【7】修羅場
朝日が眩しい。
そしてぬくい。
ヒバナは複雑な心もちで、隣に眠る男の顔を眺めた。
寝顔さえも美しい男ツバキは、ヒバナの躰を逃がすまいと固く抱きしめている。
あれからツバキは「愛しい旦那様。では続きは寝所で」と言うと、ヒバナを軽々と抱き上げて部屋へと連れ帰った。
待ってくれ、勘弁してくれ、まだ心の準備が、と青ざめて懇願するヒバナを彼は優しくベッドに寝かせて、自身もベッドに横になり、優しく抱擁して――しかし、それ以上のことはしなかった。
接吻ひとつもしない。
そして気づけば、朝を迎えていた。
ヒバナは心を無にして、密かに考えた。
(わたしにはやはり、魅力がないのか……?)
顔は悪くない、と思いたい。
だって仮にも、あの美しさの暴力みたいな兄ヴィオレットの妹だ。アンタたち兄妹のわりに似てないわねぇ、とユノにはよく言われるが。
ヒバナは用心棒という仕事柄、舐められないように男装をしている。髪は短く、化粧も施していない。残念なことに、女性らしい躰つきとも程遠い。
(わたしのような可愛げのない女は、女として見られぬだろうよ)
ツバキはとにかく顔がいい。相手には困らないはずだ。こんな旦那様で申し訳がないと思う反面、ちょっとくらい……と思う気持ちもある。
(いや、『ちょっとくらい』って、何だ)
ヒバナは煩悩を振り払い、瞼を閉じた。まだ起きるのには早い。二度寝をしようと決めたのだ。
甘えるように彼の首元に顔を寄せて、やがて訪れる睡魔に身を委ねた。
***
(旦那様……いや、ヒバナは、可愛いな)
二度寝をしたのだろう、スヤスヤと穏やかな寝息を立てる少女の顔を眺めながら、ツバキは思う。
口では色々と言ったが、結局ツバキはヒバナに手を出さなかった。どこか物欲しそうな顔をする彼女には悪いことをした、と思うけれど。
(だってヒバナは、まだ俺を愛していないからね)
この優しい少女は、ツバキが助けられた恩義から、旦那様と傅いている――そう思い込んでいるのだろう。
だが、それは彼女の思い違いだ。
ツバキの心は、彼女に奪われている。
暗殺者集団〈黒卿のしもべ〉、殺生鬼の『紅焔』。それがツバキの、以前の名だ。
東都のとある高位貴族。政に深く関与する老人――〈黒卿〉。
彼は護身用に腕の立つ剣士や魔術師を抱えていたが、後ろ暗いことに手を下すために、密かに暗殺者たちを育てていた。それが〈黒卿のしもべ〉たちだ。
黒髪赤目は美しい容姿に、何かしらの才を秘めている。
彼は武芸や魔術の素養がある美しい鬼たちを集め、暗殺術を教え込んだのだ。それは巷では『殺生鬼』とも呼ばれた。
物心がつく前に実親に金で売り払われたツバキは、老人に『紅焔』と名付けられ、人を殺す術を、人心を掌握する方法を叩きこまれた。
幸か不幸か、ツバキには『人殺し』の才能があったらしい。仕事に失敗して、命を落とす殺生鬼は少なくはなかった。だが、ツバキは生き延びた。
ツバキの分岐点は数日前のこと。
〈黒卿〉は、多方面から恨みを買っていたらしい。彼の命は度々狙われていたが、先日、夜分に屋敷を襲撃され、命を落とした。
唯一の生き残りはツバキだけ。
主を失った殺生鬼は、自由の身だ。
だが、ツバキは困り果てた。
(自由って、何だろうな)
考えたことなかった。だって今までそんなもの、与えられたことがなかったから。
耐え難い暮らしだった。逃げ出したいと、何度も考えた。やろうと思えばできたのだ。それをしなかったのは、逃げた後の生活が想像もできなかったから。
それに選ぶことで、また失敗する。
たった一度の選択が、ツバキに重い枷を嵌めていた。
生きる術はあれど、何をすればいいか分からない。そんなちぐはぐな葛藤を抱えたツバキはちょっと良い身なりをした男に声をかけられた。
それが人売りであることに気づきながらも、無知を装い話にのった。
『奴隷』は『奴隷』として生きるのも悪くないと、そう考えたからだ。
そして、結果としてヒバナに拾われた。
(ああ。次はこの女に仕えるのか)
ツバキは終始、意識があった。だが、意識がないふりをしていた。
人売りが〈悪死鬼〉に襲われて、目論見が外れた。いざとなればツバキが〈悪死鬼〉を倒すつもりでいたのだが。
難なく〈悪死鬼〉を倒した少女はツバキを見捨てず、遊郭に連れ帰った。
なるほど。ツバキは美しい。だから売り払われるのかと思ったが、そうではないらしい。
