、なぜか悔しかった。遺作が、いちばんに良い出来だったのが、尚更悔しかった。
先生が「残すこと」にこだわったのは、きっと初恋のせいだと僕は思う。
初恋のひとが、先生のもとに何も残すことなく泡沫のように消えてしまったことが、先生は口惜しかったのだと思った。だから先生は常に、小説という形で、何かを残すことを願った。
華集先生の担当から外れた僕は、暫くして、出版社を辞めた。
それから最後に華集先生が目撃されたという海の近くに住んで、よく眺めるようになった。華集先生はずるい人だ。僕の中にも、華集先生という存在を残した。そのせいで僕もまた、海に惹かれている。
華集先生は今どうしているのだろう。
人魚になった初恋の人と再会しているのだろうか。
それとも、海底で幸福のギフトとして、横たわっているのか。
僕は深海へと落ちていく先生を想像して、思う。
先生、そこは、幸せですか?
きっと春の海底には幸福が寝そべっているのだと信じて。
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