ノブさん

ヤン

第1話 いつも隣には……

「こんばんは、茉莉まりちゃん」

「また来たんですか?」


 私の隣には、向こう側が透けて見えるおばあさんがいる。最近、夜勤中によく見かける。


 その人は、首を振って、


「その言い方は何よ。可愛くないね」

「別に、可愛いと思われなくても大丈夫です」

「ここの職員、ひどいんだよ。私のこと、誰も見えないみたいなの」


 普通は見えません、と言ってやりたかったけど我慢した。一応、介護のプロだから、お年寄りに向かってそんなことは言わない。


「私の担当だった白井しらいくんだってさ。すぐそばにいるのに、気付かないんだよ。酷いね、あの子は」


 いや、だから、普通は見えないんだよ。言ってしまいそうになる自分を叱る。


「白井くん、前から思ってたけど、ちょっとのんびりしてるっていうか、気が利かないっていうか……」


 始まった。いつもこれだ。白井さんの悪口言うのがこの人……人ではないな。すでに人ではないこの存在の趣味なのだ。そして、私は何の関係もないのに、何故か延々とそれを聞かされる。何の因果だろう。


 そんなことを考えて、その存在の話を真面目に聞いていなかったら、すぐにバレて顔を顰めてきた。私は、へへっと笑って、


「すみません。聞いてませんでした。それで? 白井さんが何ですって?」


 聞き返したが、その存在はさらに不機嫌な表情になって、


「白井くんじゃないよ。今はね、シノちゃんの話をしてたんだよ。シノちゃんはどうしたんだい? 最近見かけないけど」

「シノちゃん?」


 って誰? 私が訳がわからず首を傾げていると、ますます苛ついた感じで、


「あんた、シノちゃんを知らないのかい? 役に立たないね」

「私、まだここの老人ホームで働くようになって、ようやく四カ月ですよ? 知らないことだらけで当たり前じゃないですか。誰ですか? シノちゃんって」


 不貞腐れたように言ってしまった私は、介護者失格だ。ま、介護者も人間なんで、たまには失敗もする。勘弁してもらおう。


「シノちゃんはね、この階の職員で、すごくいい子なんだよ。優しくて、いつも笑顔で。あの子が私の担当なら良かったのに。あんた、本当に知らないの?」


 私は深く頷き、「知りません」と言い、


「シノちゃんの名字は何ですか?」

「シノちゃんの名字? 篠原しのはらだよ」


 名字が呼び名になっていたのか。名前なのかと思った。


 その存在は、「えーっと……」と言ってから、


「確か、篠原由美ゆみだったと思うけど」


 私は少し考えてから、


「ホームにはいないと思いますけど。別の部署かもしれませんね」

「え? 異動したのかい?」

「知りません」


 本当に知らないんだから、仕方ない。


「それで? シノちゃんに何か用があるんですか? それとも、ただ心配しているんですか?」

「用があるんだよ。ここに連れてきてくれない? どうも私はここから動けなくて」


 地縛霊? そんな言葉が浮かんだ。何でこの存在は、ここから動けなくなったのだろう。


 そんなことを考えていると、その存在は、


「何で動けないのか不思議に思ってるのかい? そうだね。心残りがあるからかな」

「心残り?」

「だから、シノちゃんに会わせてって。話がしたいんだ」


 私は目をそらして、


「シノちゃん……あなたのこと、見えないかもしれませんよ。だって、担当だった白井さんにも見えないし。っていうか、見えるのは今のところ私だけですよ?」


 横目でその存在をそっと見ると、俯いていてがっかりしている感じだった。はっきり言い過ぎただろうか。


「あんたは正しいよ、茉莉ちゃん。でもさ、思いやりがないね」

「そうですよね。すみません」


 一応謝ってみる。その存在は顔を上げると、


「とにかくさ。会わせてよ。あんたが頼りなんだから。頼むよ」


 私はつい頷いて、「わかりました」と言ってしまったが、急に疑問が湧いてきた。この人……人じゃなかった……この存在の名前は何だ? 今まで何回も会って話しているのに、そういえば知らない。


 私は思い切って訊いてみた。


「あの……名前を教えてもらえますか」

「名前か。言ったこと、なかった?」

「聞いたことがないから、今お訊きしてます」


 その存在は、ハーッと大きく息を吐き出すと、


相田あいだノブ」


 私をじっと見つめながら名乗った。

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