海辺のエピカ
栞子
海辺のエピカ
ドボンと派手な音を立て、舟の上からルーチョは海に落ちた。
とはいえ漁師であるルーチョは当然泳げるし、幸いにも季節は夏で水温は高い。周囲には友人の舟が多々浮かんでいる。久しぶりにやっちまったなぁ、と慌てることなく手足で水をかきながら呑気に助けを待っていた。
「おーい、ルーチョが落ちたぞー手ぇ貸せー」
「今年一番の大物だな」
「なーにやってんだァ」
他の漁師の面々もルーチョに余裕があると分かっているので口々に好き勝手言いながらのんびり舟を寄せる。
「おらよ」
「すまんな」
仕事で日焼けし太くなった逞しい腕が二人から差し出され、ルーチョはそれに縋った。
転覆しないよう気をつけ舟に乗ろうと手をかけたところで、引っ張られて海面から半分ほど伸び上がった体がずるりと水中に沈んだ。
「おっと、気ィつけろよ」
濡れて滑ったかと仲間が引き揚げる手に更に力を籠める。ルーチョもより強く腕を握った。
無事舟に戻れたルーチョは仲間に礼を言い、酒を奢る約束をちゃっかり取り付けられてから漁を再開した。しかしどうにも集中できない。
――――あれは確かに。
不気味な確信がその日一日尾を引いていた。
「まあ、海に。大丈夫だったんですか、ケガは?」
今日の出来事を夕飯の最中ふと会話に挟み込めば、ルーチョの想像以上に妻のエーヴァは心配した。
「いや、なんもない。ちゃんと魚も獲れてるだろう?」
「ならいいんですけど……」
食卓に並ぶ獲れ高はルーチョの言うとおり普段と変わりない。
自分の食事より先に息子のジャコモに離乳食を与え、汚れた口周りを布で丁寧に拭いているため視線は合わないが、心配性のエーヴァは気がかりが残っていそうな声色だった。
「ただなあ、ちょっと気になることがあって」
「! やっぱりケガを!?」
「違う違う、海からこう、揚げてもらう時にな。下に引っ張られたような気がしたんだ」
「引っ張られた?」
「おかしいだろう? 一体海の中に誰がいるってんだよな」
笑い話にするつもりで披露したのだが、エーヴァは物を言いたげな顔つきでルーチョをじっと見ている。
「これから暫く、海では気をつけてくださいね」
「? もちろんさ」
漁夫の自分に何を今更なことをと軽くあしらうルーチョとは反対に、エーヴァの眉尻は下がり顔には心配の影が差したままだった。
それからしばらくして、漁況に異変が生じた。今年の漁獲高は安定しているのが漁師の実感だったが、急に魚が獲れなくなり近年稀にみる不漁の気配が漂ってきたのだ。このままでは冬を越せない家庭も一つ二つでは済みそうもないと危惧した町民たちは、神意を確かめることにした。
代表者数名が山を越えたところにいる巫女を訪ねかくかくしかじかと訴えればすぐさま神降ろしの儀が始まった。何がしかの呪文を唱え、鉦を鳴らせばやがてその瞬間は訪れる。
「日に
「余は豊けく生命の源、海洋を統べる女王シレーナである」
巫女に憑いたのは、漁師たちが普段から崇め奉る女神だった。
「シレーナ様、日に
「此度の不漁は余が為した」
「我ら漁師の尊き守護者様、なにゆえ斯様なことをなさいますか。今年の水祝いは無事執り行いました、不手際がございましたか」
「否、余は新たな伴侶を所望する。さすれば海はこれまで以上の恵みを齎すだろう。若し余の望みを叶えなければ、海からは小魚の影すら消え、大波が町を襲う」
人間の都合など頓着せず力を振るい望みを叶えようとするのはまさに神。住民は額づき、一方的な要求を呑むしかない。
「か、畏まりました。確かに男を用意します。ですのでどうか大波だけは……」
「次の満月の夜、月光でできた道の上を歩くことで余の元に辿り着ける。ゆめ忘れるな、伴侶となるべき男の名は――――」
