僕のセンパイア

桃川時雨

僕のセンパイア

 突然だが僕が思い焦がれている女性の話をしても良いだろうか。いや、いやだと言われてもしてやる。彼女の名前は西町誉にしまちほまれ私立夜原よるばら学園の生徒会長だ。学園の高嶺の花、才色兼備で完全無欠。誰にでも優しくて美しい存在。美の女神たちも裸足で駆けだす類まれなる容姿の持ち主だ。

 特徴的なのは輝く白銀の髪。どこかの国とのハーフという噂や、純日本人なのに赤子の時からこの輝く髪の毛だったという噂も流れている。校則的には染髪はNGのはずなので、やはり先輩は地毛なのだろう。瞳も薄っすら茶色、それどこか光の加減では赤やピンクに見える気がするのでどこかのハーフというのは本当なのかもしれない。

「きょーやくん」

 そう、このように声も美しい。少しハスキーかつ色っぽい声はあどけない少女のような見た目とのギャップを醸し出している。おかげで学院の老若男女問わずに彼女は好かれているのだ。集会で生徒会からのお言葉がある時だけ全校生徒皆背筋を伸ばして静聴するほどだ。

綾瀬川京也あやせがわきょうや!」

「あ、えっ……!」

 叫ばれてから初めて眼前に広がっている景色に気が付く。まさに西町誉先輩その人が、僕の顔を覗き込んで仁王立ちしていた。そこでと気が付いたのだが今はバイトの休憩中だったわけで。先輩の眉間にはほんの少しだけ皺が刻まれて、その頬はまた少しだけ膨らんでいる。怒っていても大変に美しいのだけど、僕は慌てて顔を上げた。今考えてたこと、全部口に出てたりしないよな。先輩の顔色を窺っているとそのままずい、と僕の方へと顔を寄せる。ふわりと香る花の香りにとろけてしまいそうになった。

 何故彼女が僕のバイトの休憩室に居るかと言えば、本当に偶然同じ本屋で働いているというそれだけのこと。いや、別に参考書を買いに来た時に店内で見かけたから面接を受けたとかそんなことはない。そんなことをしていたらストーカーも同然だからね、そんなことないない。

 僕がまた思考の海に沈んでいると先輩がその細い指で僕の額をつっついた。白魚のような指の感触を脳内で反芻しながらも動揺が表に出ないようにぎこちなく先輩と視線を合わせた。初心者人形師に操られるマリオネットばりにぎくしゃくしていたことだろう。

「呼んでるんだから返事くらいしてほしいなあ、寂しいじゃない」

 腰に手を当てて眉を下げ怒った素振りをする姿も可愛らしい。そういえばもう彼女がシフトに入る時間だったなと思い出す。ちなみにシフトの時間も偶然だか時折被っている。これも本当に偶然だ。同じ学園に通っているのだからバイトに入ることのできる時間も似通っても仕方ないだろう。

「ちょっと考え事をしてまして……」

「ふうん……あ、店長がね、奥の箱の中陳列しておいてだって」

 先輩はつい先ほど来たところなのか、手に持っていたエプロンを僕の目の前で身につけながらその桃色で艶やかな唇を動かしていた。見蕩れてしまいそうになる反面、彼女の発言から休憩を終えて本を並べないといけないという事実に胃が痛む。いや、学園の高嶺の花と奇跡的にバイト先が同じなんだ。彼女と過ごせるのならどんなきつい仕事も出来そうな気がする。ていうか店長も先輩に頼むんじゃなくて僕に任せるんだもんな、彼女の魅力にやられているに違いない。学園内で人気と言ったが彼女の虜なのは学園外の人々も同じことだ。

