【4】兄上には知られたくない秘め事
全然、よろしくない。
絶対に嫌だ、あってたまるかとごねるヒバナに、サクヤは他人事のように言った。
「いいじゃねーか。だいたいヒバナ、テメーもそうまんざらでもないだろ? 絶世の美鬼殿に傅かれて、嫌な思いをする奴ァいないからな」
「わたしは、ツバキをそういう目では、見ていない。断じて、見てないっ」
ヒバナは憤然として、サクヤに言い募る。
確かに、彼の美貌にちょっとだけくらっとしかけたが、嘘ではない。
「それに、ツバキを迎え入れてみろ。食い扶持が増えるぞ。敏腕経営者。いいのか?」
「ハァ? テメーが旦那様なんだろ? 食わせてやれよ。嫁……いや婿か?」
「わたくしはどちらでもかまいません」
大人しく成り行きを見守っていたツバキが、すかさず答える。
「ああそう。なら婿ね。ツバキくんは男の子だしね。で、ヒバナちゃんよぉ。婿さんに食わせる甲斐性くらい、旦那様ならなくっちゃなぁ?」
「だから、わたしは旦那様ではない! それにそれに、部屋はどうするのだ!」
「んなもん一緒に寝りゃあいいだろ。旦那様なんだし?」
段々と面倒くさくなったのか。サクヤは手をヒラヒラと振りながら、身を翻す。
「じゃーな。俺もう行くわ。店も開ける時間だ。ヒバナァ。用心棒の仕事だけ、忘れんなよ」
「ま、待ってくれ、サクヤっ」
なおも食い下がるヒバナに、サクヤはめんどくせぇと言いたげな顔をしていたが、何か考えついたのだろう。
彼はニヤニヤと口の端を上げて笑うと、口元で囁いた。
「ちょうどいいじゃないの。乙女のヒバナちゃん。アンタまだ男を知らないだろ? あの兄ちゃんに抱いてもらいな」
「なっ……!」
ヒバナは顔を真っ赤に染めると、くちびるをわななかせた。
「あの綺麗な顔だ。前の『旦那様』にはたいそう可愛がられて、色々とイイ感じに仕込まれただろうよ。面がいい。経験も豊富。初めての相手にこれ以上適した男はいるかねぇ」
サクヤはしたり顔で、部屋の扉の取っ手を掴む。
「じゃーな。若人たち。お父サマは空気を読んで、ここらで退散とするわ」
「さ、サクヤっ! 待ってっ」
サクヤは今度こそ部屋を出て行ってしまった。
どうしよう。どうしよう。
そろそろっと、ヒバナはベッドの上に視線を向ける。
何故か狭いベッドの半分を開けて、ツバキが座っていた。
「旦那様?」
「だ、だから、ヒバナと……」
「失礼。ヒバナさま。どうぞ、こちらへ」
「なななっ、なん、なんでぇ?」
上擦った声で問い返せば、極上の笑顔を浮かべて、ツバキは言う。
「ヒバナ様の初めてをいただけるとは、わたくし、光栄です。精一杯、つとめさせていただきますね」
バッチリ聞かれていた。
(もうやだぁ、もうやだぁ……)
ヒバナは頭を抱えた。前途多難である。
***
二人きりの空間が気まずい。そう感じているのは、ヒバナだけかもしれないが。
沈黙に耐え切れず、ヒバナは口を開いた。
「ツ、ツツツツ、ツバキっ」
「はい、何でしょう?」
ニッコリと微笑んでツバキが首を傾げる。ヒバナとは違い、随分と余裕が感じられた。
「その、わたしには、必要以上に、近寄るなよ?」
「近寄ったら、どうなります?」
ヒバナには服従の姿勢を取っていた彼から、まさか聞き返されるとは思わなかったので、ヒバナは困惑した。
「ど、どうなるって……。その…………怒る……?」
「分かりました。でも、怒られるのは、わたくし、嫌ですねぇ」
ヒバナはハッとした。
彼は奴隷だった、と言っていたではないか。
不条理に怒りをぶつけられた経験もあっただろう。これはヒバナの浅慮な発言だったと、深く反省する。
「すまない、ツバキ。わたしは君を怒りはしないよ。だが、その……。わたしが困るのだ」
「ヒバナ様を困らせるのは、わたくし、嫌です」
「そうか。よしっ。どうか、私を困らせないでくれよ?」
「ところで」
ツバキはさも思い出したかのように切り出すと、頬に人差し指を当てた。一見、媚を売っているような姿も、彼がすると様になる。
「ヒバナ様。先ほどお父様が、『仕事を忘れるな』と仰ってはいませんでしたか?」
「サクヤは父ではないが……。そうだな、仕事に行かねばな」
色々とありすぎて、すっかりと頭から抜け落ちていた。
ヒバナは軽く身支度を整えると、ベッドの上に座るツバキにキリっとした顔で、しっかりと言い聞かせた。
「いいか、ツバキ。わたしはこれから仕事に赴く。重要なお役目だ。わたしが帰るまで、お願いだから、部屋からは一歩も出るなよ?」
「差支えなければ、お手伝いいたしましょうか? 旦那様を心身ともに支えるのは、夫であるわたくしの務め」
「不要だ。君に用心棒の荒事が務まると思えぬ」
いいとこのお坊ちゃんのようなこの物腰柔らかい美男子が、暴れる狼藉者を相手に出来るものか。
仮にそうなればわたしが守らねば……とヒバナが密かに考えていると、ツバキは健気にも言う。
「では、わたくしは陰ながら応援させていただくということで」