「オレが海の女王の婿に、ですか……」
ここいら一帯の漁業を仕切る熟練の漁師と町長、更には長老が揃ってルーチョの家を訪れたのは町に戻ったその晩すぐだった。誰も彼もが寝静まった時間であるが家主を叩き起こし、三人が玄関先で事のあらましとシレーナの要求を告げる。寝起き同然のルーチョだが、あまりの内容に頭が冴えてきた。しかし話を理解するのと吞み込むのは別物だ。その不信感を表情から読み取った長老が口を開いた。
「あまり知られてはいないが、数世代に一度女王が伴侶を望むのは記録にも残っていてな。望みを叶えず女王の機嫌を損ね災厄に見舞われたのも一度や二度ではない」
「さ、災厄って……」
「女王は不漁と津波をほのめかした」
あまりにも強大な脅しにルーチョは黙り込むしかできなかった。口を閉ざしたまま、深夜の来訪者と見つめ合う。
自分の命と町一つ、秤にかけろと神は――――町の信頼篤き三人は言っている。
冷静に考えをまとめようと、ルーチョは目をつむり深呼吸を一つした。真っ暗な瞼の裏に愛する妻と息子の顔が思い浮かぶ。
「オレは、この家唯一の稼ぎ頭です。オレが婿入りして皆が救われても、妻や息子にそのしわ寄せがいくなら到底頷けない」
まずは一番重要なことを伝える。大事な家族が蔑ろにされるのだったら了承するはずがない。
「この町の長として断言しよう。家族の生活は私が永続的に保証する」
「俺の獲る魚なんて大した助けにもならんだろうが、それでも食うに困らないよう協力は惜しまない。ジャコモが働けるようになって望むなら、うちで預かってもいい」
「これまでの婚礼で女王は返礼に海の幸を婿の親類縁者に恵んだ。きっと今回も同じであろう。宝を売ればすぐに困窮することもあるまい」
それぞれの答えをルーチョは真面目に聞いているようだが、頷いたり舌打ちしたりすることもなく無反応とも言える姿勢に内心を推し量れず、三人とも気が気でない。
とはいえ答えを急かすことは憚られた。小さな町だ。全員が顔見知り以上の関係だし、この家に生後間もない赤ん坊がいることも知っている。一人は出生届を受理し、一人は祝いの酒を一緒に飲み、一人は名前の候補を授けたのだから。事態は危急存亡の秋ゆえルーチョが断れば交渉を粘るつもりだが、さりとて率先して前に出ようとは誰も思えなかった。
「他に心配事があるならなんでも言ってくれ。金だろうと家だろうと用意できるものはなんでも用意する。町の救世主としての名誉も一家全員に授けよう。だから……どうか」
町長が頭を下げる。
「海の女王と招婿婚」とだけ聞けばめでたい慶事のようだが、言ってしまえば人身御供だ。
自分一人の身を差し出せば、この町で暮らすなんの罪も犯したことのない子供も、寄る辺ない老人も無事生きられる。ルーチョは悩んだ。しかし、逡巡は本人も驚くほど短かった。
「次の満月はいつですか」
「二日後だが……」
「随分急だな。いや恐怖でくじける前に海に行く方が都合がいいか」
「う、承けてくれるのか」
目を見開き確認する市長に、どこか遣る瀬無さを滲ませてルーチョは答える。
「オレ一人の命で町民全員が助かるならば、腹を括りましょう」
あの僅かな間で、息子と妻の次には隣人や仕事仲間の顔が次々と眼裏に思い浮かんだのだから。
そうして迎えた満月の晩。波は穏やかで夜空には雲一つなく、月明かりは皓皓と眩しい美しい夜となった。
浜には二日前と同じ顔触れにエーヴァを加えた五人が集まっていた。ルーチョの希望で事の次第はこの数人の間でしか共有されなかった。
「誠に申し訳ない、前途ある若者にこんな役目を負わせて」
「もういいんです、諦めましたから」