「京也くんにばっか力仕事させようとするよね、あの人。レジが落ち着いたら手伝うからね」

「いや、先輩にそんなことさせられませんよ。大丈夫です、僕だけで」

「やっさし~、ありがと。でもいいのよ、私だって体を使う覚悟でこのバイト選んでるんだもの」

「じゃあ手隙だったらでいいんで。僕、もう並べてきます」

 満面の笑みで力こぶを作って見せる先輩だったがそれよりも体を使うという表現にドキマギしてしまったのはここだけの話だ。このままずっと話していたい気持ちはやまやまだが仕事をしなければならない。会釈しながら休憩室にあった段ボールを抱え、店内の棚の前まで運んでから荷解き、作者順に並んでいる棚に新刊を差し込んでいく。このバイトを始めた当初は俺はただのヒョロ長ガリメガネで、こういった作業も接客も不慣れだったけれどそれらも先輩が優しく教えてくれたおかげで今はもう何も問題なくこなすことが出来る。通っている学園が同じというだけで僕に良くしてくれる先輩はやはり天使なのだろう。

 叶う事なら先輩のことを僕のものにしたい。けれど路傍の石以下の僕が告白なんかしたところで嫌な顔をされるか、困らせてしまうだけだろう。

 だから僕は。

「困ります!」

 考えながら作業をしていると劈くような女性の声が店内に響いた。先輩の声だ。慌ててしゃがみの姿勢から立ち上がり、声のした方向へ駆け寄る。

 そこにはにやにやと笑っている品の悪そうな男性客が、どうやらグラビア雑誌……下手するともっと低俗な本を先輩に見せつけている光景があった。レジでの会計中のようだけど何があったのかとさらに近づく。

「別に俺は、この本が店員さん的にはおすすめかどうか聞いてるだけじゃんかあ」

「おすすめとか、ないので……!」

 豊満な胸の女性が表紙のそれを先輩の顔に近づけながら、その表紙の女性の体と先輩の体を見比べているようだ。そのうえ、その露出度の高い雑誌についての感想を求めているのか。何て最低な男だ、完全なセクハラじゃないか!

「お客様、何かありましたか」

 今すぐその男を殴ってやりたい衝動に駆られながらぐっと拳を握って堪えてはレジにいた先輩の前に庇うように立つ。自慢ではないが俺は身長が高い。申し訳なさそうな口調ながらもその男を高い視点から睨みつけていると迷惑客は舌打ちをして、雑誌を買うこともやめたのかさっさと逃げてしまう。なんだ、おすすめが知りたいなら凶悪殺人鬼の出てくる小説でも紹介してやろうとしたのに。それにしてもちょっと背が高いだけの男子高校生に睨まれて逃げる程度の心の弱さで先輩に嫌な思いをさせるなんて言語道断だ、出禁にしてもらおう。

「先輩、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫。そんなこと聞いてくるな変態野郎!って言い返したかったのにびっくりして何も出来なかった……」

「異性にあんな絡み方されたら誰だってそうなります」

 一度奥で休むことを提案したものの、先輩は首を振ってレジ打ちを再開した。なんて強い女性なんだろうか、僕がもし女性で今の絡みをされたら気持ちが悪すぎて泣いてしまうと思う。先輩が大丈夫だというのならこれ以上何も出来ることは無く、放置していた段ボールのところへと戻る。けれどどうしても気になって棚の影に隠れて先輩を見てしまう。先輩のことを守りたい、助けたい。先輩に僕をもっと見て欲しい。むしろ僕だけを見て、そうしたらきっと嫌な想いなんてしないだろう。

 だから、僕はある計画を立てた。


 ◇


「先輩お疲れ様です」

「お疲れ、京也くん」

 すっかり陽が落ちて、書店の外は暗くなっていた。先輩と僕は帰り支度を終え、店を後にする。月明かりに照らされる先輩の髪は宝石みたいにきらきらと輝いて見えた。その美しさに息を呑む。そのままずっと眺めていたいけれど、家に帰らないといけない。先輩はいつも僕と逆の道に歩いていくから、ここで解散だ。先輩がじゃあね、と踵を返していこうとする。

