ヴァルハラ・ホライズン 〜追放された元令嬢は、開拓者クランマスターとして成り上がるようです〜
不乱慈
第一話:コンツェルン追放
セレジア・リングは父の執務室に足を踏み入れるたびに、いつも押しつぶされるような圧力を感じた。壁には歴史的な絵画がかかり、重厚な天然樫のデスクが中央に鎮座している。そして、まるで玉座を思わせるような赤い革張りのチェア。
そこに座すのは、やはり帝王だった。ゼニット・コンツェルン総帥──カシウス・リングは、冷めた眼差しで、部屋の中央に立つセレジアを見下ろしていた。
「セレジア。お前には失望したぞ。何度も私の警告を無視するとは……」
その冷徹な視線に、セレジアは一瞬目を伏せた。この男の恐ろしさは骨身に染みて知っている。支配と効率──それが父カシウスのすべてだ。
そんな男が、わざわざ時間を割いてまで、娘を執務室に呼びつけたのだ。これがただの説教で終わるはずがないと、セレジアは容易に察することができた。
「例のプロジェクトに、また圧力をかけたそうだな」
カシウスは机の上に、一冊にファイリングされた報告書を無造作に置いた。それは、セレジアが手配した内部監査の結果を示す書類の束だ。
強化兵士計画――彼女の妹、ソフィアが主導しているプロジェクトに対して、セレジアはその倫理性を疑問視し、何度も介入を試みたのだった。
「あれは我が社の名誉と信頼を汚すことになると、私は何度も申し上げました」
セレジアの声には決意があったが、カシウスは微動だにせず、その冷徹な眼差しで彼女を見据えた。
彼の口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。それは嘲笑だった。
「名誉、信頼、道徳、倫理……そんなものは、弱者が縋る幻想に過ぎん」
カシウスは語る。娘の言葉が、愚かな夢想家の戯言に過ぎないとばかりに。
「つい先日も、海洋民兵どもが我が社の採掘プラントの一つを占拠した。なぜ奴らにはそんなことが出来る? 奴らが持っているものは何だ? 戦士としての名誉か? 搾取構造に立ち向かう理念か? いや、違うぞ」
彼は心底不快そうに、鼻で笑った。
「──ただの力だ。世を動かすのは純粋な力だけだと、あの害虫どもは知っているだけだ。ならば、それを上回る力で、我々がこの星に秩序をもたらす。あの『強化兵士計画』は、その為に必要な力だ」
「名誉なき力など、ただの暴力に過ぎません」
「暴力? 結構だ。ゼニット・コンツェルンは、強者であり続けるために手段を選ばぬ。我がリング家も然りだ。これを理解できない者は──不要だ」
カシウスの言葉は、冷たく突き放すものであった。
セレジアは、心が乱れそうになるのをどうにか堪える。
やがて、彼女は父に対して静かに問いかけた。
「それが、あなたの答えですか」
カシウスは深く息をつき、椅子にゆったりと背を預けた。
「お前には二度とリングの名を名乗らせるつもりはない。ゼニットの繁栄を阻む者は例外なく排除される──たとえそれが血を分けた娘であってもだ」
セレジアの胸が軋んだ。父が家族よりも企業の利益を優先することはわかっていた。しかし、それでも――。父の言葉を待つ。
そして、言葉は弾丸のように放たれた。
「お前を、リング家と、ゼニット・コンツェルンから追放する!」
セレジアはわずかに震える手を見つめ、深く息を吸った。
「承知いたしました」
「……餞別として、何でも一つくれてやる。それが企業都市であれ、プラントであれ構わん。お前がこの星で生き残るために、何が必要かは自身で判断するがよい」
セレジアは目を見開いた。彼が餞別を与えるなど、まさか考えもしなかったことだ。この間際に、わずかにでも父親としての情を取り戻したのだろうか。
彼女はしばし思案し、やがて静かに口を開いた。
「……それでは、強化兵士のアーキタイプを」
その瞬間、カシウスの顔に初めて微かな驚きが浮かんだ。
だが、それも一瞬のことで、彼はいつもの鉄仮面を取り戻す。
「ふん。
「そんなことはいたしません」
「ならば、あの失敗作を飼い育てるつもりか。どこまでも甘い。母親似だな」
「……ッ。貴方は、どうせ、もう顔も思い出せないでしょうに」
息が詰まりながらに吐いた皮肉に、父はどんな顔をしていただろうか。
セレジアにはもう、思い出すことができない……。
_____________________________________
「お嬢様……」
温かな声とともに、セレジアは意識を現実に引き戻された。
瞼をゆっくりと開けると、そこにはバートラム・チェスターの顔があった。年老いた執事は心配そうに彼女を見つめている。
セレジアはまだ、悪夢の続きを見ているのかと一瞬戸惑ったが、彼が纏う艦長服を見て、現実に戻ってきたことを自覚した。
彼女はカシウスの執務室ではなく、採掘艦「インスマス」号の艦内に居た。
「また……悪い夢を見ておられましたか?」
夢の余韻に囚われたまま、ぼんやりと天井を見つめた。船の揺れが微かに感じられ、外の海風が薄く、艦橋の隅のサロンに流れ込んでくる。穏やかな日暮れの潮風だ。
「……少し、居眠りをしてしまっただけですわ」
セレジアはそう言いながら、身を起こし、バートラムに微笑みを向けた。
その微笑みには疲れが滲んでいたが、穏やかな老執事は何も言わなかった。
「《ブルー・ブッチャー》のメンテナンスは終わったのですか?」
「はい。その報告をと思いまして」
「そうでしたのね……貴方には迷惑をかけてばかりだわ、バートラム」
「そんなことはございません、お嬢様。私の役目は、いつだってあなたをお守りすることですから」
バートラムの存在は、セレジアにとって何よりも温かかった。彼は、リング家に仕えてきた数十年の間、ずっと彼女を見守り続けてきた“家族”であり、彼女が家を追放された後でも、迷わずついていくことを決めた忠実な執事だ。
セレジアはふっと息を吐いて、紅茶のカップにそっと手を伸ばす。
カップが温かい。眠っている間に、彼が淹れなおしてくれたようだ。
「……目標海域まで、あとどのくらいかしら」
「はい、お嬢様。おおよそ……三時間でございます」
老執事は懐から銀の懐中時計を取り出し、答えた。
「作戦エリアに到着したら、すぐに作業を始めて頂戴」
「御意にございます。……いよいよですな」
「ええ。ここからですわよ、バートラム」
と、冷めた潮風が吹き、彼女の澄んだ銀色の髪がそよぐ。
サロンの開け放たれた窓からは、赤い夕陽が見えた。
「ここから始まるのですわ、私たちの戦いは。私は必ず、あの家を救ってみせる……」
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