「海の底でも達者で暮らせよな」
「アンタも若くはないんだ、仕事と酒は程々にな」
「長として感謝する。家族のことは安心して任せてくれ」
「本当にそれだけは頼みます」
代表三人と最後の会話を終えたルーチョは、数歩下がったところで唇を固く引き結んだ妻の許へ歩み寄った。腕の中では息子が安らかな寝息を立てている。
「エーヴァには、ずっと迷惑かっけぱなしになっちまったな」
「……海で何かに引っ張られた話を聞いたときから、なんとなく分かっていました。貴方が人智の及ばぬ存在に見初められたのだと」
「そうか……なあエーヴァ。これが最後の迷惑だと思って聞いてほしい。オレのことは忘れて幸せになってくれ。君は若いから再婚もすぐ叶うだろう」
「わたし、貴方に一生迷惑かけたりかけられたりして、暮らしていきたかった」
「妻と息子の命がかかっているんならなんだってするのが男ってもんさ。ジャコモを頼んだよ」
覚悟を決めたルーチョの目をじっと見据えたエーヴァは静かに目を伏せてから、長老に我が子を預けた。そうして自由になった手でゆっくり左薬指から金の指輪を引き抜く。
「これを」
言葉少なにルーチョの腕を取り指輪を嵌める。一回り小さなエーヴァの指輪はルーチョの薬指に収まらず、一番細い小指を選んだ。別離の時間を引き延ばすかのようにゆっくり輪を通すエーヴァと、そんな瞬間まで目に焼き付けようと動かず視線を指先に定めるルーチョ。妻の何もかもに愛しさがこみ上げてくるばかりだった。
「わたしのこと、忘れないで」
「もちろん」
無言で見つめ合い、もう二度とできない抱擁とキスを短く一度交わす。若い夫婦の別れはここで終わり、ルーチョは父親として最後に眠るジャコモの頬を優しく手の甲で撫で、家族に背を向け海へ歩き出した。
海面には月光が反射し金色の道が拓けている。波にゆらめく細道はたよりないが、本当にこの上を歩けば女王の許へ行けるのだろうか。
不安は意図的に無視して靴を脱ぎ、ルーチョは裸足で入水した。光を頼りに真っ直ぐ進めば、くるぶしより上が濡れない。遠浅だからという理由だけではない。水の上を歩く初めての経験に、こんな機会でなければきっとルーチョの胸は弾んだだろう。
一体どこまで行けばいいのか分からないまま水平線まで続く道を進めば、やがて階段を一段ずつ下るように体が徐々に水中に沈んでいく。夜に消えて海に滲むまで陸の四人はその後ろ姿を一心に見つめていた。
女神との結婚から数日後、網には魚が戻って来た。どころか今まで以上の漁獲量を記録していた。ルーチョの覚悟やエーヴァの悲しみを知らない漁師は連日陸に戻っては喜色満面に魚の勘定に励む。
ある晩、耳元で響く潮騒にエーヴァは目覚めた。波のざわめきはまるで砂浜で寝ていたのかのような音量だった。
予感に従い玄関扉を開けると、暗闇に小山が築かれている。欠け始めた月の光を反射する鱗が見え、正体は魚と分かった。
いや、魚介だけではない。屈んで確認すれば、珊瑚、真珠、琥珀、龍涎香、塩など、海で創られるありとあらゆる宝の数々が積み上がり、女王の返礼と一目で分かった。
こんなものを貰っても……複雑な気持ちでエーヴァが検めていると、金の光が埋もれていた。ハッと息を詰め手を伸ばしてつまみ上げる。
「ルーチョ……」
涙ながらにエーヴァは二つの指輪を握り締めた。シレーナは残された者のささやかな願いも許してはくれなかった。
以降左手の結婚指輪と同じ金の指輪がエーヴァの右親指に嵌められ、終生外されることはなかった。
海辺のエピカ 栞子 @sizuka0716
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