「あの!」

 思ったよりも大きな声が出てしまう。先輩も僕を見つめ、目を見開いて固まっていた。とんでもなく気まずい空気を打ち消す様に言葉を続ける。

「家まで送らせてもらえませんか」

「え?」

 先輩がきょとんとした声を上げた。

 バイト中のこともあり、先輩を一人にしたくないという気持ちが強い。あわよくば、良い雰囲気になることが出来ないだろうかという下心もだいぶある。それでも、彼女一人で夜道を歩かせたくないという想いは本当だ。学園の高嶺の花を、僕程度の人間が送り届けるというのも変な話だが。いや待てよ、こんな可愛らしい少女が本当に一人なのだろうか?家族の迎えがどこかに来ていたりするかもしれない。……最悪、家族じゃなくて彼氏が近くまで来ていたりするのかも。

「あ、親の迎えとかあるなら、……全然、断ってください」

 声が震えてしまう。もっと自信をもって言葉を発したいのに先輩のオーラで全てが跳ね返されていく。

「じゃあ、……お願いしてもいい?」

 返ってきたのは、そんな簡単な肯定の言葉だった。

 半ばダメもとでの提案だったものの、あっさりと承認されて拍子抜けしてしまう。けれどめちゃくちゃに嬉しくて、小躍りしてしまいそうになるのを堪えながらも僕は先輩の隣に並んで歩きだした。

 何か気の利いたことでも言いたいのに僕の唇は緊張でからからに乾いて何も紡ぎだせない。先輩は、何を考えているんだろう。道案内のために少しだけ先を歩く彼女の肩を見つめてもわからない。

「京也くんって優しいんだね」

「えっ?」

 突然先輩が振り返って微笑む。ふわりと花みたいな香りが漂って、心臓がどくりと鳴る。見つめていたことはバレていないようで、先輩はさらに続けた。

「私今ね、親元を離れて一人で暮らしてるの」

「そうなんですか?」

「うん。だからそこに一人で帰るの正直心細かったし……ほら、さっき男の人に絡まれたのもあったし。だから京也くんが送るって言ってくれて嬉しかったんだ」

 花束のように微笑む先輩。いい雰囲気になれたら好都合なんて思っていた僕はなんて愚かなのだろう。まるで女神のような彼女に邪な気持ちを少しでも抱いてしまった。けれど、だからこそ。僕は先輩のことが欲しい。自分のものにしたい。

 そして、戻れないほどぐちゃぐちゃにしてしまいたいのだ。


 ◇


 墓地の近くを通る。夜の墓地は酷く不気味だが、その奥に高級そうなマンションが見えた。先輩の足もそちらに向いており、どうやらここに住んでいるようだ。高そうだが立地があまり良くなさそうだ。ここに一人で帰ってくるのは心細くもなるだろう。入り口で先輩が動きを止める。そうだ、僕の役目はここまで。名残惜しいがここでお別れ……と思っていた矢先に先輩がくるっと髪を翻して振り向いた。

「ねえ、折角送ってくれたんだしお茶でもしていってよ」

「え?でも、こんな時間に迷惑じゃありませんか」

 時間は夜。こんな時間に女性一人の部屋に男が押しかけていいのもだろうか。よりにもよって校内で誰よりも人気のある西町先輩の部屋に上がり込むことなんて僕にはありえないことだ。

「いいの、上がって?」

 先輩がマフラーを外しながら部屋に入る。ここまで言われたら断って帰ることも出来ずに錆びたブリキ人形のような動きで僕もそれに倣った。靴を揃えて、先輩にここに座ってと言われるがままに綺麗なソファに腰を据える。鼓膜に直に心臓が張り付いているみたいにずっとどくどくとやかましい。イメージ通りに片付いている部屋をじろじろ見るのも失礼かと思って膝に手を置いてじっと耐える。目の前のテーブルに可愛らしい猫のマグカップが置かれた。

