そして、わたしは秋を知る

ももとせ鏡

第1話




 これは夢かもしれないといつも思ってしまう。

 いつの間にか目の前に立っている彼に、私は「またこの季節が始まったんだ」と知り、そして、「またこの季節が終わるんだ」と知る。

 すぐそばに自分を映してくれるものがあればいいのにな、と毎回思う。彼に私はどう映っているのだろう。嬉しくて笑みがこぼれてしまっているのだろうか。初めて会った時のように不思議そうな顔をしているのだろうか。それとも、これが最後になるかもしれないという不安と悲しさでいっぱいになった顔をしているのだろうか。







 冬が始まるその前の季節。寒さを少しずつ感じる季節。道に並ぶ木たちの葉が赤、黄、緑、さまざまな色に染まる季節。

 クローゼットの奥に仕舞っている赤いマフラーが少しずつ自分の頭の中を占領し始める。あと数ヶ月は残っているのに、今年ももう終わりかと考える。

 ひらひらと舞い落ちてクシャリと音を立てる葉たちが、地面を隠そうと準備を始める。

 家からバス停までのほんの少しの距離がさまざまな感覚を生み出す。

 寒さがどんどん増してくるから、大切に置いていた服たちが活躍する。着込むことが徐々に増えて、だから暖かくもある。そんな季節。


 いつものバス停が見えてきて、ポツンと置かれた時刻表にこれからバスを待つ自分の姿を重ねる。

 利用者の少ない時間帯なのだと思う。一人でバスを待つ時間は結構好きで、バスが到着するまでの時間と、空間と、景色が自分だけのものになったように感じる。




 肌に当たる風が冷たい。私の髪をふわっとさせた風が枝についている葉を飛ばす。

 地面へと落ちていく赤色の葉に、自分の視線が惹きつけられる。ほんとうに一瞬だった。

 もう落ち終えた葉に私の視線は向けられていない。視線をバス停にいる一人の男に注ぐ。

 バスが来るまでのその間、いつも私だけしかいないそのバス停に人がいる。少しずつ鮮明になる横顔と、いつもとは違う景色に、不思議な感情が自分をまとい始めた。




 何かを感じ取ったのか、男は私の方を見る。

 あと二、三歩。はっきりと見えた顔に覚えがあって、不思議な感情は残ったままだったけれど、私はその感情の背景をだんだんとわかり始めていた。


 ずっと会いたかった人なんだ。夢に現れる人なのに、何故かこうやって現実にいる。

 見上げた先、視線がつながる。

 例えようのないほど独立した美を持った顔立ちと、伏せがちな光の入らない目が少し怖かった。黒い髪が揺れて、前髪が目を隠すたびに綺麗な人だと思った。

 その人は優しく微笑んで、真っ直ぐ私を見ていた。










「やぁ」


 想像していた声よりも少し低い声だった。微笑みを残したまま私に向かって挨拶をした彼に、なんと返答すればよいのか迷って少しの間が生まれる。


「夢に現れるだけだと思っていた人が現実にいるなんて、これって夢なのかな?」

「夢じゃないよ。ほっぺたつねってあげようか」

「うーん……、遠慮しとくよ」


 現実ではまだ一度も体験したことのない空間にいる。夢には何度も現れたけれど、現実で会うのは初めてだ。




「驚いた?」

「うん。まさか会えるなんて」


 バスが来るまであと少し。彼の着ているロングコートの裾が吹いてくる風に合わせて揺れる。

 彼と話しながら彼の足元を数回確認する。浮いてもいないし、霞んでもいない。地面に足をつけて、私の目の前に、現実にいる。




「どうして会いに来たの?それもこんなに突然に。夢の中じゃ、あなた一言もしゃべってくれないから」

「大きな理由はないよ。なんとなく、君がこの季節を好きだからこの季節に会いに行ったら喜ぶかなって。それが『今』になったってだけ」

「もう冬になっちゃいそうだけど?」

「……確かにそうだね、ごめん。実を言うと……、本当はこの季節が始まる日に会いに来るつもりだったんだ。だけど、ちょっと忙しくてこんなタイミングになっちゃって。事情があって、この季節だけしか君に会えないから大変だったよ」

「四季の中で三つも会えない季節があるの?」

「会おうと思えば会えるけど、自分の身体が受けつけてくれないんだよ」


 先ほどまでの会話よりも声が曇って聞こえた。不思議な身体でしょ?と小さく儚げに言うから、それ以上知ろうと思えなかった。







 もうすぐバスが来る。ここに着くまでの最後の交差点を通ったくらいだろう。

 彼は「バスが来るね」と言って視線を逸らす。

 一人で何かを待つ時間はとても長く感じるのに、誰かと一緒いるだけでそれはひどく短くなってしまう。




「ねぇ、この季節が始まってから終わるまではあなたに会えるの?」

「ああ」

「さっき、この季節が始まる日に会いに来ようとしてたって言ってたよね?あなたはどの季節がいつ始まるのかわかるの?」

「わかるよ。終わる日もね」

「せっかく会いに来てくれたんだもの、一つお願いしていい?」

「何だろう。『毎日会いに来て』はお互いのことを考えたらおすすめできないかな」

「違うよ。私、この季節が本当に好きなの。だから、もっともっとこの季節を好きになれたらいいなって思うの」




 視界の奥にいつものバスが見えてくる。




「秋が始まるその日に私に会いに来て。それで、秋が終わるその日に別れを告げに来て。毎日とか、数日に一回とか、一週間に一回とか、そんなことしなくていい。秋の始まりと終わりの日に必ず私に会いに来て。次の年もその次の年も。それがお願い。いいかな?」

「いいね。うん、そうするよ」

「大好きな季節の始まりと終わりをあなたに会って知れるなんて、こんなに幸せなことないと思うの」

「うん」


 弱く柔らかな風が吹いて、散らばっていた落ち葉がカサカサと音を立てて流れていく。

 ああ、もったいないなぁ。

 冬がもうそこまで来ている。想像していたよりも早く、今年の秋の終わりに彼に会えそうだと思った。それと同時に、終わってから始まるまではどれだけ長い時間なんだろう、彼を待つ日々は私にとってどんな時間になるのだろう、と思った。


 彼と私のつながれた視線の中点を、風で飛ばされた一枚の葉が通り過ぎていく。







「秋の終わりに。またね」



  

 私たちのつながれた視線を切って、視界を一瞬覆った葉はもう遠くへ行ってしまって、もうどの葉がその葉なのかわからなくなってしまった。

 目の前にいた彼はもういなくて、いつも乗るバスがちょうど停車した。

 この時間に、この空間に、この景色にいるのは、私と時刻表とバスだけだった。

 吐く息はまだ白くならなかったけれど、その輪郭を持ち始めていた。

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