やがて煙と消えるまで
月見 夕
メイちゃん先生が死んだ
消毒液の人工的な臭いに、俺はもう一度溜息を吐いた。保健室の隙なく張り詰めた空気は苦手だ。それでもこうして授業中につい訪れてしまうのは、鬱屈な教室よりマシだから、に他ならなかった。
空気清浄機で清涼に保たれた空間には俺以外誰もいない――はずだったのだが。
俺は苛立ち混じりの溜息を吐き、伸びかけの黒髪を掻いた。
「それで? 何でまたそんなことになったのか教えてよ」
清潔なベッドに腰掛け、目の前に立つ養護教諭を見上げる。
「それは……その……」
彼女はしどろもどろになりながら何らかの弁明をしようとし、結局言葉にならず黙り込んだ。後頭部で一纏めにした栗毛はふるふると左右に揺れ、丸い瞳はバツが悪そうにきょろきょろと忙しなく泳いでいる。
白衣の彼女――
いや――だった。少なくとも昨日までは。
「どうして死んだりなんかしたの? メイちゃん先生」
芽衣子先生、通称メイちゃん先生は呆れる俺に目を伏せた。
◆
及川先生が亡くなった、と今朝のホームルームで伝えられ、朝の教室は大いにざわついた。
清廉な冬の朝がどよめくような驚嘆や悲鳴が各教室から響き、多感な年頃だからか泣き出す生徒もいた。
多感な年頃なのは俺も一緒だが、どこかそうしたクラスメイトの様子を冷ややかな目で見ざるを得なかった。
泣くほど、驚くほどにお前らはメイちゃん先生のことに興味もなかった癖に。無味乾燥とした学生生活に舞い込んだ、特級センセーショナルな話題にこぞって集る奴らが疎ましい。
臨時で職員会議があるらしく自習になってしまった一限に早々に見切りをつけ、俺はさっさと席を立った。
一人いなくなろうとする俺を咎める同級生はいない。友達なんて言葉は普段から無縁だ。
俺には他人より余計なものが視える。霊だとか強い思い残しだとか、生きてる人間の残りカスみたいなものが常に視界をよぎり、ぶつかり、日常に干渉してくる。
生きてる人間なんて面倒でしかない。ただ生命活動に勤しんでいるだけであらゆる感情が生まれ、そこらにばら蒔いて他人に波及する。
学校など感情の坩堝だ。誰それが好きだの憎いだの伝えられなかった想いだのといった思念が形を持って廊下を闊歩し、またその賑やかさを好んだ関係の無い死霊が集まる場所でもある。
そんなことを回想しているそばから、黒い人影が三階の廊下の窓を外から叩き、階段の踊場では犬とも猫ともつかない生き物が死んでいる。こんな人外の大渋滞を毎日目にする身にもなってほしい。
物心ついてからこうなのでさすがに慣れてはいるものの、誰にも共有できない疎外感のようなものは心の端にいつも引っかかっていた。誰かには言おうとは思わなかった。客観的に見て嫌だろ、そんな痛い奴。
だから少しでも誰も来ない場所にいたくて、教室じゃないどこかに逃げたくて、頻繁に保健室に足を運んでいた。
あまり他の生徒が寄り付かないそこにはいつも暇そうな養護教諭しかおらず、なぜ毎日訪れるのか等と面倒な追及をしてこなかったので都合が良かった。
メイちゃん先生は肩書きこそ教育者だったのだが、あまりそうしたことに動じない、というか他人の去就はどうでもいい人だった。
親身になって生徒の話を聞くでもなし、俺が来ようが煙草は吸うわ、携帯片手に彼氏にメッセージを送るわの好き放題。ヤニの臭いを嫌って他の生徒も寄り付かなかったのもあるかもしれない。
保健室の引き戸を開けば引き出しからマルボロの箱を出し、
「おはよ芦峯くん、煙草吸う?」
と声を掛けてくるのが常だった。どんな先生だよ。
ベッドで寝ようがサボろうがご自由に、の雰囲気にどこか居心地の良さを感じていた……のだが。
保健室の重たい木戸を引くと、いつもの煙草の臭いが鼻の奥で揺れる気がした。
◆
その先生が今や、俺の目の前で浮いている。
気まずそうに目を逸らす彼女越しに保健室の風景が透けていて、やっぱり担任が言っていた通りこの人は死んだのだ、と改めて理解せざるを得なかった。
先生は上目遣いでちらちらとこちらを見遣る。
「芦峯くん、本当に“視える人“だったんだね……」
「先生、最期まで信じてなかったんだね。はぁ、傷つくなぁ」
俺は大仰に肩を竦めてみせた。
いつだったか、確かにそんな話をしたことがあった。俺もそんな話をしたのは一時の気の迷いだと思うが、彼女はその時のことを覚えていたらしい。
メイちゃん先生は頭を抱えて叫ぶ。
「えーん、だって本当だと思わないじゃん! 普通信じないよ! 「遥か昔に卒業した生徒が廊下を歩いてる」とか「体育祭で手足の生えた臓物が列を成して押し寄せてる」とか宣う高校二年生、誰だって厨二病だと思うでしょ」
「痛々しいと思ってたわけね……」
思わぬカウンターパンチを食らった気分だ。これからは余計黙っておこうと心に決めた。
先生は頭を掻きむしり両手で顔を覆い、ぼそぼそと零す。
「死ぬならひっそりと死にたかったの……生前受け持ってた子に見つかると思わないじゃん……恥ずかしいよう……」
それはひた隠しにしてきたあられもない趣味を両親に見つけられた年頃の娘のような仕草だった。
いつも世間のあらゆる話を興味なさげに聞いていたクールな姿が嘘のようで、本来ならばお悔やみ申し上げる相手なのだろうが、俺は何だか堪えきれずに噴き出してしまった。
「まぁ良いじゃない。大丈夫だよメイちゃん先生、これからは俺がいつでも見つけてあげるよ」
にやりと笑う俺を、メイちゃん先生は恨めしそうに睨みつけた。
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