第2話 怠惰エルフ、試練の地へ
「うう……うぇ……」
波止場に降り立ったリーフは、鮮やかな緑色の髪を海風に乱し、顔は青褪めて船べりにしがみついていた。胃の腑は、大海原の荒波に弄ばれた小舟のように、激しく上下動を繰り返している。陸地の安定感は、今の彼女には遠い夢のようだった。
「リーフ、しっかりしろ! 吐くなら海に吐け!」
師であるアイリスの、容赦のない声が背後から飛んできた。プラチナブロンドの髪を潮風になびかせ、磨き上げられた銀の鎧を身に纏ったアイリスは、荒れ狂う波濤の中でも微動だにしない巨大な岩礁のようだった。対照的に、リーフは今にも倒れそうなほど弱々しい。
「ひぃぃ……無理ですぅ……」
リーフは、生まれたての子鹿のように足元もおぼつかない様子で、よろよろと波止場へ足を踏み入れた。しかし、ようやく陸に上がったと思ったのも束の間、平衡感覚を完全に失い、無情な石畳の上に膝から崩れ落ちてしまった。
「まったく……情けない弟子だな」
アイリスは、心底呆れたように深いため息をつくと、リーフの腕を掴んで力ずくで引きずり起こした。容赦のないその扱いに、リーフは抗議の声を上げる。
「ちょっと、アイリス様!乱暴です!」
「ぐずぐずするな!この港町を見せてやる!」
アイリスは、リーフの抗議などまるで聞いていないかのように、活気溢れる人波の中へと躊躇なく進んでいく。リーフは、強引に引っ張られ、よろめきながらその後を追うのがやっとだった。
そこは、自然と調和した静かなエルフの島とは全く異なる、騒がしく、そしてエネルギーに満ち溢れた場所だった。行き交う人々は、背格好も耳の形も肌の色も様々で、人間だけでなく、見たこともない異種族の姿もちらほら見受けられる。言葉の喧騒、荷車の車輪が石畳を軋ませる音、そして様々な匂いが混ざり合い、リーフの感覚を容赦なく刺激する。
露店が所狭しと軒を連ねる市場では、色とりどりの見たこともない果物や野菜、異国の香辛料、そして奇妙な形をした工芸品などが山と積まれている。活気に満ちた売り子の声、値引き交渉の声、そして周囲のざわめきが、耳をつんざくようだ。
「うわぁ……人が……こんなに……」
リーフは、あまりの人の多さに圧倒され、思わず呟いた。普段静かな環境で暮らしている彼女にとって、この喧騒は過剰な情報として脳に流れ込んでくる。
「当たり前だ。ここは大陸屈指のハブ港だぞ。様々な種族が集まる、活気と欲望渦巻く場所だ」
アイリスは、どこか得意げに胸を張る。しかし、リーフにとっては、ただただ疲労感を増幅させるだけの光景だった。早くこの騒がしい場所から逃げ出したい、と心の中で切に願う。
人混みの中を押し分けて進むうちに、リーフの薄い水色のワンピースは、露店の商品の角に引っかかって小さなほつれができたり、容赦なく通り過ぎる荷馬車の跳ね上げた泥水で汚れたりして、見るも無残な姿になってしまった。
「もう!アイリス様のせいで、せっかくの服がボロボロじゃないですか!」
リーフは、ついに我慢の限界を超え、抗議の声を上げた。服の汚れ以上に、この騒がしい場所に連れ回されていることへの不満が爆発したのだ。
「何を言っている。これからダンジョンに行くのだぞ?そんな服、どうせすぐに汚れる」
アイリスの言葉に、リーフは耳を疑った。まるで雷に打たれたかのように、思考が停止する。
「ダンジョン……?な、なんですって……?」
「今から装備を手に入れる。ついてこい!」
アイリスは、リーフの返事も聞かずに腕を掴むと、有無を言わさず、巨大な建物、冒険者ギルドへと向かった。
冒険者ギルドの正門前に広がる広場は、屈強な冒険者たちで溢れかえっていた。鍛え上げられた肉体、魔法の力を帯びた杖、使い込まれた武器……様々な冒険者たちが、酒場の喧騒にも似た騒ぎの中で、互いに情報交換や仕事の斡旋を行っている。壁一面に設置された掲示板には、討伐依頼、護衛依頼、探索依頼など、様々な依頼書が所狭しと貼り出されており、熱気を帯びた空気をさらに煽っていた。中には、ダンジョンに関する依頼もいくつか見受けられる。
アイリスは、広場の中央で、先に到着していた3人の若い女性に声をかけた。
1人は、燃えるような赤みがかった短い髪を振り乱し、背中に自分よりも大きな剣を背負った、活発そうな少女。もう1人は、深い青色のロングヘアを風になびかせ、先端に宝石が埋め込まれた杖を携えた、物静かな雰囲気の女性。そして、愛らしいピンク色のボブヘアで、背中に丁寧に手入れされた弓矢を背負った、可愛らしい印象の少女。
「アリア、ソフィア、セラ、待たせてすまない。」
アイリスは、3人に軽く頭を下げた。その仕草は、騎士としての礼儀正しさを表している。
「いえいえ、こちらこそお待たせしました、アイリス様。」
剣士の少女、アリアが、快活な笑顔で答えた。他の二人は、軽く会釈をした。
「ご紹介しましょう。こちらが私の弟子、リーフだ。」
アイリスに紹介され、リーフはボロボロになったワンピースを庇うように、恥ずかしそうに小さく頭を下げた。俯いた彼女の心臓は、早鐘のように激しく鼓動している。
「えっと……これから、ここで、何を……?」
リーフは、不安げな声で尋ねた。できることなら今すぐこの場から逃げ出したい。
「今から、この3人と共に、ダンジョンに潜る。」
アイリスの言葉に、リーフは完全に思考停止した。
「ダンジョン……?!なんで……?!」
リーフは、目を丸くして聞き返した。信じられない、という感情が全身を支配している。
「エルフの島の騎士には、代々、ダンジョンで武具を調達するという古くからの習わしがあるのだ。お前も、そろそろ一人前の騎士として認められるために、実戦経験を積む必要がある。」
アイリスは、いつになく真剣な表情で、リーフに言い聞かせた。その言葉には、厳しい師としての責任感と、リーフへの期待が込められている。
「そんな……ダンジョンなんて、嫌です!怖いし、汚れるし、それに……面倒くさいし……!」
リーフは、抵抗を示すために、その場に座り込み、駄々っ子のように手足をバタバタさせた。必死な抵抗は、周囲の冒険者たちの注目を集めてしまっている。
「いい加減にしなさい!」
アイリスは、周囲の視線など気にも留めず、リーフの抗議を完全に無視し、力づくで肩に担ぎ上げた。
「ちょっと!何をするんですか?!降ろしてください!」
リーフは、宙ぶらりんになった状態で、必死に足をバタバタさせながら抵抗するが、アイリスの怪力の前には全く歯が立たない。
「行くぞ!」
アイリスは、他の3人の冒険者に声をかけると、重厚な扉の奥、暗い影が口を開けて待つダンジョンへと、容赦なく歩き出した。
リーフは、アイリスの肩の上で、これから待ち受けるであろう運命に、言いようのない恐怖と不安を抱きながら、情けない声を上げるのだった。
「やだぁぁぁ!ダンジョンなんて、絶対に行きたくないぃぃぃ!」
こうして、リーフの、波乱万丈な、そして全く乗り気ではないダンジョン探検が、幕を開けた。
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