まさしく、夫を支える良妻といったところか。彼は夫でも、妻でもないが。
その気持ちを真っ向から否定するのも可哀そうだと、ヒバナは苦笑しながら頷く。
「ああ。何かあったら頼むよ」
「はい。承知いたしました。無事のお帰りをお待ちしております。わたくしのぬくもりで、寝床を温めておきますね?」
「……好きにしてくれ」
もはや言い返す気力もなく、ヒバナは力なく言うと、自室を後にした。
(どうにかツバキを安全に、独り立ちさせる算段をつけねばな……)
ヒバナは十七歳。結婚適齢期真っ盛りだが、まだ婿を取る予定はない。
そもそも色恋沙汰に無縁で、そんなこと考えもしなかったのだ。
美貌の鬼、ツバキ。
確かに顔はいい。ハッキリ言って、好みの顔だ。
幼い頃から遊郭で育ったヒバナは、美男や美女の類が好きなのである。
美しい彼に慕われて、サクヤの言う通り、嫌な気持ちなどなるものか。
手を取られ、傅かれ、接吻を落とされたあの焼けるような熱を思い出せば、心臓はバクバクと不穏に音を立てるのに。
だが、ツバキは奴隷。
窮地を救われたことで、恩義を感じているのだろう。
彼の弱みに付け込むようなかたちで、彼と夫婦となっていいのか。いや、なる気はないのだが。それは人道を外れた行いではないか。
(ただ、わたしだけが翻弄されているような気もするが……)
ツバキは何だか、楽しんでいる節があるように思えた。まるでヒバナを手のひらで転がすような、余裕さえ感じられた。
しかしそれは、彼が生き抜くために身につけざるを得なかったのかもしれない。
(なんだか、嫌だなぁ……)
せっかく自由の身になったのだから、彼には心も躰も、自由になって欲しい。交わした言葉は少ないが、ヒバナはそう考えていた。
それに、仮に、仮にだ。彼を婿とするのなら、最大の障害がある。
(あの人には、絶対に知られたら、終わりだ……)
最悪の未来を想像して、ヒバナは内心、頭を抱えた。
ヒバナの自室は、娼婦たちが客を取る部屋からは離れている。下働きや裏仕事を担当する者たちの、専用の宿舎があるのだ。
ヒバナは比較的仲の良い同僚の部屋の扉を、開けざまに言った。
「おい、ユツ! 話を聞いてくれ! 困ったことになったのだ――」
「困ったことって、なあに?」
思いがけぬ声に、ヒバナの喉がヒュウ、と鳴る。
色気がありながらも、砂糖を目一杯溶かして、ドロドロに煮詰めたような、甘い声。
声の主は、部屋の主ではない。
幼い頃から、よく知っている声である。
「あっ、あにあにあに、兄上ぇ!?」
同僚のベッドの上に、長い脚を組み、悠然と座るのは、黒髪を腰まで伸ばした男だ。
まるで天女と見紛うほどの美貌。
しかしよく見れば、顔や躰つきは男のそれである。
遊郭〈夜鷹〉で働く男娼ヴィオレット。ヒバナの二つ上の、十九歳。
ヒバナご自慢の兄上でもある。
「兄上が、どっ、どどっ、どうしてここにぃ?」
ヒバナが青ざめた顔で訊ねると、彼は菫色の瞳を眇め、不思議そうな顔で首を傾げる。
「どうしても何も、ここは私の友人の部屋だよ。友人の部屋を訪れるのは、おかしな話ではないだろう?」
そうではある。だが今このタイミングで、居合わせるとは想像もしなかったのだ。
ヴィオレットはベッドから立ち上がると、部屋の入り口で立ちすくむヒバナに近寄り抱き寄せた。
「私の可愛いお姫様。悪い子だね。男の部屋に不用意に入ってはいけないよ?」
悪い男に、食べられちゃうからね。そう囁く彼こそ、非常に悪い男の表情をしている。
今までに数多もの女を落としてきた、男の顔だ。
(ひえぇぇぇぇぇ……)
ヒバナは震えあがりながら、内心悲鳴を上げた。
ツバキのことは、絶対に、絶対に知られるわけにはいかない。
この、ヒバナを溺愛する兄だけには。
ヒバナの両親は幼い頃に死んだらしい。伝聞なのは、当時の記憶がないから。
物心がつくころには、ヒバナとツバキは路地裏で暮らしていたのだ。
それが縁あって、遊郭〈夜鷹〉に引き取られることになったのだが、彼は唯一の家族であるヒバナを愛してやまない。
「ヒバナには私だけがいればいいよ」と公言して憚らない。ちょっとでも男の影があれば、あの手この手で消し去ろうとする。彼の親友であるユツと、恩人であるサクヤは例外だ。
ツバキのことが知れたら、この兄はどんな嫌がらせをするか。想像に容易い。
正直、恐ろしすぎて想像もしたくないほどである。
「ねぇ、私の可愛いヒバナ」
ヴィオレットのくちびるが耳たぶに触れる。掠れた色っぽい声が、鼓膜を震わせた。
「困ったことって、なあに? お兄様に、教えて?」
「そ、そのぉ……」
ヒバナはモゴモゴと口籠る。
自称夫を名乗るツバキのこと。言えるわけがない。
「ふぅん……。それって、大好きなお兄様にも、言えないこと?」
(どうしよう、どうしよう……)
すっかり困り果てたヒバナに、救いの手が差し伸べられた。
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