「お待たせ、どうぞ?」

「い、ただきます」

 緊張しているせいで今僕が何を飲んでいるのかよくわからない。けれど温かくて心地よくて、このままここで眠ってしまいそうなくらいだ。

「京也くん」

 先輩が俺の隣に座る。触れ合う肩が妙に熱くて、そこだけ燃えているみたいだ。その熱が顔にまで回ってきて、きっと今僕はとんでもなく情けない顔をしているだろうことが良そうに容易い。先輩が美味しい?と問いかけて僕の顔を覗き込む。ふわりと漂う甘い香りに篭絡されてしまいそうで、目の前がちかちか明滅する。だめだ、好きだ。ギリギリでせき止めていた気持ちが一気に溢れかえる。そうだ、僕はこの人のことが大好きだ。大好きで、愛していて、だからこそ自分のものにしたくて。ぐちゃぐちゃにしたい。そう、ぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃに。


 ぶっ殺してみたいのだ。


 隣に座る彼女の細い首に勢いよく手を伸ばすと、二人で体ごとソファから崩れ落ちる。先輩が何やら声を上げて驚き、何度も僕の名前を呼ぶ。それもお構いなしに僕はちょっと力を入れただけで折れそうな首筋に自分の手という首輪をかけた。奇妙なくらいぼやける思考のまま、手に力を入れる。先輩が、首が、別の生き物みたいに何度も痙攣する。

「きょ、……や、く」

「先輩、僕……。先輩が好きです、大好きなんです!皆が振り向くようなその美しい外見だけじゃない、僕は貴女の性格含めて愛しているんです!」

 出したことの無いような大声を上げる。この声で近所の誰かに通報されるだとかそんなことは関係なかった。周りの事なんて何一つ気にならない。今はもう、目の前でもがいている先輩の事しか考えられなかった。ねえ先輩、僕本屋でバイトしたおかげでこんなに力が強くなったんですよ。貴女をモチベーションに頑張ったんですから。

 先輩と付き合えるなんて思ってはいない。僕のような冴えない男の恋人になるメリットがないからだ。この前読んだ小説の中に登場した凶悪殺人鬼は愛する人を手ずから殺していた。そうすることで、自分の腕の中で彼女が永遠になるからだ。先輩を永遠にしたい。先輩が死ぬ瞬間の顔を唯一見た男になりたい。

「永遠?」

 僕の考えは、どうやら口から駄々洩れだったみたいだ。先輩が掠れた声でそう投げかけて来た。そう、永遠になってほしい。

「きょう、やくん……わ、たし……」

「先輩?」

 上手く聞き取れなくて少しだけ絞める力を緩め、先輩の口元に耳を近づける。荒い呼吸が耳を擽って、酷くこそばゆい。それでも先輩の最期の一呼吸まで受け止めたい一心で、次の言葉を待つ。

「君のこと」

 その言葉を聞いては淡い期待が胸を打った。もしかして、先輩も僕のことを好きだったりするのだろうか。だとしたら、両想いということになる。僕のものになるというのなら、尚更他の人間に横取りされないように徹底的に壊さないといけない。先輩がその美しい唇をはくはくと開閉させて、最期の言葉を吐き出そうとする。絞めている手を完全に離して、油断だらけで傾聴の姿勢をとる。

「君のことね、ずっと食べてみたかったの」

「えっ?」

 熱い。

 言葉の意図がわからないまま一瞬呆けた隙を突かれたのか先輩が動き出す。開けられた口に鋭い牙のようなものが光ったと錯覚した途端、僕の首筋に強烈な熱が走った。ワンテンポ遅れて、鋭い痛み。先輩が僕の首筋に噛みついていた。脳が真っ白になり、いつの間にか立場が逆転して馬乗りになられている。首からどくどくと血が流れているのがわかる。けど、先輩はその噛み痕に吸い付いて流れた先からそれを喉を鳴らして飲んでいる。酷く煽情的でくらくらしたが、先輩の瞳が赤く爛々と輝いていることに動揺もした。これではまるで──吸血鬼ヴァンパイアだ。

