昭和××年七月某日―九月十九日 榛摺村

――お祖父様がお亡くなりになった。


 ということを、私は七月になったある日、中学校から帰ってきてすぐに知った。


 お祖父様はもともと長らく肺を病んでいらしたが、長男である勝弘伯父様を戦争で亡くされてから、一層衰弱されて、お医者様の伊藤先生に数か月間からもう長くないと言われていた身だったので、突然の報せにも驚きはなかった。伊藤先生が速やかに検視をなさったが、その死に不審な点もなかったという。


「華子さん、すぐに皆さま本邸にいらっしゃいます。通夜の準備をいたしますよ」


 学校の荷物を部屋に置いたところで、女中を取り仕切る小梅さんが襖を開けて鋭く言った。はいと頷き、すぐに小梅さんの後を追う。


(お祖父様が亡くなった。どうしよう)


お父様が戦争で亡くなり、そのことでたちまち体調を崩したお母様が亡くなってしまってから、私は御当主様――お祖父様に引き取られた。お母様が死んで一人になった私が路頭に迷わずに済んだのは、お祖父様のお慈悲があってこそだった。そもそも殆ど駆け落ち同然で結婚したという両親だったので、この家の当主の直系とはいえど居候のような存在だ。


とはいえ、これまではお祖父様の直系の孫娘だからということで、どこの種かわからぬ娘、とは言いつつも京嶌の方々は親のいない私を育ててくださっていた。


だが――次男の亘伯父様が家を継げば、私は京嶌家当主の直系ですらなくなってしまう。


このままでは、私は家を追い出されてしまうかもしれない。


(役に――役に立たなくては)


 私は女で、しかも、一人で生きていくには子どもすぎる。


誰かの慈悲がないと、まともに生きていくことすらできないのだから、せめて少しでもこの家に貢献しなければならないのだ。


「あ……いけない。忘れていたわ」


 私は足を止め、部屋の奥の押し入れ、そのまたさらに奥の壁に飾ってあるカカ様に向き直る。美しい女神が描かれているその絵に、二度手を合わせ、二度額づく。


どうかこの先、これ以上不幸なことが起こりませんようにと祈り、私は改めて自室を後にした。


 *


 ――お祖父さまの四十九日の法要ののち、弁護士であり、お父様や伯父様たちの従兄弟にあたる兵衛先生の立会いの下、遺言書の公開をすることになった。


座敷の続き間を仕切る建具を取り払い、遺言書の公開に出席する人数分の座布団を小梅さんら女中たちと共に敷いていった。


弁護士の兵衛先生、その跡取りの賢二郎さんを含め十枚。カカ様の御絵が掛け軸として飾られている床の間に近い上座から、長男勝弘伯父様の奥様である裕子伯母様、次男亘伯父様、その奥様の真紀伯母様、三男博巳伯父様が座っていく。そして私を含めた孫四人は、床の間に向かうようにして並んで座った。出入り口に最も遠い位置から勝弘伯父様のご子息弘文兄様、ご息女雪子姉様、亘伯父様のご息女月子姉様、私華子の順だ。


「それでは、京嶌忠臣翁の御遺言を、読み上げさせていただきます」


 伯母伯父様がたの正面に座った兵衛先生が、封がされていた書類を丁寧に開いていく。皆の間に緊張の糸がぴんと張られたことが、私にもわかった。


「京嶌家次期当主は、次男、亘とする。亘が何らかの理由で当主を務められないと判断されし折は、三男博巳を当主とする」


 順当な当主指名だ。長男の妻である裕子伯母様はご不満そうだったが、何も言わない。


「――もし、両名とも次期当主を務められないと判断されし折は、亘の娘月子を仮の当主とし、月子が結婚せし折は、その婿を京嶌家当主とする」


「な……」


裕子伯母様が、思わずというようにお声を漏らした。


ちらりと見れば、月子姉様も、弘文兄様も驚いたお顔をなさっている。


――無理もない、と思った。何より、私も驚いた。弘文兄様は、今は亡きお祖父様のご長男の御子息。弘文兄様がいらっしゃるのに、月子姉様を仮当主にする理由がない。


 とはいえそれは亘伯父様と博巳伯父様が揃って当主を務められなくなった場合の話である。裕子伯母様もとりあえず口を挟まないことにしたのか、眼を伏せると、それ以上は何も言わなかった。


 ――ただし、兵衛先生が読み上げられた次の言葉で、伯母様はお顔の色を一変させた。


「また、すべての財産は、次男亘と三男博巳で半分ずつに相続させるものとする」


「なんですって?」


 今度こそとばかりに裕子伯母様が赤い唇を震わせ、立ち上がった。拳をぶるぶるとけいれんさせ、かっと開いた眼で兵衛先生を睨めつけた。


「――どういうことですの。それでは、お義父様は弘文と雪子には何も残さないとおっしゃるの? 我が夫勝弘はお義父様の長男なのですよ!」


「ええ、まあ、その」裕子伯母様の剣幕に、たじたじとなりながらも、兵衛先生は頷く。「そういうことに――なりますかな」


「有り得ません。わ、我が夫は、お国のために最期まで勇敢に戦い命を落としたのですよ。この京嶌の家を継ぐのも勝弘様であったはず、勝弘様こそが京嶌の主になるはずだったのですよ。それを……その子らに何も遺さないと?」


弘文兄様が、徐々にヒステリックになられる伯母様の袖を「母さん」と言って咎めるように引く。その手を振り払い、伯母様は甲高く叫んだ。「――そんな遺言書は贋物ですわ!」


「母さんっ」


「お前は黙っておいで。――どうなの!」


「その――裕子夫人がおっしゃりたいことも、私共にはわかるのですがね。この遺言書は忠臣翁と私が協議を重ねて作った、正真正銘の本物なのですよ。法的にきちんと意味を持っておるのです。間違いなく、この遺言書は、忠臣翁の御意志なのです」


「莫迦な! そのような……そのようなこと! 何も遺さないだなんて、お義父様は孫に情はないというの」


「お母様」と、今度は控えめに雪子姉様が裕子伯母様を呼んだ。「あんなにお祖父様に可愛がってもらっていた華子だって、何も遺してもらっていないのですから。わたくしたちばかりが不満をさけぶのは……」


 突然名を呼ばれ、私は面食らって顔を上げた。遺産相続の話など、まるで自分には関係ないことだと思っていたので――実際にそうだった――話の真ん中に放り出され、驚いたのだ。


 しかし伯母様は、雪子姉様の言葉を聞いてきりりと眉を吊り上げた。


「あんな、どこぞの馬の骨の種で生まれたかも判らぬ娘! 図々しくもこの、由緒ある京嶌家に居座る居候! この家に認められて結婚をしたわたくしたちから生まれた子であるお前たちとは違います。……けがらわしい!」


「お母様、そのようなおっしゃりようは」


「――お見苦しい真似はおよしになったら、伯母様」

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