『もう、何も恐ろしくはないよ。貴殿を脅かす存在は、退けたのだから。自由の身だ。だからな、安心するといい』
恐いものはなにもないと、優しく微笑む彼女の顔を見て――ツバキはひどく胸が苦しくなった。
〈黒卿のしもべ〉に所属していた頃は、心の休まる暇なんてなかった。常に、心を研ぎ澄ませていた。仲間ですら信じられなかった。戦場では見捨て、見捨てられる。それが当然のことだったから。
おのれを守れるのは、おのれだけ。そう思って生きてきた。
助けてもらったのは初めてだった。安心してくれ、と笑いかけてもらったのも初めてだったのだ。
自由の身だと、貴女は言うのか。
様々な感情がぐちゃぐちゃに入り乱れて、絡みついて、ねばついて、ああでも、この感情の正体を一言で表すなら、それは『恋』で、つまり『愛』だと、ツバキは思った。
だから、ツバキはヒバナの傍にいることを選んだ。自らが望んだ結果、彼女はツバキの『旦那様』なのだ。
できることなら、今すぐにでも彼女の躰の隅々まで知って、まだ誰も知らない彼女の中を暴いてしまいたい。愛したい。
ツバキの理性が支配されかける。けれど、その下劣な欲を、必死に押し殺す。
ツバキはヒバナを愛している。
けれど、それは一方的な愛だ。
ヒバナがツバキを愛してくれたその時、ツバキはこの愛しい旦那様を抱くのだ。
美しい皮を被った醜い獣の本性を知っても、より深く愛してくれるように。
今は愛してもらえなくても、逃すつもりはない。絶対に落として見せる。
(だってヒバナは、俺の旦那様だからね)
額に接吻を落とす。それだけのことでツバキの胸に幸福が満ちた。柔らかそうなくちびるに触れても許されるだろうか。だってとても、美味しそうなんだもの。
ツバキが密かに考えていると、扉が乱暴に開けられた。
***
二度寝を気持ちよく堪能していたヒバナは、ブルリ、と身が凍るような冷気で飛び起きた。
これは比喩ではない。部屋に霜が降りていたのだ。
この感覚、覚えがある。ありすぎる。
氷の魔術は、兄が好んで使う。
もっとも、最愛の妹に向けて使うことはなかったが。
(敵襲か!?)
寝ぼけた頭で身構えるヒバナに、声がかけられる。
「おはよう、私の可愛いヒバナ」
色気がありながらも、砂糖を目一杯溶かして、ドロドロに煮詰めたような、甘い声。
(あっ……)
冷たさと嫌な予感にヒバナは歯をガチガチと鳴らし、まさか、まさか……と震えあがりながら声の元へ視線を向ける。
ヒバナご自慢の兄上ヴィオレットは、扉に身をもたれるようにして立っている。
天女のような顔は美しく微笑んでいる。でも、笑っていないと、直感で分かった。
「ねえ、私の愛しいヒバナ。この男は、だあれ?」
「ええと、その……」
ヒバナがそよそよと視線を泳がせると、さりげなくヒバナを背後から抱きしめたツバキが代わりに言う。
「わたくしは旦那様の夫。ツバキと申します」
「だんっ……!? ツバキっ!」
「旦那様? 夫?」
「ええ」
艶然と微笑むツバキに、ヴィオレットは訝しげな視線を向ける。
三者の間に漂う空気は、いたたまれない。
ヒバナはこっそり、胃を押さえた。胃が痛い。
「続きは仕事の後でとお願いしたのに、なかなか私の自室に訪れないから、君の大好きなお兄様が迎えに来てあげたのに――」
ヴィオレットはすっと表情を消して、ツバキを睨んだ。
「私とヒバナの愛を脅かすの? 薄汚い間男が」
「間男? いいえ、わたくしは正式な夫です。そうですよね、旦那様?」
(だから、違うのだが……)
否定をしたくとも、見えない火花をバチバチと散らす両者を前にして、ヒバナは口を挟むことができなかった。
一人の女を巡って、二人の男が奪い合う修羅場。
遊郭〈夜鷹〉でも、たまに見られる光景である。ヒバナも観衆として楽しんだ。いいぞもっとやれーと、酔ったユツと冷やかしたこともあった。
だが、いざ当事者となってみれば。
「早急に存在自体消えろ。それとも私が優しく介錯してあげようか? ねえ、間男」
怖い。
「戯言を。わたくしを生かすも殺すも、それは旦那様、ヒバナ様の一存にございますので。そうでしょう、愛する旦那様?」
こっちはこっちで重い。
(待って、待ってくれ……)
ヒバナは頭を抱えた。
まさかこんなにも厄介な状況に身を置かれるとは、考えもしなかったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます