【6】お父様は寛大なのよ

「ヒ~バナちゃん? これまた随分と、派手に暴れてくれたみたいじゃないの?」


 部屋の惨劇を目にしたサクヤは、開口一番に言う。

 首の後ろをガシガシと掻く、その声色は、呆れているようだった。

 異変に気づいて駆けつけたのだろう。サクヤの後ろには鉄鍋で顔を覆うユツの姿がある。

 サクヤは右手の指がいくつか欠損した狼藉者の前に、足を広げてしゃがみこむ。


「ふーん……」


 ヒバナも男を検分する。

 彼は意識を失っている。出血量は激しいが、死んではいない。

 サクヤは顔だけを向けて、なかなか部屋に入ろうとしないユツに命じた。


「おいユツ。医者を手配しろ。急げよぉ? 不届きものでも、ウチの中で死なれちゃあ困るからな」


「あ、ああ! 分かった!」


 鍋を帽子のように被ったまま、ユツがバタバタと廊下を駆ける。

 その慌ただしさに、何事か、と部屋から顔を出す娼婦や客たちの姿を目にして、サクヤはチッと舌打ちする。


「ああもう、あの馬鹿。目立たねーように、静かに急げっての」


「それは無理な話ではないか?」


 部屋の扉を乱暴に閉めて、娼婦の様子を確認するサクヤに、ヒバナは思わず突っ込んだ。

 娼婦もまた気絶しているが、目立った怪我はない。可哀想に。首元に細く赤い線が走っている。浅い傷だ。出血は止まっているらしい。

 サクヤは娼婦をベッドに横にさせると、窓枠に腰を下ろし、片足を立てる。

 彼は部屋を見渡し、肩をすくめた。


「あーあ、こんなに血ィ飛び散らせてよぉ。掃除する身にもなってみろ。いやヒバナ、テメーが代わりにやっとけよ?」


「ああ、承知した……」


 壊れた家具についても、ヒバナに過失がなくとも、弁償することになるだろう。


(いや、納得がいかぬ……)


 元を辿れば、こいつが悪いのだとヒバナは狼藉者に視線を向ける。今のうちに金目のものはひん剥いてしまおうか。

 ヒバナが密かに浮浪者じみた考えを抱いていると、サクヤが訊ねる。


「で、旦那様。可愛い婿さんは、何でここにいるんだ?」


「それは……」


 ヒバナは口籠る。


 ――あえて、かつての身分を名乗るとすれば。わたくしは暗殺者集団〈黒卿のしもべ〉、殺生鬼のひとり、『紅焔』。


 美しく、羽虫も殺せぬような嫋やかな物腰の男の正体は、悪名高い暗殺者なのだという。

 この惨劇。実は彼奴がやらかしたのだ、と、軽々しく口にして良いものか。


(いや、よくないだろ)


 絶対に追い出される。下手したらヒバナも「暗殺者ァ? おいおいヒバナテメー、なんて厄介なもん連れ込んでやがる!」と叩き出されるに決まっている。

 それは困る。ものすごく困る。

 ヒバナがどう返せばいいか言いあぐねていると、ツバキは上品に微笑んで言う。


「ふふっ、お父様。旦那様の危機に駆けつけるのは、良夫の務めですよ?」


「ほー。だってさ。愛されてるねぇ、旦那様?」


(だから、お父様でも旦那様ではないのだが……)


 しかし、ヒバナの援護のおかげで、何とかうまくやり過ごせそうな気がしてきた。

 いやあ、お熱いねえ、と顔を手で仰ぐサクヤは、ニヤリと笑ってヒバナに言う。


「ヒバナ。アンタいい拾いモンしたなぁ? 面が良くて、旦那様想いで、従順で、そして……最上級のアサシン」


「…………ふぇっ?」


「〈黒卿のしもべ〉、殺生鬼。界隈では有名な暗殺者だ。知らないのか?」


 問いかけられて、ヒバナは狼狽える。


(えっ、えっ?)


「な、なんで……サクヤが知って……?」


 彼の告白を、サクヤは聞いていなかった。だから、知っているはずがない。

 混乱するヒバナを尻目に、サクヤは狼藉者の男の右手に鋭い視線を向けている。


「なあ、ヒバナちゃんよぉ。見てみろよこの断面。綺麗な切り口だろ? ちっとも躊躇った形跡がない。ヒバナ、甘ったれのテメーには無理だ」


「……そん、な」


 確かに躊躇った。

 生身の人間を切る。

 娼婦が命に脅かされても、ヒバナは迷いを抱いた。


「ヒバナ。気づいてるか。アンタの手、さっきから震えてるんだぜ」


(ああ……)


 ヒバナは絶望した気持ちで、ゆっくりと視線を下ろす。

 ああ。彼の言う通り。ヒバナの手は、小刻みに震えている。

 こんなことにも気づけないだなんて。


「でもな、ツバキは笑ってんだよ。綺麗な顔してさ。全然動じてねぇ。旦那様の危機に駆けつけて、まるで手を下した張本人じゃあねぇか」


「はい」


 ツバキはニッコリと微笑んだ。どのような場にあっても美しい。その顔に、恐れや脅えは浮かんでいない。

 彼はヒバナの躰を後ろから抱きすくめると、迷いなく言い切る。


「愛する旦那様を守るのも、わたくしの務め。この手を汚すことに、どうして躊躇いがあるのでしょう?」


 ***


 わたしはなんて未熟なのだろうと、ヒバナは思った。

 用心棒でありながら、覚悟を決めきれない。

 下手をすれば、娼婦は死んでいたのだ。

 いや、あのままだったら……。

 ヒバナはくちびるを噛みしめる。

 すると、抱きしめる力が一層強くなった。


「ヒバナ様。愛する旦那様。どうか、御身を大切になさってください」


「…………ツバキ」


「わたくしを守ってくださったように、今度はわたくしが、貴女を守ります。貴女を傷つけようとする悪意をすべて、うち滅ぼしましょう」


 優しく、骨の髄まで融かすような、甘やかさ。

 彼の言葉に身を委ねれば、楽になれるのだろうか。


(ちがう……)


「ちがう。ツバキ。わたしは、守られたいのではない。守りたいのだ」


 かつて、無力だった自分。

 飢えて死にかけた兄を背負って、街をさまよった。

 誰も、ヒバナたちに手を差し伸べなかった。薄汚いガキと罵られ、殴られた。それでも諦めずに、遊郭〈夜鷹〉に駆け込んだ。

 また、追い払われると思った。

 けれど、サクヤはヒバナたちを迎え入れた。

「金がねぇなら、躰で払えよ」とぶっきらぼうに言って、温かいスープを食べさせた。

 だからヒバナは考えた。

 もう弱いおのれではいたくない。居場所を守るために、強くなりたいと。


「助けてくれたことには感謝する。ツバキ。でもな」


 彼の腕を振りほどいて、その美しい顔を対峙する。


「よいか、ツバキ。良夫を名乗るならば、旦那様の帰りを家で待っていろ。いいな?」


 ヒバナが命じると、彼は途端に、きょとんとした顔をする。

 意外に思った。大人びた表情で上品に微笑む彼も、こんなふうに、年相応にあどけない表情をするだなんて。


「……ツバキ?」


「……嬉しいです」


「えっ?」


「あれほどつれない態度をとられていたのに、ようやくわたくしを夫と認めてくださるのですね、愛しい旦那様?」


「はっ、いや、ちがっ……! 言葉の綾だっ!」


 反論するヒバナを、ツバキはぎゅっと抱きしめる。身長差があるので、ヒバナの顔はツバキの胸元にすっぽりと納まってしまう。

 なるほど暗殺者。見た目に反して、胸板は存外厚い。そして何だか、香を焚いているのかいい匂いがする。


「おい、離せツバキ!」


「嫌です。永遠に、逃がしませんよ?」


「はぁ!?」


 ヒバナは暴れたが、しかしクスクスと笑うツバキの拘束は強い。顔を真っ赤にして何とか引っ剥がそうとするヒバナに、サクヤはゲラゲラと笑いながら言った。


「いやー、初々しくてたまんねぇなぁ。お父さん年甲斐もなくキュンキュンしちゃう」


「笑ってないで、助けろっ、サクヤっ」


「そんな野暮なことできないっての。今日はもう上がっていいぞ。やらしーことすんなら、続きはテメーの部屋に戻ってやれよ?」


「ちょ、嘘だろ!?」


 部屋を出て行こうとするサクヤの背中に、ヒバナは真面目な声色で問いかけた。


「その……ツバキは、元だが、暗殺者だ……。いいのか?」


「なんか問題あんの? いいか。〈夜鷹〉はな、来るもの拒まず、去るもの追わずがモットーでね」


 サクヤは太々しく笑うと言った。


「俺が血も涙もない人間だったら、ヒバナ、テメーはアニキともども路地裏でくたばってたはずだろ?」


(ああ……、そうだったな)


 変わらない。サクヤは昔から、そういう人間だった。

 路地裏で暮らしていた頃のヒバナであれば、この良夫を名乗る男を見捨てていた。

 サクヤの大きな背中を見て育ったヒバナだから、ツバキを拾うことになったのだ。


「なるほど、なるほど。お父様は、寛大で頼りがいのある御仁」


「おう。お父様は寛大なのよ」


 繰り返すサクヤは、ちょっと照れているようにも思えた。

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