〜出勤代行〜『あなたの代わりに出社します』
月亭脱兎
第1話 出勤地獄からの代行
朝6時半、等々力蓮司はスマートフォンのアラームを手探りで止めた。
疲れ切った体は、布団から起き上がることさえ拒んでいる。
窓の外では小鳥がさえずり、澄んだ空気が木々を揺らしていた。この美しい郊外の風景は、彼が思い描いた「理想の暮らし」そのものだった。
だが今、その理想は日々の現実に押しつぶされつつあった。
「もう朝かよ……」
3年前、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めたとき、蓮司の勤める会社は全社員のリモートワークを導入した。
「これからの働き方は変わる」
「出勤の必要がない職場環境を目指す」
という会社方針は、当時の蓮司にとって福音だった。
通勤地獄から解放され、ネットさえ繋がっていればどこでも仕事ができる。蓮司はその言葉を信じ、思い切って自然豊かな郊外にマイホームを建てる決断をしたのだ。
これからは都会の喧騒から離れ、静かな環境で仕事に集中する生活は快適だった。何もかもが順調だった。
だが、その「リモートワーク時代」は突然終わりを告げた。
先月、会社が全社員に対して「原則出社」を命じたのだ。理由は「社員同士の対話を活性化させ、創造的な仕事を生むため」だという。
上司のその言葉は、郊外に家を建てた蓮司にとって、現実をまるで考慮していないように響いた。
「これ、冗談だよな?」
蓮司はその時、そう呟くしかなかった。しかし命令は絶対であり、違反すれば降格や解雇の可能性もある。新築の家のローンを抱える身として、逆らうことなどできなかった。
朝の電車は地獄だった。片道2時間、乗り換えは3回、どの区間も混雑率は100%を超える。満員電車の中で蓮司は吊り革を掴みながら、周囲の乗客と肩をぶつけ合い、窓の外に流れる単調な景色を眺めていた。
「なんでこんなことに……」
通勤時間が長すぎるため、家を出るのは6時45分。職場に着くのは朝9時。終業後にまた2時間かけて帰宅すれば、自宅に戻れるのは夜10時近くだ。
帰宅してすぐにシャワーを浴びて寝る毎日。趣味の時間はおろか、家族とゆっくり話をすることさえできなくなった。庭に雑草が生え放題になっていても、手を付ける気力が湧かない。
せっかく建てたマイホームが、もはや「寝るためだけの箱」になり果てていることが、蓮司には痛いほどわかっていた。
朝礼で上司は「最近、みんな疲れが見えるな。出社をきっかけにリフレッシュしてくれ」と軽く言ったが、蓮司にとってそれは苛立ちを募らせるだけの言葉だった。
「リフレッシュどころか、疲労が増してるんだよ……!」
実際、出社して変わったのは会議の回数が増えたことくらいで、生産性はリモートワークの頃に比べて下がる一方だった。それでも蓮司は歯を食いしばり、上司の命令に従うしかなかった。
帰りの電車を待つホームで、蓮司は深くため息をついた。座るベンチも見当たらず、疲れた足を引きずるように立ち尽くす。今日も仕事は散々だった。通勤時間を含めた16時間の拘束を経て、自分の中には何も残っていない。
ふと線路に目を向けると、電車がトンネルの向こうから迫ってくるのが見えた。頭の片隅で、妙な考えが芽生える。
――ここで終わらせてしまえば、楽になるのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎったその時、後ろから声がした。
「お辛そうですね、私が代わりに出社して差し上げましょうか?」
蓮司は驚いて振り向いた。そこには、自分と瓜二つの男が立っていた。
(続く)
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