「凄い美味しい、君の血」

「せ、んぱい……これ、どういう」

「ネットで買った睡眠薬なんてやっぱり信用できなかったなあ、きょーやくんちっとも眠る気配がないんだもの」

 先程まで首を絞められ死の淵に瀕していたとは思えない可憐さで、先輩が僕の首から口を離してからそう語った。僕の意識は朦朧として、体が動かせない。これが盛られたらしい薬のせいなのか失血のせいなのかはわかりかねた。そんなことはお構いなしで先輩が満面の笑みで僕を見ている。先程痕がつくほど絞めた筈の先輩の首には、傷一つない。まるで吸血鬼と言ったが、これはもう正しく。

「今考えてることで大体当たってるよ、京也くん」

 床でへたっている僕の髪を先輩がかき混ぜる。撫でられているというシチュエーション的には本望でしかないのに僕からはひゅーひゅーとした呼吸しか発せられない。何も言えない僕を見て満悦そうに口角を上げている先輩が、今度は僕の首の傷をつつく。今しがた噛みつかれたばかりで劈くような痛みが走り、電気を流された蛙みたいに全身がびくついた。

「このままだと死んじゃうかもしれないね、可哀想」

 お間抜けコンテストなら優勝間違いなしの僕の挙動を見て憐れんでいただいているとこ申し訳ないんだけど、そもそもの発端は貴女が僕の血を吸ったからですと言いたいが唇が思うように動かない。いや、それに発端はそれではないだろう。僕が先輩の送り狼にさえならなければ良かった話だ。とんでもない人に手を出してしまったと後悔する。

「私って吸血鬼だったんだよね、気付いてた?」

 この人普通に昼間も学校に居なかったか?夏にはしっかり半袖も着ていたし、学校行事もかかさず参加している筈だ。それにバイト先の店長がニンニクたっぷりのラーメンを食べた直後に現れて皆が臭いで嫌な顔をしていた時だって、先輩は嫌がってこそいたものの死にそうにはなっていなかった。吸血鬼について日光やニンニクが駄目というくらいの貧困な知識しかないのがバレてしまうが先輩はそのどちらもクリアしていた。

「キリンが高い位置の草を食べるために首を伸ばしたようにね、吸血鬼も進化するんだよ。そりゃ古の一族の吸血鬼たちはテンプレートな弱点で死んじゃうんだけど。現代に生きる私は違う。少なくとも陽の光やニンニク、流水辺りは敵じゃないのよ……あ、流石に銀の弾丸とか杭は試したことがないんだけどね」

 弱点すら克服してしまっているのなら、貧弱な僕が首を絞めたくらいどうってことなかったわけだ。本屋バイトで筋肉がついただのイキっていた自分が途端恥ずかしくなる。そしてそろそろ本格的に、意識が危ない。

 僕はきっとここで死ぬ。けれど最期に見たのが先輩の美しい本性というのは、案外幸せなものだ。貴女がどんな人であれ、あるいは人でなしであれ、吸血鬼であれど。やっぱり壊したいほど、殺したいほど、美しい。僕のものにしたい、僕だけが独占したい。せめて先輩の正体を知ったのが僕だけであってほしいと願った。

「処女の血って美味しいんだよ」

 先輩が、僕の頬をそっと撫でる。その手はちっとも温かくなくて、むしろ冷え切っている。

「それと同じでね、童貞の血も美味しいの」

 先輩の口から童貞という単語が出るとは思わなかった。低俗とは無縁の人が口にする下ネタって正直めちゃくちゃに価値がある。

「だから君の血、すっごく美味しかったの」

 だからね、じゃないが。というかそもそもどうして僕が童貞だと知っているんだこの人。美味しかったから童貞だと言っているのか、あるいはもう童貞丸出しだから僕を狙ったのかどっちなのだろう。……なんとなく後者な気がしてとても質問する気にはなれなかった。

