夏の魔法がずっと続けばいい
景
知らない思い出
絵を描き始めたのは長い眠りから覚めた日の夜だった。
枯葉を踏んで階段を上る。一軒家が建ち並ぶ住宅街の隅を目指して、俯きながら歩く。少しだけ肌寒い風が髪を揺らす。木枯らしが吹いている。空にはまだらに雲が動いていて、陽が沈もうとしている。閑静の中、足音だけが聞こえる。
そんなふうに、帰路に潜む夏の終わりの様子を頭の中で言葉にしながら、いつも歩いていた。虚しくもなく、十分な高校生活なのに、無意味な不満足感を感じながら。
家に着くと、暖かい食事が待っている。早めのこたつがリビングに出ているのを横目に、自分の部屋へ向かった。
部屋へ来て最初にやることは睡眠でも、動画鑑賞でもなく、絵を描くことだった。
絵を描くと言っても、大掛かりなものではなく、小さなスケッチブックに何でも良いから描くだけだ。今日見た景色でも、頭の中に浮かぶ不思議な景色でも、何かを描き起こすことは欠かさず行う。
なぜ、絵なんかを始めたのかはよく覚えていない。とりわけ趣味も日課もない自分の生活に刺激を与えたかったのか、ただの一日の記録か、いつかどこかで見た景色に途方もなく見惚れたか。
稚拙な絵でも、少ない時間でも、描いた。
その絵達は、どれもまばらな作風だったが、一つだけ共通点があった。
それは、ある女の子の姿を描くこと。
その人は僕が昔、死別した女の子だった。幼い頃だった。毎日のように会って、毎日のように遊んでいた。明るい子だけど、隠れてよく泣いていて、時折見せる寂しそうな顔に寄り添っていた。
今はこの世界にいないその子を、宛ら今も生きているように絵を描いた。
彼女の高校生の姿を想像する。黒髪が長くて、横顔が笑っている。夏が終わる、今日の帰路の風景にいないはずの彼女を描く。色づいた木の葉と、落ちていく陽。そこを歩く彼女がこちらを振り向き、微笑む。
知らない思い出をスケッチブックに描く。
時間が経って、ふと窓の外を見ると、月が浮かんでいる。
目を細めながら、僕は思い出す。
「とーやは何も知らないんだね。」
楓、という漢字が読めない僕にそう見下す彼女の名前は春目楓(はるめかえで)。生まれながらに関わってきた幼馴染だ。そして、尾崎冬也(おざきとうや)、それが僕の名前だ。
学校に通い始め、文字を初めて教わる小学校一年生の頃、自分の名前を漢字で書くことのできない僕に楓は上から目線だった。当然喧嘩になり、こんなことがこの時期は何度も続いた。それでも、本当に楽しかった。
帰路を二人で歩きながら、夕暮れの陽の美しさに見向きもせず、話をした。
「やっぱり僕は、勉強が嫌いだな。ペンを持つのが僕は嫌いだよ。」
「たしかに。とーやは勉強嫌いそう。だってとーやは何も知らないし。私も勉強ばっかりするのは嫌だけど、ペンを持つのは好きだよ。」
「勉強以外にペンを持つことなんかある?」
「あるよ。絵を描くとき。」
「絵か。あんまり得意じゃないな。」
僕がそう言うと、楓は小さく微笑んで、じゃあ一緒にお絵描きしてみようよと誘ってきた。僕が拒否すると、分かっていたような顔をして歌を歌いながら帰路をゆっくり進んだ。ひぐらしの声が聞こえていた。
そんな夏の魔法がずっと続けばいいと思っていた。
小学校四年生、十歳の夏、彼女が病気であることを初めて知った。
何の病気だったか覚えていない。覚えなくても良いと思った。彼女がいる病室を尋ねてはいつも通り話をした。楓はいつも通り笑っていた。
十歳の夏が終わる頃、楓は息を引き取った。
高校生最後の夏が終わった今、死別した彼女を絵に描き続けてきたが、どれを見返しても単なる想像であることに小さい息を吐く。
夜に浮かぶ月が、僕を見ている。失ったその人の分まで生きるというのはよく言うが、その人の人生はその人のものだから、勝手に扱えやしないと僕は思う。勝手に自分のスケッチブックに、亡くなった人の姿を描く奴が思うことじゃないか、と自虐する。
今日は夏が終わったから、楓のことを思い出しすぎてしまった。一度部屋から出て、気晴らしに海でも見に行こう。
徒歩約五分のところにある小さな海を目指して、歩くことに決めた。海といっても、湾で、防波堤くらいしかないところだが。
暗い夜の下で、鈴虫の声を聞きながら歩いた。小さな鞄にスケッチブックを持って。
防波堤に着くと、どうやら先客がいるようだった。大学生くらいの男達で、タバコを吸っている。仕方なく引き返して、近くの公園で海が見えるベンチに座った。
月が揺れる海を目に入れながら、スケッチブックにその景色を描き込んだ。風景が描けたら、ベンチを付け足して、また、そこに座る楓を思い浮かべた。
「何を描いているんですか。」
不意に横から声がして、散歩中の女性に声をかけられたことに気づき、顔も見ないで、
「風景です。」
と返した。
「綺麗に描けていますね。今描き込んでいるのは、女性?」
「そうです。ここにはいませんが、想像して描いたんです。ちょうど貴方くらいの、」
そう言いかけて、女性の横顔が目に入り、手に持っていたペンを落とした。
黒く長い髪。背丈は僕より少し低くて、同い年に見える。酷く懐かしい声。
彼女は少し時間をおいて、目を細めて言った。
「冬也は何も知らないんだね。」
夏の魔法にもう一度かかった気がした。
夏の魔法がずっと続けばいい 景 @kei1062
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