寒夜の煙
上山陸来
寒夜の煙
冷たい風が頬を刺す。吐く息は白く、街灯の明かりに浮かぶ。男はコートの襟を立て、ポケットに手を突っ込んだまま歩いていた。手の中で指先が探していたのは、そこにないライターだった。
タバコが切れたことに気づいたのは数分前。吸い殻の山だけが残る灰皿を見つめながら、虚しさが胸に広がった。妻と別れてから、この静まり返った部屋が一層寒く感じられる。
「寒いな…」
独り言が空気に溶ける。この寒さで一服すれば、きっと心の底から満ち足りるだろう。そう思うとじっとしていられず、夜の街に出てきたのだった。
道端の木々は裸の枝を広げ、凍えた表情を作っている。ポケットの奥で手を握り直すたびに、手先の冷たさがじんわりと伝わる。それでも男は足を止めない。この数百メートル先に、小さなタバコ屋があるのだ。
通り過ぎる人影は寒さのせいか、皆足早に家路を急いでいる。男は時折すれ違う人々の顔をぼんやり眺めた。誰もが自分の温かい居場所に帰るのだろうと思うと、ふと心が冷える。彼には帰るべき家があった。だが、帰っても迎えるのは静まり返った部屋と、切れたタバコだけだった。
タバコ屋が見えてきた。古びた看板に小さな明かりが灯っている。ガラス越しに見える棚には、いろんな銘柄のタバコが並んでいる。男はポケットの大小様々な金属の中から小銭を出した。数える必要はない。今日買えるのは一番安い銘柄だと知っているからだ。
「こんばんは」
軋む音を立ててドアを開けると、店の奥から老婆が顔を出した。白髪交じりの髪をまとめ、古くて色褪せた赤い半纏を着ている。
「寒い夜だねぇ」
「ああ、本当に」
男は指差していつもの銘柄を頼んだ。老婆は慣れた手つきでタバコを男に渡す。小銭を受け取る彼女の手が少し震えているのが見えた。
「気をつけて帰りなさい」
「ああ、ありがとう」
店を出ると、再び冷たい風が吹き付けた。タバコを手にした安心感と、この寒さの中での味わいへの期待感が、男の足を軽くする。見当たらなかったはずの、冷たい金属のライターもコートのポケットから出てきたのか、指先でしっかりと握られていた。
遠回りになるのは気にも触れず、人気のない路地に入る。街灯の明かりから少し離れた場所で、彼は立ち止まった。震える手でタバコを一本取り出し、ライターで火をつける。
一口吸い込むと、肺に煙が広がる。冷えた体にじんわりと暖かさが戻ってくるようだ。見上げると、星がちらほらと瞬いていた。
「悪くないな」
白い息と煙が混じり、夜空に消えていく。ライターの金属音が寒夜に鳴り響く。男はその場に立ち尽くしながら、もう一本、タバコに火をつけた。
寒さの中で味わうこのひとときが、今の彼にとっての唯一の安らぎだった。
寒夜の煙 上山陸来 @riku_kamiyama
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