「ねえ、京也くん。死にたくない?」

 欲を言うなら、死にたくはない。

 壊したいとか、殺したいとか色々言ったものの結局のところ先輩が好きだから独占したいというだけの話で。

 それは死んだら成し遂げられなくて。

 先輩の傍に居たい。生きて、いたい。

「せ、んぱい……す、きです」

 僕の口から出た言葉は、まぎれもない愛の告白だった。生きたいでもない、死にたくないでもない。ただの告白。

 先輩は僕の言葉を聞いても、驚きもしない。ただうっすらと笑みを浮かべて僕の様子を見ている。そして耳に髪をかけて、僕の顔に近寄った。また花の香りがして、動揺する。

「じゃあ、付き合おうか私たち」

「え」

 熱い。

 熱いのは首筋じゃない、唇だった。

 食事の誘いでもするくらいの気軽さで出された先輩の提案に反応を示す間もなく、唇が塞がれた。口と口だ。つまりはキスだ。

 先輩が、僕にキスをしている。そのことだけでもう頭が真っ白になりかけているのに、口内から鉄の味が広がる。血だ。

「私の血も美味しいでしょう?」

 慌ててばっと離れると、先輩の唇から血が垂れている。どうやら自分で噛み切って、血を僕に飲ませたらしい。

 そして今気づいたが体が動く。混濁していた意識はピントが合うようになり、首に手を当ててみると傷がすっかり消えていた。

「私の血ってね、治癒効果があるみたいなの」

「……それより先輩、付き合うって」

「京也くんは私が好きなんだよね?」

 それは勿論、はい。今更恥ずかしがることも出来ずに素直に頷く。

「殺して永遠にしたいくらい、好きです」

 結局、失敗したけど。

「あは、京也くんって熱烈なタイプだったんだ。でもそんな君の性癖も受け入れてあげる」

 僕の愛が勝手に性癖ということにされていた。別に人間を甚振る趣味があるわけじゃないんだけどな。何ならこんな風に考えたのは先輩に対してだけだ。

「私、京也くんの血の味気に入っちゃったの!だから、定期的に吸わせて欲しいんだ」

 甘いお菓子を強請る子供のように、屈託のない笑顔で。言っていることは、僕を飼い殺して餌にするという提案なのに。またきっと、朦朧とするまで吸われて、瀕死に陥ってから先輩の血で治癒されるのだろう。それの繰り返しを享受する代わりに、僕の恋人になろうということだろう。

 そんな目の前にぶらさげられた人参を食らうわけにはいかない。その人参には毒が入っているからだ。

 けれど、抗えない。

「わかり、ました。先輩……、僕の恋人になってください」

 いいよ、と先輩は簡単に頷いた。


 ◇


 朝だ。昨日どうやって自宅まで帰ったのか一向に思い出せないけれど、僕は自分の部屋のベッドで体を起こした。騒がしいアラームを止めて、大きく伸びをする。身支度をしようと洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を洗い流す。昨日のことが全て夢だったんじゃないかと思えるくらいに、いつも通りの朝。けれど傷一つなくなった首の痛みを、すぐにでも僕は思い出すことが出来る。あの痛みだけが、昨日のことが夢ではないと痛烈に思い出させてくれる。

「京也、女の子が迎えに来てくれてるけど……え、彼女でも出来たの?」

 身支度を終えトーストを齧っているところに母親がにやけ面で報告してくる。慌てて牛乳で流し込んでから鞄を持ち、母親を押しのけて玄関のドアを開ける。

「おはよう、京也くん」

 そこには予想通り、先輩が立っていた。

 昨日散々赤く光っていた瞳はいつも通りの澄んだ茶色に戻っているし、やはり何も変わらない。先輩も何事もなかったかのように、そこに立っている。……いや、そもそも彼女が迎えに来ているという時点で異常事態だ。

「おはようございます、先輩」

 僕の先輩は吸血鬼だ。そして、その高貴な吸血鬼は僕の恋人になったらしい。

 そして僕は餌として、傍に居ることを許された。一度彼女を手にかけようとした僕がだ。

 先輩のことは殺せなかったけれど、餌という形でこの人を独占することが出来るのなら悪いことでも無いだろう。

 それならきっと幸せだ。

 歪みに歪んだ恋人関係が始まる。

 それに妙にわくわくしながら、僕は先輩の隣を歩きだすのだった。

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